「般舟三昧」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | 行文類に置ける「般舟三昧」の位置づけは、比叡山時代の御開山の修行を想起するに、口称の念仏(なんまんだぶ)と同値であろう。いわゆる見仏から聞仏への移行であり、それは法然聖人からお聞きした「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」という「仰せをかぶり」た「如是我聞」であった。御開山は「聞」ということを強調され、祖師方の言葉を引文することに依って『教行証文類』を著述されたのも如是我聞という姿勢を貫いたからだと思ふ。いわゆる観仏という眼見から[[聞見]]へ転じられたのであった。 | ||
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御開山の奥様である恵信尼公のお手紙(恵信尼消息)によれば、「殿(親鸞聖人)の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが」[[恵信尼消息#P--814|(*)]]と、御開山は比叡山におられた頃は堂僧であったとある。この堂僧とは、天台宗の祖である<kana>天台(てんだい)</kana>大師<kana>智顗(ちぎ)</kana> (538-597) の『<kana>摩訶(まか)</kana><kana>止観(しかん)</kana>』 に説かれる四種三昧のうちの一である。『<kana>般舟(はんじゅ)</kana><kana>三昧(ざんまい)</kana><kana>経(きょう)</kana>』の説によって九十日を一期として堂内に安置された阿弥陀仏のまわりを常に歩行し、その仏名を唱え、心に仏を念ずる般舟三昧の行法である。この念仏三昧の行法が完成すれば十方の諸仏をまのあたりに見る(諸仏現前)ことができるという。シナ浄土教の嚆矢である[[慧遠]]による廬山流念仏では、浄土への関心より現世での般舟三昧による見仏を目指す観法を重視し浄土に往生することを目的とするものではなかった。<br> | 御開山の奥様である恵信尼公のお手紙(恵信尼消息)によれば、「殿(親鸞聖人)の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが」[[恵信尼消息#P--814|(*)]]と、御開山は比叡山におられた頃は堂僧であったとある。この堂僧とは、天台宗の祖である<kana>天台(てんだい)</kana>大師<kana>智顗(ちぎ)</kana> (538-597) の『<kana>摩訶(まか)</kana><kana>止観(しかん)</kana>』 に説かれる四種三昧のうちの一である。『<kana>般舟(はんじゅ)</kana><kana>三昧(ざんまい)</kana><kana>経(きょう)</kana>』の説によって九十日を一期として堂内に安置された阿弥陀仏のまわりを常に歩行し、その仏名を唱え、心に仏を念ずる般舟三昧の行法である。この念仏三昧の行法が完成すれば十方の諸仏をまのあたりに見る(諸仏現前)ことができるという。シナ浄土教の嚆矢である[[慧遠]]による廬山流念仏では、浄土への関心より現世での般舟三昧による見仏を目指す観法を重視し浄土に往生することを目的とするものではなかった。<br> | ||
比叡山時代の御開山を覚如上人は、その著『嘆徳文』で「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ」といわれている。自らの心を鏡面のように穏やかにしようとしても煩悩の想いが動いて安らかではなく、さとりの月が心に至っているということを観じても、迷いの想いがさとりの月を距ててしまうのである、というのである。 | 比叡山時代の御開山を覚如上人は、その著『嘆徳文』で「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ」といわれている。自らの心を鏡面のように穏やかにしようとしても煩悩の想いが動いて安らかではなく、さとりの月が心に至っているということを観じても、迷いの想いがさとりの月を距ててしまうのである、というのである。 |
2016年11月13日 (日) 00:36時点における版
はんじゅざんまい
梵語プラテュトパンナ・ブッダ・サンムカーヴァスティタ・サマーディ(pratyutpanna-buddha-saſmukhāvasthita-samādhi)の訳。諸仏現前三昧・仏立三昧ともいう。この三昧を得れば、十方の諸仏をまのあたりに見ることができるという。(行巻 P.146)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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行文類に置ける「般舟三昧」の位置づけは、比叡山時代の御開山の修行を想起するに、口称の念仏(なんまんだぶ)と同値であろう。いわゆる見仏から聞仏への移行であり、それは法然聖人からお聞きした「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」という「仰せをかぶり」た「如是我聞」であった。御開山は「聞」ということを強調され、祖師方の言葉を引文することに依って『教行証文類』を著述されたのも如是我聞という姿勢を貫いたからだと思ふ。いわゆる観仏という眼見から聞見へ転じられたのであった。
御開山の奥様である恵信尼公のお手紙(恵信尼消息)によれば、「殿(親鸞聖人)の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが」(*)と、御開山は比叡山におられた頃は堂僧であったとある。この堂僧とは、天台宗の祖である
比叡山時代の御開山を覚如上人は、その著『嘆徳文』で「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ」といわれている。自らの心を鏡面のように穏やかにしようとしても煩悩の想いが動いて安らかではなく、さとりの月が心に至っているということを観じても、迷いの想いがさとりの月を距ててしまうのである、というのである。