聞見

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もんけん

眼見に対する語。
自らの眼で見て明らかに認知することを眼見(げんけん)、聞いて理解し信知(しんち)することを聞見(もんけん)という。
『涅槃経』に「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。」(真巻 P.356)とあり、諸仏は一切衆生の仏性(ぶっしょう)を、手のひらの上にのせた阿摩勒菓(あまろくか)(アーマラカ)を見るようにはっきりと知ることができる。しかし十住(涅槃経では十住は十地とする)以前の菩薩等は、仏の教法を聞くことで自らの仏性(仏に成ること)を知ることができるので聞見(聞いて知る)という。

浄土真宗では、この聞見によって自らの仏性を信知(信じ知ること)することを信心仏性(しんじんぶっしょう)という。
(もん)」とは、阿弥陀仏の救いの法である、十方の諸仏が讃嘆する名号を、衆生が自ら称えて聞くことを「聞」という。元来、第十七願は、阿弥陀如来が諸仏に我が名を称せさせようという仏の行である。声聞や縁覚、菩薩の行ですらない、仏の行を顕わす願が大悲の願より出でた第十七願である。
この仏の作す仏の行を、衆生の行を顕わした願であるとされたのが御開山であった。第十八願の「乃至十念」の根拠を『観経』の下品下生の「具足十念 称南無阿弥陀仏(十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ)」ではなく真実経である『無量寿経』の教説に依られたのである。御開山は『観経』の教説に隠顕を見られたからである。『無量寿経』の第十七願には、

設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚。
たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。

とあり、前述したように「十方世界 無量諸仏」に誓われた願である。それをあえて「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」と、大行とされたところに御開山の発揮があるのである。御開山が比叡山時代に学んだ『摩訶止観』でも大行を説く。しかし、それはあくまで人間の行であった。そのような行と全く次元が違う諸仏の行と同じ行が、なんまんだぶを称え聞くという大行であった。
このような発想は、法然聖人の『三部経大意』や聖覚法院の『唯信鈔』に於ける第十七願観によるのである。この第十七願観を本願力回向という『論註』の概念で包み込み「大行者 則称無礙光如来名(大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり)」と定義されたのであった
この諸仏の行である、なんまんだぶを称えて聞くということは、あらゆる煩悩の寂滅した阿弥陀仏の悟りの浄土へ往生し成仏せしめられることを信じよろこぶことをいう。『無量寿経』の本願成就文には「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。)」(大経P.41)とある。
浄土真宗では、称即信(しょうそくしん)(名号を称えること即信心)とか、聞即信(もんそくしん)(聞くことは即信心)などといい、聴聞(ちょうもん)という阿弥陀仏の願いを聞くことをすすめるのは、阿弥陀仏の本願の生起(しょうき)(願いを起こされたわけ)とその躍動している救済のはたらき(本末)を聞信(もんしん)することを最も重要とするからである。
親鸞聖人はこのような聞である信を「言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。(聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。)」(信巻 P.251)と解釈され、〈聞〉によって〈信〉(無有疑心)をあらわされるのである。これが浄土真宗の聞である信であるから、本願力回向の行信というのであった。

参照:『涅槃経』師子吼菩薩品之二