「無分別智」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | 無分別心(むふんべつしん) | + | <kana>無分別心(むふんべつしん)</kana>、<kana>真智(しんち)</kana>、<kana>根本智(こんぽんち)</kana>ともいう。 |
正しく真如を体会する智慧をいう。<br> | 正しく真如を体会する智慧をいう。<br> | ||
− | + | [[真如]]は一切の相を離れており、分別することのできないものであるから、これによって分別と言う精神作用では真如の体性を会得することができない。対象を客体化して、知るものと知られるものとの対立を超越した認識や分析する分別を超えた絶対知を無分別智という。一切の情念の分別を離れた無相の真実の智慧によってのみ会得されるものである。 | |
:もし、人間が体会した智が、その智を起したものと異ならなくて、平等が平等に生起したものであるならば、これを無分別智と名づける。 〔摂大乗論 12〕 | :もし、人間が体会した智が、その智を起したものと異ならなくて、平等が平等に生起したものであるならば、これを無分別智と名づける。 〔摂大乗論 12〕 | ||
:無分別心は、体と相応するものである。 〔大乗起信論〕 | :無分別心は、体と相応するものである。 〔大乗起信論〕 | ||
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2017年4月30日 (日) 16:47時点における版
むふんべつち
正しく真如を体会する智慧をいう。
真如は一切の相を離れており、分別することのできないものであるから、これによって分別と言う精神作用では真如の体性を会得することができない。対象を客体化して、知るものと知られるものとの対立を超越した認識や分析する分別を超えた絶対知を無分別智という。一切の情念の分別を離れた無相の真実の智慧によってのみ会得されるものである。
- もし、人間が体会した智が、その智を起したものと異ならなくて、平等が平等に生起したものであるならば、これを無分別智と名づける。 〔摂大乗論 12〕
- 無分別心は、体と相応するものである。 〔大乗起信論〕