「凡数の摂」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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しかし、二門偈では本願にあいえた凡夫を「'''この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。'''」とされ、凡夫を讃嘆する意味に転じておられる。 | しかし、二門偈では本願にあいえた凡夫を「'''この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。'''」とされ、凡夫を讃嘆する意味に転じておられる。 | ||
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2017年8月13日 (日) 14:39時点における版
ぼんじゅのしょう
凡夫の仲間。(信巻 P.216, 二門 P.550、序分義 P.393)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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信巻と入出二門偈で意味が逆転している事に注意。林遊
信巻では「この五濁・五苦等は六道に通じて受けて、いまだなきものはあらず。つねにこれに逼悩す。もしこの苦を受けざるものは、すなはち凡数の摂にあらざるなり」のように、煩悩により苦悩している者を「凡数の摂」(ここでは摂はおさめるという意)とし、その凡数を摂取するものが本願であると示される。
しかし、二門偈では本願にあいえた凡夫を「この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。」とされ、凡夫を讃嘆する意味に転じておられる。