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「第十八願」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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『大無量寿経』に説かれる四十八願の第十八番目の「至心信楽の願」をいう。衆生(=生きとし生けるもの)を浄土へ往生させて、さとりを得させようと誓う第十八願である。仏教の目的は釈尊と同じさとりを獲ることであり、浄土教の歴史は、この第十八願を基底とし立脚し、さとりをめざす仏教である。<br />
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親鸞聖人は、
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この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。
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と、念仏往生の願、選択本願、本願三心の願、至心信楽の願、往相信心の願とされた。
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『大無量寿経』の願文。
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;原文:
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<kana>設我得仏(せつが-とくぶつ)</kana> <kana>十方衆生(じっぽう-しゅじょう)</kana> <kana>至心信楽(ししん-しんぎょう)</kana> <kana>欲生我国(よくしょう-がこく)</kana> <kana>乃至十念(ないし-じゅうねん)</kana>。<kana>若不生者(にゃくふ-しょうじゃ)</kana> <kana>不取正覚(ふしゅ-しょうがく)</kana>。<kana>唯除五逆(ゆいじょ-ごぎゃく )</kana><kana>誹謗正法(ひほう-しょうぼう)</kana>。
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;訓点:<br>
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設我得<k>レ</k>仏 十方衆生 至心信楽 欲<k>レ</k>生<k>二</k>我国<k>一</k> 乃至十念。若不<k>レ</k>生者 不<k>レ</k>取<k>二</k>正覚<k>一</k>。唯除<k>二</k>五逆誹謗正法<k>一</k>。
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;読下し:<br>
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たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。
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もし生ぜずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
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;現代語:<br>
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わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを<kana>謗(そし)</kana>るものだけは除かれます。
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;意 訳<br>
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たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとし生ける全てのものが、ほんとうに(至心)疑いなく(信楽)私の国に生まれる事が出来るとおもうて(欲生我国)、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら(乃至十念)生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら(若不生者)、私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がない(不取正覚)のだ。

2017年10月31日 (火) 17:01時点における版

 至心信楽(ししんしんぎょう)の願。(大経 P.18)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『大無量寿経』に説かれる四十八願の第十八番目の「至心信楽の願」をいう。衆生(=生きとし生けるもの)を浄土へ往生させて、さとりを得させようと誓う第十八願である。仏教の目的は釈尊と同じさとりを獲ることであり、浄土教の歴史は、この第十八願を基底とし立脚し、さとりをめざす仏教である。
親鸞聖人は、

この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。

と、念仏往生の願、選択本願、本願三心の願、至心信楽の願、往相信心の願とされた。

『大無量寿経』の願文。

原文:

設我得仏(せつが-とくぶつ) 十方衆生(じっぽう-しゅじょう) 至心信楽(ししん-しんぎょう) 欲生我国(よくしょう-がこく) 乃至十念(ないし-じゅうねん)若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく)唯除五逆(ゆいじょ-ごぎゃく )誹謗正法(ひほう-しょうぼう)

訓点:

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲我国 乃至十念。若不生者 不正覚。唯除五逆誹謗正法

読下し:

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

現代語:

わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを(そし)るものだけは除かれます。

意 訳

たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとし生ける全てのものが、ほんとうに(至心)疑いなく(信楽)私の国に生まれる事が出来るとおもうて(欲生我国)、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら(乃至十念)生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら(若不生者)、私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がない(不取正覚)のだ。