「真・仮・偽」の版間の差分
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− | + | 御開山は、あらゆる宗教現象を真・仮・偽の三分類法でみておられた。真実と方便と邪偽である。『教行証文類』では教・行・信・証・真仏土の五巻を真実とし、「化身土巻」の前半では仮である方便(要門、真門、聖道門)、後半では偽である邪義の宗教について述べておらる。 偽の宗教とは人の欲望や煩悩を増大し満足させる宗教を偽の宗教とみておられた。このような欲望を肯定し煩悩を煽るような偽なる宗教に対して、八聖道や六波羅蜜という苦の原点である煩悩を滅却する道として聖道門仏教を位置づけられたのであった。その意味では聖道門は単に廃捨するものではなく、邪義に迷っている者を聖道門の説く正しい生き方へ誘引するという意味がある。聖道門仏教をもって邪義なる宗教に対判しておられるのであった。<br /> | |
しかし邪義なる外道から聖道門仏教へ入ったのだが、真実なる道を求めようとすればするほど、内なる奔放する煩悩に打ちひしがれていく。観念論ではなく実践の道に立った者が遭遇する陥穽であった。道綽禅師はこの難に対して、 | しかし邪義なる外道から聖道門仏教へ入ったのだが、真実なる道を求めようとすればするほど、内なる奔放する煩悩に打ちひしがれていく。観念論ではなく実践の道に立った者が遭遇する陥穽であった。道綽禅師はこの難に対して、 | ||
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:大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。 ([[安楽集 (七祖)#P--241|安楽集 P.241]]) | :大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。 ([[安楽集 (七祖)#P--241|安楽集 P.241]]) | ||
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と、聖道門仏教の他に往生浄土という浄土門仏教を示された。これは直接には龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の、 | と、聖道門仏教の他に往生浄土という浄土門仏教を示された。これは直接には龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の、 | ||
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:仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。 ([[十住毘婆沙論 (七祖)#no3|十住毘婆沙論 P.6]]) | :仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。 ([[十住毘婆沙論 (七祖)#no3|十住毘婆沙論 P.6]]) | ||
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の文を解釈された曇鸞大師が難行の五由をあげ、 | の文を解釈された曇鸞大師が難行の五由をあげ、 | ||
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:五にはただこれ自力にして他力の持つなし。 | :五にはただこれ自力にして他力の持つなし。 | ||
:かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。 | :かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。 | ||
− | :「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。 | + | :「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。 ([[浄土論註 (七祖)#no1|論註P.47]]) |
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とされた「五にはただこれ自力にして他力の持つなし」という語に道綽禅師は深い感銘をうけられ、仏教を聖道門と浄土門に二分されたのであろう。御開山が正信念仏偈で道綽禅師の釈功として。 | とされた「五にはただこれ自力にして他力の持つなし」という語に道綽禅師は深い感銘をうけられ、仏教を聖道門と浄土門に二分されたのであろう。御開山が正信念仏偈で道綽禅師の釈功として。 | ||
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と讃嘆されれる所以である。教学的には、あまり評価されることが少ない道綽禅師だが法然聖人は『選択集』の冒頭に、 | と讃嘆されれる所以である。教学的には、あまり評価されることが少ない道綽禅師だが法然聖人は『選択集』の冒頭に、 | ||
− | :道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する文。 | + | {{Inyou| |
+ | :道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する文。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1183|選択本願念仏集(P.1183]]) | ||
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と、されて浄土宗の独立の根拠とされておられる。<br /> | と、されて浄土宗の独立の根拠とされておられる。<br /> | ||
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− | + | 邪義の外道から聖道門を経て浄土門へ入ったのだが、[[選択本願]]の念仏の行ではなく聖道門の行体(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土へ往生しようとする行者のための方便の願。此土入聖の聖道の行体をもって往生を願うのが第十九願である。(発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国) | |
− | + | 第二十願は、そのような十九願の行者が、やがて善本・徳本の名号の功徳性に気づいて聖道の行である菩提心 修諸功徳を捨てて念仏をする者の願である。しかし、念仏を自らの修する善根であると取り違えて行じているから仮という。<br /> | |
− | + | 名号は、直ちに成仏しうる他力真実の阿弥陀仏から回向される法であるが、受けとる機が自力疑心をまじえるために、自力念仏という方便になるのである。 | |
− | + | ともあれ、御開山は、真・仮・偽という三つの概念を持ってあらゆる宗教現象というものを説明する。つまり仮なる聖道門によって邪偽の宗教を教戒して仏教へ引き入れ、最終的には[[誓願一仏乗]]の第十八願へ入らしめるのである。その意味では聖道門は単に廃捨するものではなく、邪義に迷っている者を聖道へ誘引するという意味があり、やがてそれをも包んでいくような雄大な教義体系が[[誓願一仏乗]]といわれる大乗の至極の浄土真宗である。 | |
− | + | 末法の時代で行証久しく廃れているにもかかわらず、行じて証しようとするから仮の法門といわれ、真実の聖道とは往生成仏の後に[[還相]]の菩薩が行じるものであるとされたのである。その意を御消息で、 | |
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+ | :聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。([[消息上#P--736|御消息 P.736]]) | ||
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+ | ちなみにアインシュタインは、無宗教の立場から宗教現象を「盲目の宗教」「正義の宗教」「宇宙の宗教」と分類し、神学者の岸本英夫氏は、「請願態」「希求態」「諦住態」と、三分類で宗教現象を語ったそうだが、御開山の「真・仮・偽」論の三分類法は、このような発想に先行するものなのであった。 | ||
2017年11月29日 (水) 13:54時点における版
真・仮・偽
御開山は、あらゆる宗教現象を真・仮・偽の三分類法でみておられた。真実と方便と邪偽である。『教行証文類』では教・行・信・証・真仏土の五巻を真実とし、「化身土巻」の前半では仮である方便(要門、真門、聖道門)、後半では偽である邪義の宗教について述べておらる。 偽の宗教とは人の欲望や煩悩を増大し満足させる宗教を偽の宗教とみておられた。このような欲望を肯定し煩悩を煽るような偽なる宗教に対して、八聖道や六波羅蜜という苦の原点である煩悩を滅却する道として聖道門仏教を位置づけられたのであった。その意味では聖道門は単に廃捨するものではなく、邪義に迷っている者を聖道門の説く正しい生き方へ誘引するという意味がある。聖道門仏教をもって邪義なる宗教に対判しておられるのであった。
しかし邪義なる外道から聖道門仏教へ入ったのだが、真実なる道を求めようとすればするほど、内なる奔放する煩悩に打ちひしがれていく。観念論ではなく実践の道に立った者が遭遇する陥穽であった。道綽禅師はこの難に対して、
- 大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。 (安楽集 P.241)
と、聖道門仏教の他に往生浄土という浄土門仏教を示された。これは直接には龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の、
- 仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。 (十住毘婆沙論 P.6)
の文を解釈された曇鸞大師が難行の五由をあげ、
- 五にはただこれ自力にして他力の持つなし。
- かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。
- 「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。 (論註P.47)
とされた「五にはただこれ自力にして他力の持つなし」という語に道綽禅師は深い感銘をうけられ、仏教を聖道門と浄土門に二分されたのであろう。御開山が正信念仏偈で道綽禅師の釈功として。
- 「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入(道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす)」(行巻 P.206)
と讃嘆されれる所以である。教学的には、あまり評価されることが少ない道綽禅師だが法然聖人は『選択集』の冒頭に、
- 道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する文。 (選択本願念仏集(P.1183)
と、されて浄土宗の独立の根拠とされておられる。
さて、此土入聖の聖道門から彼土得証の浄土門に入ったのだが聖道の習い性としての習気があるので、聖道門の行体(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土へ往生しようと願う行者の為の方便の願を建てられた。行為(業)は願いによってその意味を転ずるので「業は願によって転ずる」という。それが、此土入聖の聖道の行体をもって往生を願わしめる第十九願である。
邪義の外道から聖道門を経て浄土門へ入ったのだが、選択本願の念仏の行ではなく聖道門の行体(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土へ往生しようとする行者のための方便の願。此土入聖の聖道の行体をもって往生を願うのが第十九願である。(発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国)
第二十願は、そのような十九願の行者が、やがて善本・徳本の名号の功徳性に気づいて聖道の行である菩提心 修諸功徳を捨てて念仏をする者の願である。しかし、念仏を自らの修する善根であると取り違えて行じているから仮という。
名号は、直ちに成仏しうる他力真実の阿弥陀仏から回向される法であるが、受けとる機が自力疑心をまじえるために、自力念仏という方便になるのである。
ともあれ、御開山は、真・仮・偽という三つの概念を持ってあらゆる宗教現象というものを説明する。つまり仮なる聖道門によって邪偽の宗教を教戒して仏教へ引き入れ、最終的には誓願一仏乗の第十八願へ入らしめるのである。その意味では聖道門は単に廃捨するものではなく、邪義に迷っている者を聖道へ誘引するという意味があり、やがてそれをも包んでいくような雄大な教義体系が誓願一仏乗といわれる大乗の至極の浄土真宗である。
末法の時代で行証久しく廃れているにもかかわらず、行じて証しようとするから仮の法門といわれ、真実の聖道とは往生成仏の後に還相の菩薩が行じるものであるとされたのである。その意を御消息で、
- 聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。(御消息 P.736)
とされておられた。 ちなみにアインシュタインは、無宗教の立場から宗教現象を「盲目の宗教」「正義の宗教」「宇宙の宗教」と分類し、神学者の岸本英夫氏は、「請願態」「希求態」「諦住態」と、三分類で宗教現象を語ったそうだが、御開山の「真・仮・偽」論の三分類法は、このような発想に先行するものなのであった。