「とききて候ふ」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。[[菓子]]の中にすき物あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。([[hwiki:和語灯録#P--683| 和語灯録p.683]]) | :又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。[[菓子]]の中にすき物あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。([[hwiki:和語灯録#P--683| 和語灯録p.683]]) | ||
− | + | とある。法爾道理とは『瑜伽師地論』の四種道理の一、法爾道理(法然道理ともいう。火に熱さがあるように、あるがままのすがたで不変の本性を完成しているという道理)をいうのであろう。また法然聖人は | |
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+ | ともいわれている。 | ||
《然》とは、燃の原字であり火がもえるという意。借りて「是認」の意をしめし、和語では、しかある・そうである、そのような状態であるという意で「しかり」と訓む。法然聖人が示されたように《爾》もまた、しかある、しかり、という意味である。 | 《然》とは、燃の原字であり火がもえるという意。借りて「是認」の意をしめし、和語では、しかある・そうである、そのような状態であるという意で「しかり」と訓む。法然聖人が示されたように《爾》もまた、しかある、しかり、という意味である。 |
2017年12月8日 (金) 14:49時点における版
とききてそうろふ
法然上人から伝え聞いた法義であるから、「とききて候ふ」という。 (正像 P.621,消息 P.769)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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『和語灯録』諸人伝説の詞に、
- 又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。菓子の中にすき物あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。( 和語灯録p.683)
とある。法爾道理とは『瑜伽師地論』の四種道理の一、法爾道理(法然道理ともいう。火に熱さがあるように、あるがままのすがたで不変の本性を完成しているという道理)をいうのであろう。また法然聖人は
- 「しかるに源空は、させる因縁もなくして法爾法然と道心をおこすがゆへに、師匠名をさづけて法然となづけ給ひし也」( 和語灯録p.679)
ともいわれている。
《然》とは、燃の原字であり火がもえるという意。借りて「是認」の意をしめし、和語では、しかある・そうである、そのような状態であるという意で「しかり」と訓む。法然聖人が示されたように《爾》もまた、しかある、しかり、という意味である。 御開山はこの《然》と《爾》の漢字を「しからしむ」と使役で読まれ、「自然」という漢語を、
- 「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。
- 「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。
と読まれた。
本来ならば「自然」は「おのづからしかる」という意味で「しからしむ」などとは読めないのだが、「しからしむ」と読むことによって、自然という言葉に阿弥陀如来の本願力のはたらきを示そうとされたのである。このような発想は日本人の持つ、自然に抱(いだ)かれているという自然観を思わせるとともに『無量寿経』に五十数箇ある自然という語との関係を想起させる。いわゆる「願力自然」、「無為自然」、「業道自然」の自然である。また「真仏土巻」で引文されておられる性功徳釈で、浄土の本質・本性を「また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり」(真巻 P.358)とある「必然の義」という語の意から、然をしからしむと読まれたのであろう。
面白いのは、自然という語(ことば)は使っていないが、同じような自然という発想をされたのが越前の山に入り「只管打坐(しかんたざ)」されたのが道元禅師である。
- たたし心をもてはかることなかれ。ことはをもていふことなかれ。たたわか身をも。心をも。はなちわすれて。佛のいへになけいれて。佛のかたよりおこなはれて。これにしたかひもてゆくとき。ちからをもいれす。こころをも。つひやさすして。生死をはなれ佛となる。(『正法眼蔵』生死の巻「原カタカナ」)[1]
表現の形式こそ違うのだが、同じことをいわれているのだなと、只管(ひたすら)、なんまんだぶを称えるのも、いいものである。一向(ひたすら)専念無量寿仏である。