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「択瑛法師」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
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ちゃくえいほっし
 
ちゃくえいほっし
  
 (1045ー1099)北宋代の天台宗の僧。『<ruby><rb>楽邦文類</rb><rp>(</rp><rt>らくほうもんるい</rt><rp>)</rp></ruby>』(四)の「<ruby><rb>弁横竪二出文</rb><rp>(</rp><rt>べんおうじゅにしゅつもん</rt><rp>)</rp></ruby>」は親鸞聖人の<ruby><rb>[[二双四重]]</rb><rp>(</rp><rt>にそうしじゅう</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>判釈</rb><rp>(</rp><rt>はんじゃく</rt><rp>)</rp></ruby>の参考となった。([[嘆徳文#P--1078|嘆徳文 P.1078]])
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択瑛法師ノートから転送
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2018年5月19日 (土) 22:42時点における最新版

ちゃくえいほっし

 (1045ー1099)北宋代の天台宗の僧。『楽邦文類(らくほうもんるい)』(四)の「弁横竪二出文(べんおうじゅにしゅつもん)」は親鸞聖人の二双四重(にそうしじゅう)判釈(はんじゃく)の参考となった。(嘆徳文 P.1078)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

択瑛法師ノートから転送

『樂邦文類』弁横竪二出文

辨横竪二出 桐江法師擇瑛(弁横竪二出 桐江法師択瑛)
 桐江の法師択瑛、横竪二出を弁ず。

竪出者。聲聞修四諦。縁覺修十二因縁。菩薩修六度萬行。此渉地位。
竪出とは、声聞は四諦を修し、縁覚は十二因縁を修し、菩薩は六度万行を修してこの地位を渉(わた)る。
譬如及第。須自有才學。又如歴任轉宮。須有功効。
たとへば及第の、すべからく自に才覚あるべきがごとし。また歴任転官のすべからく功効あるがごとし。
横出者。念佛求生淨土。譬如蔭叙功由祖父他力。不問學業有無。
横出とは、念仏して浄土に生ずることを求む。たとへば蔭叙の功は祖父の他力に由り、学業の有無を問わざるがごとし。
又如覃恩普轉。功由國王。不論歴任淺深。
また覃恩[1]、普転して功 国王に由って歴任の浅深を論ぜざるがごとし。
於横出中。有定散二善。故善導和尚立專雜二修。
横出の中において、定散の二善あり。故に善導和尚は専雑二修を立つ。
雜修者。謂散漫修諸善業。迴向莊嚴也。
雑修とは、謂く散漫に諸の善業を修し、荘厳に迴向するなり。
專修者。身須專禮阿彌陀佛。不雜餘禮。
専修の者は、身に須く専ら阿弥陀仏を礼すべし。余礼を雑えず、
口須專稱阿彌陀佛。不稱餘號。不誦餘經呪。
口に須く専ら阿弥陀仏を称し、余号を称せず、余経呪を誦せず。
意須專想阿彌陀佛。不修餘觀。若專修者。十即十生百即百生。
意 須く専ら阿弥陀仏を想すべし。余観を修せず、もし専修の者は十即十生 百即百生なり。
若雜修者。百中或得一兩人生。千中或得三五人生。
もし雑修の者は、百中に或いは一 両人、〔往〕生を得、千中に或いは三五人、〔往〕生を得。
今見世人。有一日禮阿彌陀佛 三千拜者。日稱阿彌陀佛十萬聲者。有晝夜習坐 專想阿彌陀佛者。並有感應。斯可驗也。
今、世人を見るに、一日阿弥陀仏を礼し三千拝する者、日に阿弥陀仏を称えること十万声の者、昼夜習坐[2]、専ら阿弥陀仏を想する者あらば。並に感応あり、斯れ験(しるし)なるべし。

  1. 覃恩(たんおん):天子が賞賜などの恩恵をほどこすこと。
  2. 習坐。ここの習は繰り返しの意で、幾たびも仏前に座してのこと。