「仏法をあるじとし…」の版間の差分
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+ | 『観経』には[[至誠心]]・[[深心]]・[[回向発願心]]の三心が説かれているが、[[煩悩具足]]のわれらにとれば、おこる煩悩をまらうど('''稀人・客人''')として念仏(なんまんだぶ)をもうすことをあるじ('''主体''')とすべきだとされる。凡夫にとってどうすることも出来ない、おこるべき煩悩に往生の[[得否]]を尋ねるよりも、必ず救うという称えられ聞える念仏(なんまんだぶ)をあるじとせよのお示しであった。それが、『蓮如上人御一代記聞書』に、 | ||
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2018年11月18日 (日) 23:10時点における版
ぶっぽう
法然上人の『和語灯録』二に「煩悩をば心のまら
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
といへり、とあることから、『和語灯録』七箇条起請文に、
- 浄土宗の人は、三心のやうをよくよく心えて念仏すべき也。三心の中に、ひとつもかけなば往生はかなふまじき也。三心具足しぬれば往生は無下にやすくなるなり。すべてわれらが輪廻生死のふるまひは、ただ貪瞋痴の煩悩の絆によりて也。貪瞋痴おこらば、なを悪趣へゆくべきまどひのおこりたるぞと心えて、是をとどむへき也。
- しかれどもいまだ煩悩具足のわれらなれば、かくは心えたれどもつねに煩悩はおこる也。おこれども煩悩をば心のまらう人とし念仏をば心のあるじとしつれば、あながちに往生をはさへぬ也。煩悩を心のあるじとして念仏を心のまらう人とする事は、雑毒虚仮の善にて往生にはきらはるる也。詮ずるところ、前念後念のあひだには、煩悩をまじふといふとも、かまへて南無阿弥陀仏の六字の中に、貪等の煩悩をおこすまじき也。 (七箇条起請文 p.603)
の文からの引用であろう。
法然聖人は、至誠心を、定善・散善・弘願の三種に分けて、総の至誠心(自力の至誠心) と別の至誠心(他力の至誠心) の二種をみておられた。→(三部経大意) それが、
- もしかの釈のごとく、一切の菩薩とおなじく諸悪をすて行住座臥に真実をもちゐるは悪人にあらず、煩悩をはなれたるものなるべし。 →(三部経大意)
という考察であった。この意を正確に承けられたのが御開山の「至誠心釈」であった。(信巻 P.216)
『観経』には至誠心・深心・回向発願心の三心が説かれているが、煩悩具足のわれらにとれば、おこる煩悩をまらうど(稀人・客人)として念仏(なんまんだぶ)をもうすことをあるじ(主体)とすべきだとされる。凡夫にとってどうすることも出来ない、おこるべき煩悩に往生の得否を尋ねるよりも、必ず救うという称えられ聞える念仏(なんまんだぶ)をあるじとせよのお示しであった。それが、『蓮如上人御一代記聞書』に、
- 仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと[云々]。(一代記 P.1281)
というお示しであろう。