「六即」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
細 (新しいページ: '天台の六即 『摩訶止觀』卷第一下で、修行の過程を六つの位に分けて説く。浄土系の諭書にも散見される言葉なのでUPしておく。<...') |
|||
6行目: | 6行目: | ||
爲此事故 須知六即。謂'''理即。名字即。觀行即。相似即。分眞即。究竟即'''。<br> | 爲此事故 須知六即。謂'''理即。名字即。觀行即。相似即。分眞即。究竟即'''。<br> | ||
此六即者。始凡終聖。始凡故除疑怯。終聖故除慢大 云云 | 此六即者。始凡終聖。始凡故除疑怯。終聖故除慢大 云云 | ||
− | + | :若し信無くば、高く聖境を推して己の智分に非ずとし、若し智なくば、増上慢を起して己れ仏に均しと謂う。初後倶に非なり。此の事の為の故に須く六即を知るべし。<br> | |
− | 若し信無くば、高く聖境を推して己の智分に非ずとし、若し智なくば、増上慢を起して己れ仏に均しと謂う。初後倶に非なり。此の事の為の故に須く六即を知るべし。<br> | + | :謂く理即、名字即、觀行即、相似即、分眞即、究竟即なり。<br> |
− | 謂く理即、名字即、觀行即、相似即、分眞即、究竟即なり。<br> | + | :此の六即は凡に始まり聖に終わる。凡に始まるが故に疑怯を除き、聖に終わるが故に慢大を除くと云云。 |
− | 此の六即は凡に始まり聖に終わる。凡に始まるが故に疑怯を除き、聖に終わるが故に慢大を除くと云云。 | + | |
---- | ---- | ||
− | + | {{Inyou3| | |
− | + | 天台宗では、すべての存在は本来的に三千の諸法(あらゆるものごと)を足らないものなく具えているので、体そのものからいえば仏も衆生も同等であるが、修行の階位からいえば差異があるという点で六即の説を立てる。即ち | |
:(1)すべての衆生はことごとく三千三諦の理を具えて、欠けることのないのを理即、 | :(1)すべての衆生はことごとく三千三諦の理を具えて、欠けることのないのを理即、 | ||
:(2)仏法を聞いて三千三諦の理を概念(名字)として理解し、仏教を疑わないのを名字即、 | :(2)仏法を聞いて三千三諦の理を概念(名字)として理解し、仏教を疑わないのを名字即、 | ||
20行目: | 19行目: | ||
:(5)三千三諦の観が徹底して無明の惑がようやく晴れ、真如の一部分が身に顕れたのを分証即(分真即ともいう、初住から等覚までの四一位)、 | :(5)三千三諦の観が徹底して無明の惑がようやく晴れ、真如の一部分が身に顕れたのを分証即(分真即ともいう、初住から等覚までの四一位)、 | ||
:(6)完全にさとりつくして真如のすべてが顕れたのを究寛即(妙覚位)とし、 | :(6)完全にさとりつくして真如のすべてが顕れたのを究寛即(妙覚位)とし、 | ||
− | これによっていたずらに自己が仏と同等であると考える増上慢(おもいあがり) | + | これによっていたずらに自己が仏と同等であると考える増上慢(おもいあがり)に陥ることなく、また自己は仏になり得ないと考える卑屈から免れるという。(仏教学辞典p.311より) |
+ | }} |
2019年10月22日 (火) 13:22時点における版
天台の六即
『摩訶止觀』卷第一下で、修行の過程を六つの位に分けて説く。浄土系の諭書にも散見される言葉なのでUPしておく。
若無信 高推聖境 非己智分。若無智 起増上慢 謂己均佛。初後倶非。
爲此事故 須知六即。謂理即。名字即。觀行即。相似即。分眞即。究竟即。
此六即者。始凡終聖。始凡故除疑怯。終聖故除慢大 云云
- 若し信無くば、高く聖境を推して己の智分に非ずとし、若し智なくば、増上慢を起して己れ仏に均しと謂う。初後倶に非なり。此の事の為の故に須く六即を知るべし。
- 謂く理即、名字即、觀行即、相似即、分眞即、究竟即なり。
- 此の六即は凡に始まり聖に終わる。凡に始まるが故に疑怯を除き、聖に終わるが故に慢大を除くと云云。
天台宗では、すべての存在は本来的に三千の諸法(あらゆるものごと)を足らないものなく具えているので、体そのものからいえば仏も衆生も同等であるが、修行の階位からいえば差異があるという点で六即の説を立てる。即ち
- (1)すべての衆生はことごとく三千三諦の理を具えて、欠けることのないのを理即、
- (2)仏法を聞いて三千三諦の理を概念(名字)として理解し、仏教を疑わないのを名字即、
- (3)三千三諦の理を念々に観じつづけてゆくのを観行即(外凡五品弟子位)、
- (4)それによって三界のうちで起こす見思の惑が尽き、六根がきよらかになって真のさとりに相似するのを相似即(内凡六根清浄位)、
- (5)三千三諦の観が徹底して無明の惑がようやく晴れ、真如の一部分が身に顕れたのを分証即(分真即ともいう、初住から等覚までの四一位)、
- (6)完全にさとりつくして真如のすべてが顕れたのを究寛即(妙覚位)とし、
これによっていたずらに自己が仏と同等であると考える増上慢(おもいあがり)に陥ることなく、また自己は仏になり得ないと考える卑屈から免れるという。(仏教学辞典p.311より)