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「聞思して遅慮することなかれ」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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三慧の<kana>聞(もん)</kana>・<kana>思(し)</kana>・<kana>修(しゅ)</kana>のうちの聞思をいう。<br />
 
三慧の<kana>聞(もん)</kana>・<kana>思(し)</kana>・<kana>修(しゅ)</kana>のうちの聞思をいう。<br />
聞思修とは、経典の教えを聞いて生じる〔聞慧〕、思惟・観察によって得られる〔思慧〕、禅定を修めて得られる〔修慧〕の三慧をいう。御開山が聞思とされたのは、浄土真宗では修行による修慧は阿弥陀如来の五劫兆載永劫の[[修徳]]を語るからであろう。存覚上人は「聞思」を『浄土見聞集』で、
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聞思修とは、経典の教えを聞いて生じる〔聞慧〕、思惟・観察によって得られる〔思慧〕、禅定を修めて得られる〔修慧〕の三慧をいう。御開山が聞思とされたのは、浄土真宗では修行による修慧は阿弥陀如来の五劫兆載永劫の[[修徳]]を語るからであろう。<br />
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「信巻」には、
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「信にまた二種あり。一つには'''[[聞]]'''より生ず、二つには'''[[思]]'''より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて[[信不具足]]とす。また二種あり。一つには[[道]]ありと信ず、二つには[[得者]]を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて[[信不具足]]とす」([[顕浄土真実信文類_(本)#no33|信巻 P.237]])
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とある。<br />
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存覚上人は「聞思」を『浄土見聞集』で、
 
:「'''聞'''よりおこる 信心、'''思'''よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。 思といふは信なり、きくも[[佗力]]よりきき、おもひさだむるも願カによりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり。これを自然といふ。」 →([[浄土見聞集#P--381|浄土見聞集P.381]]) →[[信は願より生ずれば]]
 
:「'''聞'''よりおこる 信心、'''思'''よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。 思といふは信なり、きくも[[佗力]]よりきき、おもひさだむるも願カによりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり。これを自然といふ。」 →([[浄土見聞集#P--381|浄土見聞集P.381]]) →[[信は願より生ずれば]]
 
とされていた。
 
とされていた。

2019年12月13日 (金) 22:29時点における版

もんししてちりょ

 本願のいわれを聞きひらき、疑いためらってはならない。(総序 P.132, 浄文 P.484)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

聞思莫遅慮

三慧の(もん)()(しゅ)のうちの聞思をいう。
聞思修とは、経典の教えを聞いて生じる〔聞慧〕、思惟・観察によって得られる〔思慧〕、禅定を修めて得られる〔修慧〕の三慧をいう。御開山が聞思とされたのは、浄土真宗では修行による修慧は阿弥陀如来の五劫兆載永劫の修徳を語るからであろう。
「信巻」には、

「信にまた二種あり。一つにはより生ず、二つにはより生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つにはありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす」(信巻 P.237)

とある。

存覚上人は「聞思」を『浄土見聞集』で、

よりおこる 信心、よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。 思といふは信なり、きくも佗力よりきき、おもひさだむるも願カによりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり。これを自然といふ。」 →(浄土見聞集P.381) →信は願より生ずれば

とされていた。

修徳
信は願より生ずれば

参照WEB版浄土宗大辞典の「三慧」の項目