「無礙光宗」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2020年1月10日 (金) 03:01時点における版
むげこうしゅう 無礙光宗
浄土真宗の俗称。無礙光衆ともいう。蓮如が「帰命尽十方無礙光如来」の十字名号を本尊として門徒に授与したことからこのように呼ばれたという。寛正6年(1465) の寛正の法難では、比叡山が本願寺を無礙光衆の邪法であると批判している。(浄土真宗辞典)
比叡山では、無礙光如来の無礙の語を造悪無礙の衆であると悪意をもって解釈し、寛正6年(1465) に延暦寺衆徒が大谷の本願寺を破却した。以後蓮如さんは近江堅田へ避難、文明3年(1471) 越前吉崎へ移り吉崎御坊を建てられ越前、加賀、三河、奥州に教線を拡大され本願寺教団の基礎を築かれた。