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「煩悩即菩提」の版間の差分

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: こほりおほきにみづおほし
 
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: さはりおほきに徳おほし ([[高僧和讃#no40|高僧 P.585]])
 
: さはりおほきに徳おほし ([[高僧和讃#no40|高僧 P.585]])
とあり、仏のさとりの智見からみれば、煩悩と菩提は、その体性は一つであるということ。
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とあり、{{DotUL|仏のさとりの智見からみれば}}、[[煩悩]]と[[菩提]]は、その[[体性]]は一つであるということ。
これを煩悩具足の衆生の側から論ずると、一元論の[[jds:本覚思想|本覚思想]]に陥る。
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これを[[煩悩具足]]の衆生の側から論ずると、一元論の[[jds:本覚思想|本覚思想]]に陥る。
 
:→[[不断煩悩得涅槃]]
 
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2023年5月20日 (土) 01:53時点における版

ぼんのう-そくぼだい

 煩悩がそのまま菩提であるという意。生死即涅槃に同じ。「高僧和讃」には、

本願円頓一乗は
 逆悪摂すと信知して
 煩悩・菩提体無二と
 すみやかにとくさとらしむ (高僧 P.584)

とある。→生死即涅槃。(浄土真宗辞典)

上記の「曇鸞讃」に、

無碍光の利益より
 威徳広大の信をえて
 かならず煩悩のこほりとけ
 すなはち菩提のみづとなる (高僧 P.585)
罪障功徳の体となる
 こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし
 さはりおほきに徳おほし (高僧 P.585)

とあり、仏のさとりの智見からみれば煩悩菩提は、その体性は一つであるということ。 これを煩悩具足の衆生の側から論ずると、一元論の本覚思想に陥る。

不断煩悩得涅槃

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:煩悩即菩提

ぼんのうそくぼだい/煩悩即菩提

煩悩がそのままさとりの縁となること。原始仏教部派仏教では、煩悩菩提は対立的に捉えられたが、大乗仏教において煩悩菩提(さとり)も空であり、本来は不二で相即していると説かれるようになった。さとりの面から捉えれば煩悩真如の現れであり、それを離れてさとりはないということになる。大乗仏教の一思想表現として「生死即涅槃」と併称される。『大乗荘厳経論』六に「法性を離れて外に諸法あることなきにより、是の故に是の如く説く、煩悩即菩提なりと」(正蔵三一・六二二中)とある。


【参照項目】➡煩悩生死即涅槃


【執筆者:大屋正順】