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「綽如上人」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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しゃくにょ 綽如 (1350-1393)
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 本願寺5代。善如の長男。童名は光徳、諱は時芸。永和元年 (文中4・1375)、善如の譲状をうけて継職した。至徳元年 (弘和4・1384)、当時9歳の第二子光太麿 (後の<kana>巧如(ぎょうにょ)</kana> に譲状を与えて、地方教化に赴いた。康応元年 (元中6・1389)、善如が示寂するとふたたび巧如に譲状を書き、翌年は越中国井波 (現在の富山県南砺市井波) に瑞泉寺を開創し、ここを拠点に北陸教化に従事した。また、本願寺に[[鎰取役]](かぎとりやく)・御堂衆をおき、寺院としての体裁の整備にも尽力している。明徳4年 (1393)、巧如へ3度目の譲状を書き、44歳で示寂した。(浄土真宗辞典)
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2023年11月23日 (木) 14:17時点における版

しゃくにょしょうにん

 (1350-1393)本願寺第五代宗主。越中井波(現在の富山県南砺市井波)に瑞泉寺を開創し、北陸地方の教化に努められた。 (一代記 P.1303)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

しゃくにょ 綽如 (1350-1393)

 本願寺5代。善如の長男。童名は光徳、諱は時芸。永和元年 (文中4・1375)、善如の譲状をうけて継職した。至徳元年 (弘和4・1384)、当時9歳の第二子光太麿 (後の巧如(ぎょうにょ) に譲状を与えて、地方教化に赴いた。康応元年 (元中6・1389)、善如が示寂するとふたたび巧如に譲状を書き、翌年は越中国井波 (現在の富山県南砺市井波) に瑞泉寺を開創し、ここを拠点に北陸教化に従事した。また、本願寺に鎰取役(かぎとりやく)・御堂衆をおき、寺院としての体裁の整備にも尽力している。明徳4年 (1393)、巧如へ3度目の譲状を書き、44歳で示寂した。(浄土真宗辞典)