「勢観房」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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勢観房は平師盛(たいらのもろもり)の子といわれ、当時の源平の乱後の平家狩りを避けるため十一歳で出家したといわれる。知恩寺の開基であり、当時は紫野門徒(むらさきのもんと)と呼ばれていた。のちに[[鎮西派]]に合流した。<br /> | 勢観房は平師盛(たいらのもろもり)の子といわれ、当時の源平の乱後の平家狩りを避けるため十一歳で出家したといわれる。知恩寺の開基であり、当時は紫野門徒(むらさきのもんと)と呼ばれていた。のちに[[鎮西派]]に合流した。<br /> | ||
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2024年10月31日 (木) 14:13時点における版
せいかんぼう
底本には「誓観房」とある。(歎異抄 P.851)
(せいかんぼう)
(1183-1238)名は源智、法然上人の門弟。十一歳で法然上人に託され、上人示寂まで常随した。京都の百万遍知恩寺の開基。その門流を紫野門徒という。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
勢観房は平師盛(たいらのもろもり)の子といわれ、当時の源平の乱後の平家狩りを避けるため十一歳で出家したといわれる。知恩寺の開基であり、当時は紫野門徒(むらさきのもんと)と呼ばれていた。のちに鎮西派に合流した。
法然聖人から『一枚起請文』を授かったされ、法然聖人の最古の伝記集とされる源智の聞書を著した『醍醐本法然上人伝記』があり、御開山の思想を知るうえで重要な書物である。