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「法」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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「法」とは古来、それ自体の本性(独自の本性)を保持〈任持自性〉して改変せず、認識や行為の軌範となって人に一定の理解を生ぜしめる(軌生物解)根拠とされる。認識の対象となり知解を生じせしめるものが「法」であるという意。<br />
 
「法」とは古来、それ自体の本性(独自の本性)を保持〈任持自性〉して改変せず、認識や行為の軌範となって人に一定の理解を生ぜしめる(軌生物解)根拠とされる。認識の対象となり知解を生じせしめるものが「法」であるという意。<br />
  
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2024年11月2日 (土) 01:34時点における版

ほう/みのり

ほう

 梵語ダルマ(dhárma)の漢訳。達磨(だつま)などと音写する。それ自体の本性を保持して、認識や行為の軌範となるもの。

1.存在しているもの。事物。
2.意識の対象。
3.特性・性質。
4.軌範・規準。
5.教法・教説。
6.真理。
7.善・善い行い、などの意味がある。

Ⅰ (ほう) 教法。(化巻 P.414)
Ⅱ (みのり) 仏法。(十七条 P.1433)
Ⅲ (ほう) 行儀作法。 (法事讃 P.509)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ほう 法

 梵語ダルマ(dharma)の意訳。達磨(だつま)などと音訳する。古来、それ自体の本性を保持して(任持自性(にんじじしょう))、認識や行為の軌範となる(軌生物解(きしょうもつげ)) という二義で解釈され、存在しているもの・事物、意識の対象、特性・性質、軌範・規準、教法・教説、真理、善・善行など種々の意味で用いられている。→三宝。(浄土真宗辞典)

仏法といふ場合は、仏に成る方法のことで、仏教といふときは釈迦牟尼仏を教祖とする宗教の意味が強い。宗教という語は元来は仏教語であり、「宗の教え」として、経典で説きあらわされている教法、すなわち真理や正しい道理を意味していた。この宗教という語が幕末期に英語のReligionの訳語としてあてられたことから、「仏の法」以外のさまざまな諸宗教をも宗教とよぶようになった。
そのために「仏法」以外の教え、例えばキリスト教と区別する為に仏教という表現を多用するようになった。本来は、仏道・仏法などと呼んだのだが仏教と呼称することによって「仏に成る法」といふ「法」の意味が判りにくくなっているのであろう。

  • 任持自性(にんじじしょう) 軌生物解(きしょうもつげ)(自性を任持して、軌となって物(人々)に解を生ぜしめる)。

「法」とは古来、それ自体の本性(独自の本性)を保持〈任持自性〉して改変せず、認識や行為の軌範となって人に一定の理解を生ぜしめる(軌生物解)根拠とされる。認識の対象となり知解を生じせしめるものが「法」であるという意。

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:法

(梵)ダルマ dharma の訳。達磨、達摩、駄摩、曇摩、曇無、曇と音写する。任持(能持)自性・軌生物解の二義をもつとされる。即ちそれ自体の自性 (独自の本性) を保持して改変せず、よく軌範となって人に一定の事物を理解させる根拠となるものをいう。従って法は任持自性の意味からいえば、自性をもって存在している一切の「存在」をさし、軌生物解の意味からいえば、認識の標準となる規範、法(のり)、法則、道理、教説、真理、善行をさすことになる。

① 色法、心法、一切諸法、万法などという法は、すべての存在を意味する。また諸法を有為・無為、色・心、染・浄などの二法に分け、或いは三法、四法などに分けるなどの場合の法の語も存在を意味する。
② 仏の教えを仏法、教法、正法といい、外道の教えを邪法と称するなど、法の語はすべて行為の規範、教説を意味する。つまり真理といわれるものは不変にして普遍なる真実の道理であるから、法と呼ばれるににふさわしいが、この教説をこの真理を説いているのが仏の教説だからである。

{─中略─}

③ 性質、属性の意味。因明(論理学)において宗(論破しようとする主張)賓辞を法といい、主辞を有法という。賓辞によって、主辞の表わす物体が有する性質が把握されるからである。(仏教学辞典)
御のり
おみのり

参照WEB版浄土宗大辞典の「法」の項目