かくにょ
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
覚如
(1270-1351)
はじめ
その後、父覚恵とともに東国の親鸞聖人の遺蹟を巡拝し、帰洛して『報恩講私記』『御伝鈔』を著された。正安三年(1301)『
しかし長子
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- WikiPediaより転送
覚如(覺如[1]) | |
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文永7年12月28日[2] - 観応2年[3] 1月19日 | |
幼名 | 光仙 |
法名 | 覚如 |
号 | 豪摂(ごうしょう) |
諱 | 宗昭 |
尊称 | 覚如上人 |
生地 | 京都 |
没地 | 京都本願寺(現・知恩院塔頭崇泰院) |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 本願寺派(後の浄土真宗本願寺派、後の真宗大谷派)、後の真宗木辺派 |
寺院 | 大谷本願寺 |
師 | 如信、唯円 |
弟子 | 存覚、従覚、善如、乗専など |
著作 |
『報恩講私記』『本願寺聖人親鸞伝絵』 『執持鈔』『口伝鈔』『改邪鈔』など |
廟 | 浄土真宗本願寺派:大谷本廟・本願寺西山別院、真宗大谷派:大谷祖廟 |
覚如(かくにょ、覺如[1])は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第3世宗主・真宗大谷派第3代門首・真宗木辺派第3代法主。大谷本願寺住職。
親鸞の末娘である覚信尼の子、覚恵の長男。母は周防権守中原某の娘[5]。親鸞の曾孫にあたる。長男は存覚、次男は従覚。孫は第4世善如。
「大谷廟堂」の寺院化(本願寺の成立)に尽力し、本願寺を中心とする教団の基礎となった。本願寺の実質的な開祖[6]。
『報恩講私記』、『本願寺聖人親鸞伝絵』(『御伝鈔』・『親鸞伝絵』)、『執持鈔』[7]、『口伝鈔』[8]、『改邪鈔』[9]など多数撰述し、法然の正統な後継者としての親鸞と浄土真宗内における本願寺教団の優位性を主張した。
生涯
年齢は、数え年。日付は、文献との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とし、南北朝時代の元号は、北朝(京都)で表記する。
誕生
- 文永7年12月28日(1271年[2] 2月16日[4] )、京都に生まれる。幼名は、「光仙」。
- 文永9年(1272年)、母と死別する。
- 文永11年(1274年)、5歳。この頃より仏門の道を志すようになる。
- 建治3年(1277年)頃、隣房の慈信房澄海(ちょうかい)の元、内外の聖典の修学に励み、天台宗「初心集」を伝受される。
- 弘安5年(1282年)(弘安7年〈1284年〉とも)、延暦寺の宰相法印宗澄(しゅうとう)に入門。天台の教えを受ける。
- 弘安6年(1283年)、興福寺一乗院の信昭に入室し、法相の教えを受ける。信昭没後は、弟子の覚昭に付いて学ぶ。
- この間に、八宗兼学の自性房了然について三論教を学ぶ。
得度
- 弘安9年(1286年)、奈良興福寺一乗院にて、出家・受戒し「覚如房宗昭」と号され、行覚に学ぶ。
- 弘安10年(1287年)、親鸞の祥月忌の為に上洛した如信(親鸞の孫)より、宗義(法然・親鸞の教え)を学ぶ。(この後も、如信が上洛した際には、宗義を学んだ。)
- 正応元年(1288年)、上洛した河和田の唯円より宗義を学ぶ。
- 正応3年(1290年)6月4日、長子存覚(尊覚)生まれる。
- 同年より、父覚恵、浄賀法眼(じょうがほうげん)らと共に、東国(関東)の親鸞の遺跡を巡拝し、遺弟に教えを受ける。
- 正応5年(1292年)、西山義の安養寺、阿日房彰空から「五部・『大経』・註論・『念仏鏡』など」を学ぶ。[10]
自覚
- 永仁2年(1294年)、親鸞の33回忌に『報恩講私記』(報恩講式・式文)を撰述する(報恩講の始まり)。この頃を境に、親鸞の後継者であると自覚するようになる。
- 永仁3年(1295年)、『本願寺聖人伝絵』(初稿本・「十三段」)を撰述する。絵を浄賀法眼に描かせる。(当時の物は、絵巻物。)
- 永仁7年、正安元年(1299年)頃、覚恵、発病する。
- 正安3年(1301年)、親鸞が法然の後継者である事を主眼に置いた『拾遺古徳伝』を著作する。
唯善との争い
- 正安4年(1302年)、覚恵と唯善の間に起こった留守職就任問題が勃発する(唯善事件)。
- 徳治元年(1306年)、覚恵は唯善に大谷廟堂の鍵を強奪され、占拠される。覚如・覚恵は、三条朱雀の覚如の妻の実家に避難する。
- 徳治2年(1307年)、覚恵、三条朱雀にて入滅する。
- 延慶2年(1309年)7月、青蓮院により大谷廟堂留守職は、覚如に継承される事が裁定される。敗れた唯善は、大谷廟堂を徹底的に破壊し、御影像(親鸞の木像)と遺骨の一部を奪い、鎌倉へ逃亡する。(唯善事件、決着。)
- 延慶3年(1310年)、東国への勧進と東国門徒へ自身の留守職を承認してもらうために赴く。半年にわたる懇願の末、承認され正式に留守職を継承する。
- 延慶4年/応長元年(1311年)、親鸞五十回忌に当たり、御影像と影堂を再建する。
本願寺成立へ
- 応長2年(1312年)、安積門徒の法智の勧めで「大谷廟堂」(「大谷影堂」)に「専修寺」の額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。[12] 。
- 正和3年(1314年)、長男の存覚に留守職を譲り、一条大宮に隠居する。
- 元亨元年(1321年)、「大谷廟堂」を寺院化し、「本願寺」と号する(本願寺の成立)。寺院化に伴い「留守職」は、住持職を含めた「別当職」となる。この際、これまで廟堂に掛けられていた帰命尽十方無碍光如来の十字名号を改め、新たに木造阿弥陀如来立像を本尊にしようとしたが高田門徒の反対にあい、これまで通りの十字名号が本尊とされた。
義絶
三代伝持の血脈
- 元弘元年/元徳3年(1331年)、『口伝抄』を撰述し、「三代伝持の血脈(けちみゃく)」を表明し、法灯継承を主張する。(法脈…法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如、血統…親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)自らを本願寺三世と位置づける。(親鸞…開祖〈宗祖〉、如信…本願寺二世)
- 正慶元年(1332年)、如信の三十三回忌の勤修の為、陸奥国の大網(現、福島県白川郡古殿町)に赴く。同時に有力な東国門徒20人余りに、正統な宗義の相伝者・法灯の継承者である事を認めさせ署名させる。
- 建武3年 (1336年)、足利尊氏による戦乱を避け、存覚の居住する近江瓜生津に疎開する。戦火の影響で「本願寺」全焼する。『本願寺上人伝絵』(初稿本)消失する。
- 建武4年(1337年)、帰洛し西山久遠寺に居住する。『本願鈔』『改邪鈔』を撰述する。
- 建武5年/暦応元年(1338年)、近江瓜生津の愚咄の仲裁により、存覚の義絶を赦免し、別当職を譲る。
- 暦応3年(1340年)、『願々鈔』を撰述する。
再び、義絶
- 暦応5年、康永元年(1342年)、存覚を再び義絶し、別当職に復職する。
- 康永2年(1343年)、『最要鈔』を撰述する。『本願寺上人伝絵』(『御伝鈔』)を増補して、十五段とする(「康永本」)。『御絵伝』は、円寂(えんじゅく、浄賀法眼の子)と門人・宗舜(そうしゅん)に描かせる。(拝観の便を考え、詞を『御伝鈔』、絵を『御絵伝』と別仕立てにした。)
- 貞和6年/観応元年(1350年)、存覚の義絶を赦免する。別当職は、覚如の次男の従覚の子、善如が継承する旨の譲り状を記す。
往生
著書
- 覚如撰述
- 関連書籍
- 『慕帰絵詞』10巻 - 従覚著作
- 『最須敬重絵詞』(さいしゅきょうじゅうえし)7巻…乗専著作
脚注
- ^ a b 覺如…新字体が用いられる以前の文献に用いられた旧字体。
- ^ a b 文永7年12月28日は、西暦(ユリウス暦、グレゴリオ暦換算ともに)では1271年だが、文永7年は、年が明けていないので「1270年」と考える。文献の「覚如の生年」の年の西暦を、和暦に基づいて1270年と表記する場合と西暦に基づいて1271年と表記する場合があるので注意が必要である。
- ^ 観応2年は、北朝の元号。南朝の元号は、正平6年。
- ^ a b c グレゴリオ暦換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。
- ^ 覚如の子である従覚慈俊が記した覚如の伝記『慕帰絵詞』の第一巻に「母儀は周防権守中原のなにがしとかや號しける其母なり」とある。(参考文献:国立国会図書館デジタルコレクション 慈俊『慕帰絵々詞』巻一 ・ 『真宗聖教全書』三 歴代部、従覚『慕歸繪詞』巻一、P.773。)
- ^ 当然であるが真宗十派の内、高田派・佛光寺派・興正派・山元派・誠照寺派・三門徒派・出雲路派は、本願寺派・大谷派・木辺派の流れにある覚如とは別の流れにあるためそれぞれの歴代には含まれない。
- ^ 『執持鈔』(しゅうじしょう)
- ^ 『口伝鈔』(くでんしょう)
- ^ 『改邪鈔』(がいじゃしょう)
- ^ a b c 上田良準『阿日房彰空と樋口安養寺』、印度學佛教學研究 9(1)、1961年、p. 306
- ^ 大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年) ISBN 4-7924-0589-0 P19-26
- ^ この額を法智が、高田の如来堂に掲げたのが、「高田専修寺(本寺)」の寺号の起源とする説がある
参考文献
- 高松信英、野田晋『親鸞聖人伝絵』 御伝鈔に学ぶ、真宗大谷派宗務所出版部、1987年。ISBN 978-4-8341-0164-5。
- 真宗聖教全書編纂所 編『真宗聖教全書』 三 歴代部(重版)、大八木興文堂、2010年4月。
外部リンク
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