とみえたり
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
蓮如さんが「この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり」と「みえたり」とされておられるのは、存覚師の『浄士見聞集』の文を承けられたものといわれる。(御文章 P.1127)
以下に『浄士見聞集』の該当部分を抜き出した。
- もしききえてよろこぶこころあらばこれ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光 行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
- 光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。(真聖全、列祖部三七八頁) → 国会図書館デジタルコレクション
とあるように、宿善・善知識・光明・信心・名号と順番まで等しく出されている。 この五重は、成就文の「聞其名号信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」を開いたものといわれる。
ただ、成就文では名号、信心の次第であるのだが、「名号」を信心の後に出されているのは、蓮如さんは信心の「体」を、
- されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。(御文章 P.1131))
として名号を出される場合と、信後の称名を名号といわれる場合の、
- かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。(P.1189))
があるからであるとする。五重義相では信の後であるから称名(なまんだぶ)を意味し、これによって信心正因称名報恩の義を明らかにされているのであろう。