袈裟
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けさ 袈裟
梵語カシャーヤ (kaṣāya)、またはカーシャーヤ (kāṣāya) の音訳。僧侶が着用する衣類の一つ。さとりの世界にいたる標識として尊ばれ、「序分義」には 「比丘の三衣はすなはちこれ三世の諸仏の幢相なり」とあり、また『口伝鈔』第6条には 「袈裟はこれ、三世諸仏解脱幢相の霊服なり」とあって、その功徳が示されている。もとは、釈尊在世当時から出家者の衣類で、使い古しの布を集めて作ったことから糞掃衣(ふんぞうえ)ともいい、また、鮮やかさや美しさのない濁った色に染められたので染色衣(せんじきえ)・壊色衣(えじきえ)などともいう。長短の布を縫い合わせてできた条を五条から二十五条につないで仕立てた。仏教が中国・日本に伝わると、寒さを防ぐため、衣の上に着用するようになり、装飾化が進んだ。本願寺派では、九条(くじょう)以上は用いず、七条袈裟(しちじょうげさ)と五条袈裟、輪袈裟などを用いる。→三衣一鉢。(浄土真宗辞典)
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:袈裟
けさ/袈裟
インドで仏教修行者と他宗教の修行者とを見分けるために定められた制服。Ⓢkaṣāyaの音写。原語は赤褐色を意味し、壊色、染衣などと漢訳した。安陀会・鬱多羅僧・僧伽梨の三衣(または「さんえ」)に大別される。仏制に衣と称するのは袈裟のことであり、後世に袈裟と衣とを分けて袈裟を三衣と称し、衣と別物とした(『啓蒙随録』二・一七オ)。比丘の三衣はその色から袈裟と称するようになった。比丘の衣は、塵埃の集積所・墓所などに廃棄された布切れをつなぎ合わせて、一枚の方形の生地に仕立てた糞掃衣(衲衣)が原則であった。
[色]
衣服についての欲望を制するために、一般の人がかえりみない布の小片を綴り合わせて染色したものが用いられた。僧衣の色は壊色(如法色)・不正色とした。壊色には所説があり、青・黄・赤・白・黒の五正色と緋・紅・紫・緑・碧(硫黄)の五間色などの鮮やかな色を不如法色とし、これらの色を避けた青・黒・木蘭を壊色とした。ただし、青は正青ではない藍に黒が加わったもので、黒も雑泥という黒い泥のようなものであり、木蘭は木蘭樹の皮を染めた赤黒のものである(『啓蒙随録』二・一八ウ)。
[材質と製法]
袈裟の材質は衣体・衣財と称し、麻や木綿で作るのが本法であり、上古は麻布のみであった(『啓蒙随録』二・一九ウ)。新しく三衣を作製するときには、明浄法という染・点・截の三浄の作法を行う規定があった(花円映澄『法衣史』四頁、鍵長法店、一九二七)。染浄は壊色にすることで、青・泥(黒)・赤(木蘭)の三壊色に染め壊すことをいう(『有部毘奈耶』三九、正蔵二三・九九八上)。点浄は所有者を明らかにするために、その袈裟と違う壊色の布切れを幟として付けることをいう(『五分律』九、正蔵二二・六八上)。また、袈裟の縁の裏側に墨などで小さな汚点を付けて目印とすることもいう。截浄は大きな布でも必ず縁・縦条・横堤などの各片に小さく割截することで、これを縫い合わせて「田相」を表示し、これを福田衣・田相衣と称している。糞掃衣のように割截した小布片を田相に従って縫い合わせる理由は、他に流用できないようにし、衣服に対する欲心を捨てるためと、盗難をさけるためといい、これを割截衣と称している。この縫い方は、通常の直縫ではなく、却刺(返し針)であり、馬歯縫(馬の歯形に縫う)、鳥足縫(鳥の足跡の形に縫う)、伝説鳥足(略鳥足ともいい、T字形に縫う)、編葉辺(開葉部分を纏り縫いに縫う)としている。
[形式]
袈裟は縦に短い布片と長い布片を縫い合わせるが、一つの縦長の布片を条といい、これを横に五列に並べると五条となる。この縦の継ぎ目(条)の和によって、安陀会(五条)・鬱多羅僧(七条)・僧伽梨(九条より二十五条)の三衣に大別される。袈裟の条数は奇数である。田相の形は、「長」という長い長方形の部分と「短」という短い長方形の組み合わせにより構成されている。条数に応じて「長」の部分が増えていくが、「短」は常に一短のままである。安陀会は一長一短、鬱多羅僧は二長一短、僧伽梨は九品衣ともいい、下下品は九条、下中品は十一条、下上品は十三条で二長(両)一短、中下品は十五条、中中品は十七条、中上品は十九条で三長一短、上下品は二十一条、上中品は二十三条、上上品は二十五条で四長一短の三種に大別される。袈裟の寸法は衣量といい、自分の肘の長さによって、竪横の長さを決める。この寸法で製作するのは、それぞれの体に合わせるためである。袈裟には製法とその功徳からさまざまな名称がある。縵衣(割截しないで一枚の布に周りの縁のみで条数がないもの)、屈摂衣(一枚布を少しずつ摘まみ込んで葉の部分を作ったもの)、割截衣(長短の布を截り分けて、葉の部分を重ねて縫ったもの)、揲葉衣(布が十分でないとき、一枚布の上に別布で葉を貼り付けたもの)、糞掃衣(不用の布を用い、刺し子を施したもので、山形などの布を貼り付けることもある)の五種に分けられる。また、袈裟の功徳にちなみ、離染衣、出世服、無垢衣、蓮華服、間色服、福田衣、慈悲衣、応法妙服などの呼称がある。
[由来(インド・中国)]
インドでは袈裟を体に巻きつけて着用したが、仏教が各地に伝播するにつれ、気候風土や衣服の習慣の相違などからさまざまに変形した。例えば褊衫は中国北魏地代に、偏袒右肩を嫌った宮人が、肩を覆う衣を布施したのが始まりとされ、律に定める僧祇支と、右肩を覆う袖のある衣を合わせ、衿をつけて縫い合わせ製作された。ただし、通肩に着けた僧祇支の右肩の部分と解釈する説もある。この褊衫(上衣)に裙(下衣)をそれぞれ被着した。後に、これらを直接に綴じ合わせて、被着の簡便を図ったのが直綴である。さらに袈裟は日常の衣服としての用法を離れ、僧侶の装束として法衣の一番上に着用して威儀を整えるものとなった。特に、法会・儀式のときの袈裟は金襴・刺繡などの紋様が施されて装飾的で華美となった。ただし、田相に縫い合わせる割截法は戒律の規定に従って伝承している。また、袈裟に教衣・律衣・禅衣の三流ができて、教衣は藍色、律衣は木蘭色、禅衣は黒色を主として用いられた。律衣は二派に分かれ、義浄の所伝が復古衣・天竺衣、道宣の所伝が南山衣(環鈎を用いる)と称している(『法衣史』三八)。
[由来(日本)]
日本では鎌倉時代の仏教変革は思想のみならず、袈裟にも変化をもたらした。一三~一四世紀の南宋・元時代の中国に留学した日本僧は、中国的な要素にあふれる禅林文化に魅了され、そのまま日本へ移入しようと試みた。浄土宗も天台宗の教衣から禅家の禅衣の袈裟・衣へと一部変化が見られる。やがて、宗派独自の袈裟が作られた。伝法衣という概念も、禅僧によってもたらされた。伝法衣とは師匠から弟子へ法を伝えた証として授けられる特別な袈裟をいい、伝衣ともいう。この袈裟は嗣法の象徴という重大な意味を付与されることになり、伝法衣を相承している事実が、自らの正統性を誇示する証となった。それに従い晋山式では新命が辞令伝達後に伝衣を受ける式がある。
[被着法]
袈裟の被着法には、偏袒右肩と通肩の二種がある。偏袒右肩は、敬意を表すときに右肩の肌を露わにして、左肩のみを袈裟で覆った被着法である。通肩は仏に代わって説法するとき、乞食するときなどに両肩にかけることをいう。小五条・種子袈裟は通肩の被着法である。大五条・小五条などを脇掛けするときは偏袒右肩の法による。
[浄土宗の袈裟]
浄土宗の袈裟には三衣と別に七九条がある。鬱多羅僧に顕色七条(荘厳衣)と壊色七条(如法衣)があり、その形式に南山衣と天竺衣の二種がある。顕色の七条は南山衣の形式で、象鼻のある本七条とない角七条とがある。安陀会の変形に、大師五条(俗に大師衣ともいう)・大五条・小五条(威儀細)・折五条と、別に種子衣(伝道袈裟・俗に輪袈裟ともいう)がある。荘厳服の道具衣・袱紗衣・半素絹には顕色の五条以上を、長素絹には七条以上の袈裟を被着する。通常服の直綴(茶色または黒色)・半素絹(黒色)は壊色の五条または如法衣、道衣は小五条・種子衣・折五条、伝道服は種子衣・折五条を被着する。袈裟を始め法服類は六月一日から九月三〇日まで夏物を用い、荘厳服には顕色の袈裟を被着するなど、袈裟と法衣の着用が決められている。『法要集』には、法要儀式を執行する際に、七条以上の袈裟を用いるのが本義とある。ただし、知恩院御忌大会の日中法要では唱導師(七九条)・式務(大師五条)・式衆(七条)・典謁(大五条)であり、職制によって袈裟を区分している。寺院の祝儀には顕色を、不祝儀には壊色の袈裟を被着する。祝儀の参列には黒色の直綴に顕色の小五条を、不祝儀の喪主・法類は黒色の直綴に壊色の五条または如法衣を、参列するには黒色の直綴に如法衣を被着するとしている。
【参考】井筒雅風『法衣史』(雄山閣出版、一九七四)、『ころもを伝え こころを繫ぐ 高僧と袈裟』(京都国立博物館、二〇一一)、久馬慧忠『袈裟のはなし』(法蔵館、二〇〇〇)【図版】巻末付録
【参照項目】➡安陀会、鬱多羅僧、僧伽梨、三衣一鉢、南山衣、天竺衣、顕色、壊色、福田衣、大五条、折五条、大師五条、縵衣
【執筆者:福西賢兆】