九首和讃
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
くしゅ-わさん 九首和讃
この「九首和讃」は京都常楽台(存覚上人は常楽台の住持だった)の宝庫より出でたるものと伝え、古来、御開山の真作であると伝えられる。しかし、現代では疑問が持たれている。用語例から見て御開山のものとするには疑いが残る。なお御開山の「御臨末の御書」とされる書は明らかに後世の偽作であろう。→「御臨末の御書」
御開山は和歌は綺語(ウタヲヨミ イロヘ コトバ ヲ イフ)として使われず、今様といふ実直な形式で仏徳を讃詠されたのであった。「我なくも 法は尽きまじ和歌の浦 あをくさ人のあらんかぎりは」などいふ技巧的な和歌を詠まれることはありえないと思ふ。
以下帖外九首和讃
(1)
- 四十八願成就して
- 正覚の弥陀となりたまふ
- たのみをかけしひとはみな
- 往生かならずさだまりぬ。
(2)
- 極楽無為の報土には
- 雑行むまるゝことかたし
- 如来要法をえらんでは
- 専修の行ををしへしむ。
(3)
- 兆載永劫の修行は
- 阿弥陀の三字にをさまれり
- 五劫思惟の名号は
- 五濁のわれらに付属せり。
(4)
- 阿弥陀如来の三業は
- 念仏行者の三業と
- 彼此金剛の心なれば
- 定聚のくらゐにさだまりぬ。
(5)
- 多聞浄戒えらばれず
- 破戒罪業きらはれず
- たゞよく念ずるひとのみぞ
- 瓦礫も金と変じける。
(6)
- 金剛堅固の信心は
- 仏の相続よりおこる
- 他力の方便なくしては
- いかでか決定心をえん。
(7)
- 大願海のうちには
- 煩悩のなみこそなかりけれ
- 弘誓のふねにのりぬれば
- 大悲の風にまかせたり。
(8)
- 超世の悲願きゝしより
- われらは生死の凡夫かは
- 有漏の穢身はかはらねど
- こゝろは浄土にあそぶなり。
(9)
- 六八の弘誓のそのなかに
- 第三十五の願に
- 弥陀はことに女人を
- 引接せんとちかひしか。
なお、
- 超世の悲願きゝしより
- われらは生死の凡夫かは
- 有漏の穢身はかはらねど
- こゝろは浄土にあそぶなり。
の一首をとりあげて、有漏の穢身を離れて、心の往生を説く人もいるのだが、これは時衆との混同であろう。
一遍上人は、「他力称名の行者は此の穢身はしばらく穢土にありといへども、心はすでに往生をとげて浄土にあり」「播州法語集」(林遊は未見)と云われたそうだが、この意が浄土真宗に混入されたのであろう。
御開山は、
- 惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。(真巻 P.371)
とされておられた。「和讃」では、
(12)
と唯仏与仏の知見とされ、「御消息」では浄土は、
- 仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(消息 P.779)
とされておられた。
もちろん凡情として浄土を語るのは否定できないが、凡情に流されるといふ危険も考察すべきであろう。
ちなみに林遊は、夕日の沈む西方の仏国を、母も往った、父も往った、やがていのち終わればあえる世界(妙有)であると実体視しているのであった。ありがたいこっちゃなあ。
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