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トーク

一念多念証文

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 そうであるから『大経』には、「如来、世に興出したまふ所以は、群萌を救い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」と仰せられている。この経文の意味は、「如来」というのは諸仏のことをいうのである。「所以」というのは、理由という言葉である。「世に興出したまふ」というのは、仏陀が、迷いの世間に出て来られるということである。「欲」は、こうしたいと思われることである。「拯」は、すくうということであり、「群萌」は、すべての生き物ということである。「恵」は、めぐむということである。「真実の利」というのは、阿弥陀仏の本願を指していう言葉である。

 そうであるから、あらゆる仏陀たちが、次々と世間に出て来られる理由は、一切の衆生を救いたまう阿弥陀仏の本顔力を説いて聞かせて、生きとし生けるすべての者に真実の利益を恵みあたえて救うことを本意とされているから「真実の利を恵まんと欲す」といわれているのである。そうであるから阿弥陀仏の本願を説くことを諸仏がこの世間に出てこられた本意、すなわち直説というのである。

 総体的にいって八万四千と呼ばれるさまざまな自力の教えは、未熟な者を育てて、浄土真宗に引き入れるための教育的手段としてしばらく説き与えられた仮の教えである。これを真宗に入るための重要な門というので要門という。しかしそれはしばらく用いるだけの権仮(かり)の法門、すなわち仮門と名づけられている。この要門とか仮門という法門が、とりもなおさず『無量寿仏観経』一部にわたって定善や散善によって往生を得ると説かれている教えがそれである。定善とは、心を一点に集中して浄土や如来を観察する修行のことで『観経』には十三種類の観法として説き示されているのがそれである。散善とは、散乱した心のままで、悪を止めて善を修行し、その功徳によって往生しょうとするもので、その行を三福行(世福、戎福、行福)として説き顕し、それを修行する人を九種類に分類して九品とするというような表し方で説かれているあらゆる自力の善行のことである。これらは皆、浄土真宗(第十八願の教え)に導くための教育的な手段として重要な意味をもつ教えであるから方便の要門といい、これを仮門ともいうのである。

 このような要門・仮門によって、未熟な衆生を育て、工夫を凝らして導き、究極的には真実の法門である、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に入れしめるように教え勧められるのであるから、あらゆる自力の善行のことを仮に設けられた方便の教えであるというのである。

 いま一乗といったのは阿弥陀仏の本願(の名号)のことである。円融というのは、あらゆる功徳・善根が本願の名号に円かに備わっていて、欠けるものはなく、自ずから人々を救うていく自在のはたらきをもっていることである。無碍というのは、その救済活勤が「衆生」の悪業にも煩悩にもさまたげられることもなく、損なわれることもないということである。

 真実功徳というのは(本願の)名号のことである。分別思議を超えた一如真実である真如のことわりが円満しているから、広大無辺な宝の海にお揄えになったのである。分別思議を超えた一如真実である真如というのは、煩悩が完全に消減した最高のさとりの境地である大涅槃のことである。涅槃はとりもなおさず法性(ものの真実の本性)である。法性はとりもなおさず、法性をさとり顕している如来である。宝海(広大無辺な宝の海)というのは、誰も除外することなく、何者にも妨げられることなく、誰もわけへだてすることなく、生きとし生けるずべての者を導かれることを、大海が、きれいな河の水も、汚い河の水もわけへだてなく受け入れて同じ海水にしていくのに喩えられた言葉である。

 この分別を超え形をはなれた万物一如の領域(一如宝海)から、形を顕して法蔵菩薩とお名乗りになって、衆生を障りなく救おうという誓願を発された。その誓願の因に報いて誓願のとおりに衆生を救う力を完成して阿弥陀仏と成られたから、阿弥陀仏のことを報身如来と申すのである。この如来を世親菩薩は尽十方無碍光如来と名づけられたのである.この如来を不可思議光仏ともいうのである。この如来のことを方便法身ともいうのである。方便というのは、形をはなれた領域を知らせるために形を顕し、言葉を超えた領域を知らせるために名号をお示しになって、衆生に知らされることをいうのである。それがとりもなおさず阿弥陀仏なのである。

 この如来は光明である。光明とは如来の智慧の徳をあらわしている。智慧は光であらわされるのである。しかし智慧は、一切の分別にょる限定を超えた領域をさとっているのであるから、一切の形、すなわちあらゆる限定を超えている。それゆえこの如来を不可思議光仏と申し上げるのである。この如来は、十方の数限りもない世界にくまなく充満して、いまさぬところがないから無辺光仏」(きわ・ほとりなき光の徳をもつ仏)と申し上げるのである。こういう訳で世親菩薩は、阿弥陀仏を尽十方無碍光如来と名づけられたのである。