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三心料簡および御法語の訓読

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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『三心料簡および御法語』

一、三心料簡事[1]

一、三心料簡の事
付疏第四仰云。先浄土 悪雑善永以 不可生知。
(しょ)(観経疏)の第四についての仰せに(いわ)く。まず浄土には悪の(まじ)わる善は永く以って生ずべからずと知るべし。 [2]
是以者義分、定即息慮以疑(凝)心、散即廃悪以修善、廻此二行求願往生。文
ここを以って義分(玄義分)には、「定はすなはち(おもんぱか)りを()めてもつて心を()らす。散はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す」[3]の文。
又散善義云、上輩上行上根人、求生浄土 断貪嗔。文
また「散善義」に云く「上輩は上行上根の人なり。浄土に生ずることを求めて貪瞋を断ず」[4]の文。
然則(即) 今此至誠心中 所嫌之虚仮行者、余善諸行也。
しかればすなわち、今この至誠心の中に嫌う所の虚仮の行とは、余善諸行なり。
三業精進雖勧、内貪嗔邪偽等 血毒雑故、名雑毒之善 名雑毒之行、云往生不可也。
三業に精進を勧むといえども、内に貪嗔邪偽等の血毒雑る故に、雑毒の善と名づけ雑毒の行と名づけ往生不可と云ふなり。
是以 礼讃専雑二行得失中、雑修失云。貪嗔諸見 煩悩来間断。
これを以って『礼讃』の専雑二行得失中の、雑修の失に云く「貪・嗔・諸見の煩悩来りて間断す」[5]と。
故廻此等雑行、直欲生報仏浄土者、尤不可嫌道理也。
故にこれらの雑行を(めぐ)らして、ただちに報仏浄土に生ぜんと欲するは、もっとも不可と嫌う道理なり。
然以身口二業為外、以意業一為内者 僻事也。既云 雖起三業 豈除意業乎。
しかれば、身口の二業をもって外となし、意業の一をもって内となさんは僻事(ひがごと)なり。すでに「三業を起こすといえども」と云えり、あに意業を除かんや。
又虚仮者、狂惑者云事 僻事。既云苦励身心、又云日夜十二時 急走急作 如炙頭然者。文
また「虚仮」とは、狂惑者ということ僻事とす。すでに「身心を苦励し」と云い、また「日夜十二時、急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするもの」と云ふ文。
云何 仮名之行人 如此哉、正是雑行者也。
いかんぞ仮名の行人、この如きなるや、まさにこれ雑行の者なり。
次所選取之真実者、本願功徳 即正行念仏也。
つぎに選取するところの真実とは、本願の功徳すなわち正行の念仏なり。
是以玄義分云。言弘願者、如大経説、一切善悪凡夫得生者、莫不皆乗阿弥陀仏大願業力 為増上縁也。云々
ここを以って「玄義分」にいわく。「弘願といふは『大経』に説くがごとし。一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」[6]と云々
是以 今文正由彼阿弥陀仏因中 行菩薩行時、乃至一念一刹那三業所修、皆是真実心中作云々。
ここを以て今の文に「正しく彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の修すところ、皆これ真実心の中に作すに由るべし」と云々。
由阿弥陀仏因中真実心中作行 悪不雑之善故云真実也。
阿弥陀仏因中の真実心の中に()すに()る行こそ悪(まじ)はらざるの善なるが故に真実と云ふなり。
其義以何得知。次釈、凡所施為・趣求亦皆真実文。
その義なにを以て知ることを得ん。次の釈に「おほよそ施為(せい)趣求(しゅぐ)するところ、またみな真実なり」[7]の文。
此以真実施者、施何者云、深心二種釈第一 罪悪生死凡夫云 施此衆生也。
この真実を以て施すとは何者に施すと云はば、深心の二種の釈の第一、罪悪生死の凡夫と云へる、この衆生に施すなり。
造悪之凡夫 即可由此真実之機也。
造悪の凡夫、すなわちこの真実に由るべきの機なり。
云何得知。
云何が知ることを得る。
第二釈 阿弥陀仏四十八願 摂受衆生等。云々
第二の釈に、「阿弥陀仏四十八願衆生を摂受す」等と云々。かくのごとく心得べきなりと云々。
如此可得心也。云々
このごとく心得べきなりと云々。
深心中反修余善云事、以余善云事以余行可往生非為答。
深心の中に反じて「修余善(余善を修す)」いう事、余善という事を以って、余行を以って往生すべしと答えんとなすにあらず。
難破言 不可指南也。
難破の言なれば、指南とすべからずなり。[8]
五種正行中観察門事、非十三定善。
五種の正行中の観察門という事は、十三定善には非ず。
散心念仏行者 極楽有様相像欣慕心也。
散心の念仏行者の、極楽のありさまを相像して欣慕する心なり。
廻向発願心(回向発願心)始、真実深信心中廻向(回向)云事、此三心中、回向(廻向)云心也。
回向発願心の始めに、「真実の深信の心中に回向して」という事、これは三心中の回向という心なり。
去過今生諸善者、三心已前功徳取返極楽廻向(回向)云也。
過去今生の諸善は、三心已前の功徳を取返して極楽に廻向せよというなり。
全三心後非云行諸善也云々。
全く三心の後に諸善を行ぜよというにはあらずと云々。

白道事、雑行中願往生心、白道為貪嗔水火被損。

以何得知。
釈云 廻諸行業 直向西方也云々。
諸行往生願生心 白道聞。
次専修正行願生心 名願力道。
以何得知。
仰蒙釈迦発遣指南(向)、西方又藉弥陀悲心招喚、今信順二尊之意、不顧水火二河、念念無遺、乗彼願力之道、捨命已後得生彼国文。
已下文是也。
正行者、乗願力道故、全不貪嗔水火損害。
是以譬喩中云、西岸上有人喚言、汝一心正念直来我能護汝、衆不畏堕於水火難云々。
合喩中云、言西岸上有人喚者、即喩弥陀願意也云々。
専修正行人 不可恐貪嗔煩悩也、乗本願力白道、豈容被損火〔焔〕水波哉云々。


一、定善中自余衆行雖名是善、若比念仏者、全非比校也云事。

諸行与念仏比校之時、云念仏勝 余行劣 弥諍論不絶事也。
只念仏本願行也、諸善非本願行也云時、真言法花(法華)等甚深微妙行、全非比校也。
存此旨 可云比校義也。


一、無智者三心具云事

一向心念仏申、無疑往生思、即三心具足也云々。
私云、一向心者至誠心也。
無疑者深信也。
往生思心廻向発願心(回向発願心)也。


一、余行シツヘケレトモ、セスト思、専修心也。

余行目出ケレトモ身カナハ子ハエセスト思ハ、修セ子トモ雑行心也云々。


一、造悪機念仏事

造悪身之故念仏申也。
造悪料非 念仏申可得心也云々。


一、善悪機事

念仏申者、只生付ママニテ申ヘシ。
善人乍善人、悪人乍悪人、本ママニテ申スヘシ。
此入念仏之故、始持戒破戒ナニクレト云ヘカラス。
只本体アリノママニテ申ヘシト云々。
付之問云。本聖道門人持戒帰浄土門之時、捨持戒 持斉修専修念仏、即成破戒過如何。
答。念仏行者 欲犯悪之時思。
念仏申 此罪滅スヘシト存犯罪、誠悪義也。
但真言有調伏之法云事、兼憑後調之法故也云事。
其様 犯罪兼憑本願之滅罪力、全不苦事也云々。


一、悪機一人置此機往生謂ハレタル道理ナリケリト知程習タルヲ、浄土宗善学タルトハ云也。

此宗悪人為手本 善人摂也。
聖道門善人為手本 悪人摂也。云々


一、行者生所依心行事

但念仏生極楽国、但余行生懈慢国也。
然念仏余善兼行者亦有二。
念仏方心重 雑余行生極楽、余行方心重助念仏生懈慢云々。


一、知我身具三心事

如大経説、歓喜踊躍心既発、可知三心具瑞也。
歓喜者、往生決定思故喜心也。
往生不定歎位(不定嘆位)未発三心也之者也。
不発三心故無歓喜心、是則致疑故歎(嘆)也云々。


一、一法摂万機事

第十八願云十方衆生、無漏十方之衆生、我願内込十方也。
法照禅師云、彼仏因中立弘誓、聞名念我惣来迎、不簡貧窮将富貴、不簡下智与高才、不簡多聞持浄戒、不簡破戒罪根深、但使廻心多念仏、能令瓦礫変成金云々。
此文心我身貧窮不造功徳、下知不知法門、破戒雖犯罪障、便廻心多念仏思。云々


一、無智為本事

凡聖道門極智恵(智慧)離生死、浄土門還愚痴生極楽、所以趣聖道門之時、瑩智恵(智慧)守禁戒、浄心性以為宗。
然入浄土門之日、不憑智恵(智慧)、不護戒行、不調心器、只云 無甲斐成無智者、憑本願 願往生也云々。
書此状御自筆、禅勝房田舎下京ツトニ取ラセムトテ給タリト云々。
又云、源空念仏申一文不通男女斉申、全年来修学智恵(智慧)一分不憑也。
然カク知又クルシカラヌソト云々。


一、阿弥陀経一心不乱事

一心者、何事心一スルソト云、一向念仏申阿弥陀仏心我心一成也。
如天台十疑論云。如世間慕人能受慕者 機念相投必成其事。
慕人者阿弥陀仏也、恋ラルル者我等也。
既心発一向阿弥陀、早仏心一成也。
故云一心不乱。
上少善根福徳因縁念ウツサヌ也云々。


一、阿弥陀経善男子善女人事

此執持名号身成故、云善男子善女人也。如下品上生一生十悪凡夫 最後一称時 被讃善男子。
実本機五濁悪世悪時衆生也。
是以観念法門 釈阿弥陀経 今文云若仏在世、若仏滅後、一切造罪凡夫。云々
可思合。


一、定機事

浄土宗弘於大原談論時、法門比牛角論事不切、機根比源空勝タリシ也。
聖道門法門雖深今機(不)叶、浄土門似浅今根易叶云之時、人皆承伏云々。


一、前念命終後念即生事

前念後念者、此命尽後受生時分也、非行念、往生称名、称名正覚業。
然則称名命終、正定中終者也云々。


一、阿弥陀経難信之法事

此罪悪凡夫 依但称名 得往生云事、衆生不信也。
依之釈迦諸仏切証誠云也云々。


一、無戒定恵(戒定慧)者可念仏云事

此無下義也。
縦雖戒定恵(戒定慧)三学全具、不修本願念仏者不可得往生。
雖無戒定恵(戒定慧)一向称名必可得往生也云々。


一、乃至一念即得往生事

我等非一念機乃至機也。云々
又乃至十念如此。
吾等非十念機乃至機也云々。
釈上尽一形至十声一声等 定得往生。
又如此吾等 非下至十声機 上尽一形機也云々。


一、以五決定往生云事

一弥陀本願決定也、二釈迦所説決定也、三諸仏証誠決定也、四善導教釈決定也、五我等信心決定、以此義故往生決定也云々。


一、若存若亡事

乗本願云存、下本願云亡也。
乗有二義、下有二義。
謂造悪業之時 発道心之時也。
造罪時ヲルルトハ者、如此造悪身 定可背仏意 思即ヲルル也、此云亡也。
道心発時ヲルルトハ者、如此発道心申念仏 叶仏意思即ヲルルニテ有也、此云亡也。
造罪時乗者、罪ツクラルルニ付モ、此本願ナカラマシカハ何為。
乗此本願之故、雖造悪決定往生ヘシト思乗也、此云存。
又道心発時乗者、如此之道心不始于今、我過去生生発。
然未離生死之故、知道心不救我。
唯仏願力我助候ヘキ。
サレハ道心有無アレ其不顧、唯須称名号生浄土思即乗也。
此云存云々。


一、平生臨終事

於平生念仏往生不定思、臨終念仏又以不定也。
以平生念仏決定思、臨終又以決定也云々。


一、一念信心事

取信於一念、尽行於一形、疑一念往生者、即多念皆疑念之念仏也云々。
又云、一期終一念 一人往生、況一生間積多念功 豈不遂一度往生乎。
毎一念 有一人往生徳、何況多念 無一往生哉云々。


一、本願成就事

念仏我所作也、往生仏所作也。
往生仏御力セシメ給物、我心トカクセムト思自力也、唯須待付称名之来迎。


一、礼讃若能如上念念相続事

往生要集指三心五念四修云如上也。
依之云之三心五念四修中明正助二行、指之云念念相続也云々。


一、無外雑縁得正念故事

此見他大善我心無怯弱云也。
仮令見法勝寺九重塔、我不立一寸塔云無疑心。
又拝東大寺大仏我不半寸仏云無卑下心。
称名一念得無上功得、決定可往生思定 云外雑縁得生念故也。
如此信者念仏、与弥陀本願相応、与釈迦教無相違、随順諸仏証誠ニテアル也。
雑行十三失以此義可得心也。


一、請用念仏事

趣他請修念仏者、有三種利益。
一自行勇猛也、二助旦那願念、三為能衆成利益也。
功徳有体用二、体留自用施他。
妙楽大師云、以善法体不可与人。已上
此釈願以此功徳文之所也云々。


一、善人尚以往生況悪人乎事《口伝有之》[9]

私云。弥陀本願 以自力可離生死有方便 善人ノ為ヲコシ給ハス。
哀極重悪人 無他方便輩ヲコシ給。
然菩薩賢聖 付之求往生、凡夫善人 帰此願 得往生、況罪悪凡夫 尤可憑此他力云也。
悪領解不可住邪見、譬如云為凡夫兼為聖人。能能可得心可得心。

初三日三夜読余之、後一日読之、後二夜一日読之。

出典:仏教大学「法然遺文検索用電子テキスト」



参 考

  1. 『観経』の至誠心・深心・回向発願心の三心についての考察。
  2. 『観経疏』第四「散善義」の流通分「五に「若念仏者」より下「生諸仏家」に至るこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。」七祖p.499の文か?
  3. 七祖p.301 ◇これを定善散善の廃悪修善の《要門≫とし、次下の「玄義分」の「弘願といふは『大経』に説きたまふがごとし。 一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力(本願力)に乗じて増上縁となさざるはなし」の《弘願門》と対比されている。つまり廃悪修善の《要門》と廃悪修善によらない本願力の《弘願門》の綱格の違いを出す。
  4. 「上輩総讃」七祖p.480。◇浄土教は元来、善悪平等の救いの教法であるので、下輩・下行・下根人を選ばない教えであるから、衆生の貪嗔を断じないままに浄土に往生する。しかるに、なんまんだぶ一行一心の救いを領解できない余善諸行(雑行)の者は、貪嗔を断じなければ往生できないという文証。
  5. 七祖p.660 専雑得失(雑行の十三失)の文。
  6. 七祖p.301 「要弘二門判」。この「玄義分」の文を出すことによって、要門とは別に、阿弥陀仏因中の菩薩行が真実であり、一切善悪の凡夫は、その因中の真実に由る大願業力の弘願門があることを示される。これは又、雑行を捨て阿弥陀仏の大願業力に乗ずることでもある。
  7. 『観経疏』の当面では、施為は利他、趣求は自利の、行者の自利/利他行をいうのであるが、真実(至誠心)の主体を阿弥陀仏であるとして、その真実の至上心を深心釈の第一釈(機の深信)の、罪悪生死の凡夫に施為(利他)するというのである。これはまさに破天荒ともいえる親鸞聖人の至誠心釈の訓点は、法然聖人の意を正確に受け継いでおられることが解かる。なお、法然聖人の『三部経大意』の至誠心釈にも、疏文のままの至誠心では「このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり。ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。これにつきて摠別の義あるべし。摠といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり」とされ、『西方指南抄』の「十七条御法語」などでも「予がごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り」と、定善・散善を要門され弘願を憑むべきであるとされている。
  8. 深信釈中の四重の破人についての「専心念仏及修余善 畢此一身後 必定生彼国者(専心に念仏し、および余善を修すれば、この一身を畢へて後必定してかの国に生ず)」七祖p.460の文。
  9. 1350年頃成立の西山派の『輪円草』の割註に<私云、善人尚生況悪人乎。六八誓願如船筏。>の言がある。