三心料簡および御法語の訓読
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『三心料簡および御法語』
一、三心料簡事[1]
- 一、三心料簡の事
- 付疏第四仰云。先浄土 悪雑善永以 不可生知。
疏 (観経疏)の第四についての仰せに云 く。まず浄土には悪の雑 わる善は永く以って生ずべからずと知るべし。 [2]
- 是以者義分、定即息慮以疑(凝)心、散即廃悪以修善、廻此二行求願往生。文
- ここを以って義分(玄義分)には、「定はすなはち
慮 りを息 めてもつて心を凝 らす。散はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す」[3]の文。
- ここを以って義分(玄義分)には、「定はすなはち
- 又散善義云、上輩上行上根人、求生浄土 断貪嗔。文
- また「散善義」に云く「上輩は上行上根の人なり。浄土に生ずることを求めて貪瞋を断ず」[4]の文。
- 然則(即) 今此至誠心中 所嫌之虚仮行者、余善諸行也。
- 三業精進雖勧、内貪嗔邪偽等 血毒雑故、名雑毒之善 名雑毒之行、云往生不可也。
- 三業に精進を勧むといえども、内に貪嗔邪偽等の血毒雑る故に、雑毒の善と名づけ雑毒の行と名づけ往生不可と云ふなり。
- 是以 礼讃専雑二行得失中、雑修失云。貪嗔諸見 煩悩来間断。
- これを以って『礼讃』の専雑二行得失中の、雑修の失に云く「貪・嗔・諸見の煩悩来りて間断す」[5]と。
- 故廻此等雑行、直欲生報仏浄土者、尤不可嫌道理也。
- 故にこれらの雑行を
回 らして、ただちに報仏浄土に生ぜんと欲するは、もっとも不可と嫌う道理なり。
- 故にこれらの雑行を
- 然以身口二業為外、以意業一為内者 僻事也。既云 雖起三業 豈除意業乎。
- しかれば、身口の二業をもって外となし、意業の一をもって内となさんは
僻事 なり。すでに「三業を起こすといえども」と云えり、あに意業を除かんや。
- しかれば、身口の二業をもって外となし、意業の一をもって内となさんは
- 又虚仮者、狂惑者云事 僻事。既云苦励身心、又云日夜十二時 急走急作 如炙頭然者。文
- また「虚仮」とは、狂惑者ということ僻事とす。すでに「身心を苦励し」と云い、また「日夜十二時、急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするもの」と云ふ文。
- 云何 仮名之行人 如此哉、正是雑行者也。
- いかんぞ仮名の行人、この如きなるや、まさにこれ雑行の者なり。
- 次所選取之真実者、本願功徳 即正行念仏也。
- つぎに選取するところの真実とは、本願の功徳すなわち正行の念仏なり。
- 是以玄義分云。言弘願者、如大経説、一切善悪凡夫得生者、莫不皆乗阿弥陀仏大願業力 為増上縁也。云々
- 是以 今文正由彼阿弥陀仏因中 行菩薩行時、乃至一念一刹那三業所修、皆是真実心中作云々。
- ここを以て今の文に「正しく彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の修すところ、皆これ真実心の中に作すに由るべし」と云々。
- 由阿弥陀仏因中真実心中作行 悪不雑之善故云真実也。
- 阿弥陀仏因中の真実心の中に
作 すに由 る行こそ悪雑 はらざるの善なるが故に真実と云ふなり。
- 阿弥陀仏因中の真実心の中に
- 其義以何得知。次釈、凡所施為・趣求亦皆真実文。
- その義なにを以て知ることを得ん。次の釈に「おほよそ
施為 ・趣求 するところ、またみな真実なり」[7]の文。
- その義なにを以て知ることを得ん。次の釈に「おほよそ
- 此以真実施者、施何者云、深心二種釈第一 罪悪生死凡夫云 施此衆生也。
- この真実を以て施すとは何者に施すと云はば、深心の二種の釈の第一、罪悪生死の凡夫と云へる、この衆生に施すなり。
- 造悪之凡夫 即可由此真実之機也。
- 造悪の凡夫、すなわちこの真実に由るべきの機なり。
- 云何得知。
- 云何が知ることを得る。
- 第二釈 阿弥陀仏四十八願 摂受衆生等。云々
- 第二の釈に、「阿弥陀仏四十八願衆生を摂受す」等と云々。かくのごとく心得べきなりと云々。
- 如此可得心也。云々
- このごとく心得べきなりと云々。
- 深心中反修余善云事、以余善云事以余行可往生非為答。
- 深心の中に反じて「修余善(余善を修す)」いう事、余善という事を以って、余行を以って往生すべしと答えんとなすにあらず。
- 難破言 不可指南也。
- 難破の言なれば、指南とすべからずなり。[8]
- 五種正行中観察門事、非十三定善。
- 五種の正行中の観察門という事は、十三定善には非ず。
- 散心念仏行者 極楽有様相像欣慕心也。
- 散心の念仏行者の、極楽のありさまを相像して欣慕する心なり。
- 廻向発願心(回向発願心)始、真実深信心中廻向(回向)云事、此三心中、回向(廻向)云心也。
- 回向発願心の始めに、「真実の深信の心中に回向して」という事、これは三心中の回向という心なり。
- 去過今生諸善者、三心已前功徳取返極楽廻向(回向)云也。
- 過去今生の諸善は、三心已前の功徳を取返して極楽に廻向せよというなり。
- 全三心後非云行諸善也云々。
- 全く三心の後に諸善を行ぜよというにはあらずと云々。
白道事、雑行中願往生心、白道為貪嗔水火被損。
- 以何得知。
- 釈云 廻諸行業 直向西方也云々。
- 諸行往生願生心 白道聞。
- 次専修正行願生心 名願力道。
- 以何得知。
- 仰蒙釈迦発遣指南(向)、西方又藉弥陀悲心招喚、今信順二尊之意、不顧水火二河、念念無遺、乗彼願力之道、捨命已後得生彼国文。
- 已下文是也。
- 正行者、乗願力道故、全不貪嗔水火損害。
- 是以譬喩中云、西岸上有人喚言、汝一心正念直来我能護汝、衆不畏堕於水火難云々。
- 合喩中云、言西岸上有人喚者、即喩弥陀願意也云々。
- 専修正行人 不可恐貪嗔煩悩也、乗本願力白道、豈容被損火〔焔〕水波哉云々。
一、定善中自余衆行雖名是善、若比念仏者、全非比校也云事。
- 諸行与念仏比校之時、云念仏勝 余行劣 弥諍論不絶事也。
- 只念仏本願行也、諸善非本願行也云時、真言法花(法華)等甚深微妙行、全非比校也。
- 存此旨 可云比校義也。
一、無智者三心具云事
- 一向心念仏申、無疑往生思、即三心具足也云々。
- 私云、一向心者至誠心也。
- 無疑者深信也。
- 往生思心廻向発願心(回向発願心)也。
一、余行シツヘケレトモ、セスト思、専修心也。
- 余行目出ケレトモ身カナハ子ハエセスト思ハ、修セ子トモ雑行心也云々。
一、造悪機念仏事
- 造悪身之故念仏申也。
- 造悪料非 念仏申可得心也云々。
一、善悪機事
- 念仏申者、只生付ママニテ申ヘシ。
- 善人乍善人、悪人乍悪人、本ママニテ申スヘシ。
- 此入念仏之故、始持戒破戒ナニクレト云ヘカラス。
- 只本体アリノママニテ申ヘシト云々。
- 付之問云。本聖道門人持戒帰浄土門之時、捨持戒 持斉修専修念仏、即成破戒過如何。
- 答。念仏行者 欲犯悪之時思。
- 念仏申 此罪滅スヘシト存犯罪、誠悪義也。
- 但真言有調伏之法云事、兼憑後調之法故也云事。
- 其様 犯罪兼憑本願之滅罪力、全不苦事也云々。
一、悪機一人置此機往生謂ハレタル道理ナリケリト知程習タルヲ、浄土宗善学タルトハ云也。
- 此宗悪人為手本 善人摂也。
- 聖道門善人為手本 悪人摂也。云々
一、行者生所依心行事
- 但念仏生極楽国、但余行生懈慢国也。
- 然念仏余善兼行者亦有二。
- 念仏方心重 雑余行生極楽、余行方心重助念仏生懈慢云々。
一、知我身具三心事
- 如大経説、歓喜踊躍心既発、可知三心具瑞也。
- 歓喜者、往生決定思故喜心也。
- 往生不定歎位(不定嘆位)未発三心也之者也。
- 不発三心故無歓喜心、是則致疑故歎(嘆)也云々。
一、一法摂万機事
- 第十八願云十方衆生、無漏十方之衆生、我願内込十方也。
- 法照禅師云、彼仏因中立弘誓、聞名念我惣来迎、不簡貧窮将富貴、不簡下智与高才、不簡多聞持浄戒、不簡破戒罪根深、但使廻心多念仏、能令瓦礫変成金云々。
- 此文心我身貧窮不造功徳、下知不知法門、破戒雖犯罪障、便廻心多念仏思。云々
一、無智為本事
- 凡聖道門極智恵(智慧)離生死、浄土門還愚痴生極楽、所以趣聖道門之時、瑩智恵(智慧)守禁戒、浄心性以為宗。
- 然入浄土門之日、不憑智恵(智慧)、不護戒行、不調心器、只云 無甲斐成無智者、憑本願 願往生也云々。
- 書此状御自筆、禅勝房田舎下京ツトニ取ラセムトテ給タリト云々。
- 又云、源空念仏申一文不通男女斉申、全年来修学智恵(智慧)一分不憑也。
- 然カク知又クルシカラヌソト云々。
一、阿弥陀経一心不乱事
- 一心者、何事心一スルソト云、一向念仏申阿弥陀仏心我心一成也。
- 如天台十疑論云。如世間慕人能受慕者 機念相投必成其事。
- 慕人者阿弥陀仏也、恋ラルル者我等也。
- 既心発一向阿弥陀、早仏心一成也。
- 故云一心不乱。
- 上少善根福徳因縁念ウツサヌ也云々。
一、阿弥陀経善男子善女人事
- 此執持名号身成故、云善男子善女人也。如下品上生一生十悪凡夫 最後一称時 被讃善男子。
- 実本機五濁悪世悪時衆生也。
- 是以観念法門 釈阿弥陀経 今文云若仏在世、若仏滅後、一切造罪凡夫。云々
- 可思合。
一、定機事
- 浄土宗弘於大原談論時、法門比牛角論事不切、機根比源空勝タリシ也。
- 聖道門法門雖深今機(不)叶、浄土門似浅今根易叶云之時、人皆承伏云々。
一、前念命終後念即生事
- 前念後念者、此命尽後受生時分也、非行念、往生称名、称名正覚業。
- 然則称名命終、正定中終者也云々。
一、阿弥陀経難信之法事
- 此罪悪凡夫 依但称名 得往生云事、衆生不信也。
- 依之釈迦諸仏切証誠云也云々。
一、無戒定恵(戒定慧)者可念仏云事
- 此無下義也。
- 縦雖戒定恵(戒定慧)三学全具、不修本願念仏者不可得往生。
- 雖無戒定恵(戒定慧)一向称名必可得往生也云々。
一、乃至一念即得往生事
- 我等非一念機乃至機也。云々
- 又乃至十念如此。
- 吾等非十念機乃至機也云々。
- 釈上尽一形至十声一声等 定得往生。
- 又如此吾等 非下至十声機 上尽一形機也云々。
一、以五決定往生云事
- 一弥陀本願決定也、二釈迦所説決定也、三諸仏証誠決定也、四善導教釈決定也、五我等信心決定、以此義故往生決定也云々。
一、若存若亡事
- 乗本願云存、下本願云亡也。
- 乗有二義、下有二義。
- 謂造悪業之時 発道心之時也。
- 造罪時ヲルルトハ者、如此造悪身 定可背仏意 思即ヲルル也、此云亡也。
- 道心発時ヲルルトハ者、如此発道心申念仏 叶仏意思即ヲルルニテ有也、此云亡也。
- 造罪時乗者、罪ツクラルルニ付モ、此本願ナカラマシカハ何為。
- 乗此本願之故、雖造悪決定往生ヘシト思乗也、此云存。
- 又道心発時乗者、如此之道心不始于今、我過去生生発。
- 然未離生死之故、知道心不救我。
- 唯仏願力我助候ヘキ。
- サレハ道心有無アレ其不顧、唯須称名号生浄土思即乗也。
- 此云存云々。
一、平生臨終事
- 於平生念仏往生不定思、臨終念仏又以不定也。
- 以平生念仏決定思、臨終又以決定也云々。
一、一念信心事
- 取信於一念、尽行於一形、疑一念往生者、即多念皆疑念之念仏也云々。
- 又云、一期終一念 一人往生、況一生間積多念功 豈不遂一度往生乎。
- 毎一念 有一人往生徳、何況多念 無一往生哉云々。
一、本願成就事
- 念仏我所作也、往生仏所作也。
- 往生仏御力セシメ給物、我心トカクセムト思自力也、唯須待付称名之来迎。
一、礼讃若能如上念念相続事
- 往生要集指三心五念四修云如上也。
- 依之云之三心五念四修中明正助二行、指之云念念相続也云々。
一、無外雑縁得正念故事
- 此見他大善我心無怯弱云也。
- 仮令見法勝寺九重塔、我不立一寸塔云無疑心。
- 又拝東大寺大仏我不半寸仏云無卑下心。
- 称名一念得無上功得、決定可往生思定 云外雑縁得生念故也。
- 如此信者念仏、与弥陀本願相応、与釈迦教無相違、随順諸仏証誠ニテアル也。
- 雑行十三失以此義可得心也。
一、請用念仏事
- 趣他請修念仏者、有三種利益。
- 一自行勇猛也、二助旦那願念、三為能衆成利益也。
- 功徳有体用二、体留自用施他。
- 妙楽大師云、以善法体不可与人。已上
- 此釈願以此功徳文之所也云々。
一、善人尚以往生況悪人乎事《口伝有之》[9]
- 私云。弥陀本願 以自力可離生死有方便 善人ノ為ヲコシ給ハス。
- 哀極重悪人 無他方便輩ヲコシ給。
- 然菩薩賢聖 付之求往生、凡夫善人 帰此願 得往生、況罪悪凡夫 尤可憑此他力云也。
- 悪領解不可住邪見、譬如云為凡夫兼為聖人。能能可得心可得心。
初三日三夜読余之、後一日読之、後二夜一日読之。
参 考
- ↑ 『観経』の至誠心・深心・回向発願心の三心についての考察。
- ↑ 『観経疏』第四「散善義」の流通分「五に「若念仏者」より下「生諸仏家」に至るこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。」七祖p.499の文か?
- ↑ 七祖p.301 ◇これを定善・散善の廃悪修善の《要門≫とし、次下の「玄義分」の「弘願といふは『大経』に説きたまふがごとし。 一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力(本願力)に乗じて増上縁となさざるはなし」の《弘願門》と対比されている。つまり廃悪修善の《要門》と廃悪修善によらない本願力の《弘願門》の綱格の違いを出す。
- ↑ 「上輩総讃」七祖p.480。◇浄土教は元来、善悪平等の救いの教法であるので、下輩・下行・下根人を選ばない教えであるから、衆生の貪嗔を断じないままに浄土に往生する。しかるに、なんまんだぶ一行一心の救いを領解できない余善諸行(雑行)の者は、貪嗔を断じなければ往生できないという文証。
- ↑ 七祖p.660 専雑得失(雑行の十三失)の文。
- ↑ 七祖p.301 「要弘二門判」。この「玄義分」の文を出すことによって、要門とは別に、阿弥陀仏因中の菩薩行が真実であり、一切善悪の凡夫は、その因中の真実に由る大願業力の弘願門があることを示される。これは又、雑行を捨て阿弥陀仏の大願業力に乗ずることでもある。
- ↑ 『観経疏』の当面では、施為は利他、趣求は自利の、行者の自利/利他行をいうのであるが、真実(至誠心)の主体を阿弥陀仏であるとして、その真実の至上心を深心釈の第一釈(機の深信)の、罪悪生死の凡夫に施為(利他)するというのである。これはまさに破天荒ともいえる親鸞聖人の至誠心釈の訓点は、法然聖人の意を正確に受け継いでおられることが解かる。なお、法然聖人の『三部経大意』の至誠心釈にも、疏文のままの至誠心では「このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり。ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。これにつきて摠別の義あるべし。摠といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり」とされ、『西方指南抄』の「十七条御法語」などでも「予がごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り」と、定善・散善を要門され弘願を憑むべきであるとされている。
- ↑ 深信釈中の四重の破人についての「専心念仏及修余善 畢此一身後 必定生彼国者(専心に念仏し、および余善を修すれば、この一身を畢へて後必定してかの国に生ず)」七祖p.460の文。
- ↑ 1350年頃成立の西山派の『輪円草』の割註に<私云、善人尚生況悪人乎。六八誓願如船筏。>の言がある。