三業
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
さんごう
身・口・意のはたらき。
身に行う身業、口に言う口業(語業ともいう)、心に思う意業(思業ともいう)を三業という。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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説一切有部の解釈では、業(行為)は、心の中で分別思惟した思業(しごう)と、思業が終わってからなされる思已業(しいごう)との2つに分けられる。これこれをなそうと意思したのが思業であり、身業と口業(語業)は、意思である思業から生じるので思已業といわれる。思業は意業であり、思已業は動機が身業と口業としてあらわれたものだからである。思(意業)と思已業(身業・口業)という考え方は、人間のなす行為はすべて思 (心所法の思)である心的行為から生ずるとみる説であり、一切を識に帰する唯識説に展開していく。
- →自性唯心
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:三業
さんごう/三業
三種類の行為の意で、身業・口業・意業のこと。口業は語業とも、また意業は思業ともいう。有部では、身体の形が身業であり、語の音声が語業であり、意思が意業であるとされる。この三業の関係は、意思である意業から身業と語業の二つの業が生じるのであり、身業・語業は思已業といわれる。さらに身業と語業には、外に表れる表業と強い善悪の業によって生じる無表業とがある。この三業に関連して善導は『往生礼讃』に「一には至誠心。謂う所の身業に彼の仏を礼拝し、口業に彼の仏を讃歎し称揚し、意業に彼の仏を専念し観察す。凡そ三業を起すに、必ず須く真実なるべし。故に至誠心と名づく」(浄全四・三五四下)と述べて、至誠心とは三業が真実であることと説く。また、三業を念仏との関連で見るとき『観経疏』定善義に「衆生、行を起して、口常に仏を称すれば、仏すなわち、これを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわち、これを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわち、これを知りたまう。衆生、仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまう。彼此の三業相い捨離せず、故に親縁と名づく」(聖典二・二七二~三/浄全二・四九上)として、念仏を通じて阿弥陀仏と行者の三業が相捨離しないという。これは三縁の中の親縁である。これを受けて法然は、『選択集』二において五番相対の第一に親疎対として親縁の義を示す。西山派では離三業念仏を説く。
【執筆者:齊藤舜健】