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トーク

二種深信

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2017年12月31日 (日) 02:30時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

浅原才市さんのうた

仏智不思議を疑うことのあさまし
三十四年 罪の詮索するからよ
罪の詮索無益なり
罪の詮索せぬ人は
暖簾すがりかホタすがり
閻魔の前で いんま後悔
罪の詮索する人は
ここで金剛心をいただく

『歎異鈔』には、

願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ他力にては候へ。『唯信抄』にも、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。 (歎異抄 P.844)

とあるように、自らの自覚としての罪悪感に拘泥して本願を信受しなかったことを「仏智不思議を疑うことのあさまし」といい「罪の詮索無益なり」というのであろう。

それはまた蓮如さんが、

あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて (御文章 P.1124)
それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、(御文章 P.1135)
ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて (御文章 P.1143)
あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば (御文章 P.1184)
わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて、(御文章 P.1191)
さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、(御文章 P.1201)
まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、(御文章 P.1204)

等々とされた意であった。また『御一代記聞書』には

一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。(一代記 P.1245)

と、「罪の沙汰無益なり」とある。

後段で「罪の詮索せぬ人は暖簾すがりかホタすがり」とあるのは、以下で星野元豊師が述べられた「ただ如来の本願力に遇うた時にのみ、はじめて知らされる罪悪深重である。仏の光に照らし出されて見せしめられる悪業煩悩である」のであろう。本願の智慧の光のゆえに己の真実の闇が知らされるのであった。

古来、「悪人正機説」として、『歎異妙』の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉に代表されて、親鸞のすぐれた特色とされているものである。たしかにそれは本願の呼び声に接して不信の自已を徹底的に見つめた者の呟かずにはおれなかった述懐であろう。親鸞の罪悪深重、虚仮不実の告白もここから生まれたものである。謗法こそ罪悪の極である。親鸞の罪悪への徹見は多くの人の胸をうち、共感をよび、その罪悪観は彼の特色として高く評価されてきている。たしかに罪悪深重煩悩熾盛の痛烈なる体験は他に比をみない。ところが親鸞のこの罪悪観に共鳴する人たちが、道徳的罪悪の深化したものとして理解しがちであるように思う。より正確にいうと、人間的反省に反省を加えた極、獲られた罪悪観ととりがちであった。例えば「わが身は罪深き悪人なりと思いつめて」というごとき表現によって示されるような罪悪の自覚と同一視されがちであった。しかし親鸞の罪悪はただ如来の本願力に遇うた時にのみ、はじめて知らされる罪悪深重である。仏の光に照らし出されて見せしめられる悪業煩悩である。人間的な罪悪の自覚とは全く質的に異なり、次元を異にしたものなのである。人間的罪悪と親鸞のいう罪悪とは絶対に混同することの許されないものである。もしそれが一厘でも混同されるとき、親鸞の罪悪観はたちまち甘いセンチメンタリズムに堕するか、すべてを深刻ぶって表現する道学者の罪悪観に顛落するであろうからである。わたくしは今までいく度かその例を見ているがゆえに、人間的罪悪観と親鸞の罪悪観との区別を厳しく誠めたいと思う。→『親鸞 教行信証』──原典日本仏教の思想── より。

西田幾多郎は、わが子を亡くしたことを綴って以下のように言う。

最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依《きえ》する時、後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、心は重荷を卸《おろ》した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕《お》つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺《うかが》うを得て、無限の新生命に接することができる。→『我が子の死』西田幾多郎

同じ意を三木清は著述『親鸞』の中で、

 親鸞の文章には到るところ懺悔がある。同時にそこには到るところ讃歎がある。懺悔と讃歎と、讃歎と懺悔と、つねに相応じている。自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。親鸞はすぐれて宗教的な人間であった。懺悔と讃歎とは宗教の両面の表現である。〔欄外 Augustinus〕親鸞の文章からただ懺悔に属するもののみを取り出して、彼の宗教の人間的であることを論ずる者は、彼の思想を単に美的なもの、文芸的なものにしてしまうことであって、いまだ宗教的人間のいかなるものであるかを知らざるものといわねばならぬ。親鸞における人間の問題はどこまでも宗教的人間の問題、宗教的人間の存在の仕方の問題でなければならぬ。懺悔は単なる反省から生ずるものではない。自己の反省から生ずるものは、それが極めて真面目な道徳的反省であっても、後悔というものに過ぎず、後悔と懺悔とは別のものである。〔欄外「後悔はそれぞれの行為、懺悔は全存在にかかわる。」〕後悔はわれの立場においてなされるものであり、後悔する者にはなおわれの力に対する信頼がある。懺悔はかくのごときわれを去るところに成立する。われはわれを去って、絶対的なものに任せきる。そこに発せられる言葉はもはやわれが発するのではない。自己は語る者ではなくてむしろ聞く者である。聞き得るためには己れを空しくしなければならぬ。かくして語られる言葉はまことを得る。およそ懺悔はまことの心の流露であるべきはずである。しかるにまことの心になるということはいかに困難であるか。自己を懺悔する言葉のうちにいかに容易に他に対してかえって自己を誇示する心が忍び込み、またいかに容易に罪に対してかえって自己を甘やかす心が潜み入ることであるか。→『親鸞』三木清

西田幾多郎は、「後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである」からだという。三木清は、「後悔する者にはなおわれの力に対する信頼がある。懺悔はかくのごときわれを去るところに成立する」とされ、後悔することは自らの心の中での、逡巡でありそのような行為には救いがないということであろう。機の深信とは宗教的真実なるものと出遇ったときに発動する懺悔をいうのである。
御開山は『尊号真像銘文』で、

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり

とされておられた。なんまんだぶを称えることは阿弥陀仏を讃嘆し懴悔することになるとされおられた。真如法性の如来は、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして」で衆生には理解不能なのではあるが、なんまんだぶを称えることは仏徳を讃嘆することになり、真の懺悔することになるのだとお示しであった。直接の引文は智栄師であるが、「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ(況我弥陀 以名接物)」の意をみられていたのであった。なんまんだぶ なんまんだぶ