一念転釈
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
2017年11月28日 (火) 15:12時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「<div style="font-size:120%;line-height:160%;"> 浄土真宗の所依の経典である『大無量寿経』には、重要な術語として「'''乃至一念'''」と...」)
浄土真宗の所依の経典である『大無量寿経』には、重要な術語として「乃至一念」という語がある。御開山は「行文類」で、
- おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。(*)
と、「行にすなはち一念あり、また信に一念あり」と、いわゆる行信の一念について述べておられる。この行の一念とは、『大無量寿経』の流通分に於いて、
- 仏 弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。 まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」(*)
と、弥勒に付属する乃至一念である。御開山が「教文類」で、
- この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。(*)
といわれる、真実の利とは、この流通分の無上の功徳である乃至一念の〈なんまんだぶ〉であった。
この無上の功徳である〈なんまんだぶ〉を、往生浄土の業因として信知し称え受容することを信の一念というのである。信文類で、
- それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(*)
の信の一念であった。本願成就文の、
- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。 (*)
である。この、いわゆる本願成就文の「乃至一念」は、法然聖人によれば一声の称名〈なんまんだぶ〉であったのだが、御開山は『大無量寿経』の異訳の『無量寿如来』の成就文、
- 他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん。 (*)
の「一念の浄信を発して」の語によって、法然聖人の示された〈なんまんだぶ〉と称える一声とは阿弥陀如来の呼び声を聞く、
- 「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。 (*)
の聞である信であると領解されたのである。
御開山は、善導大師の「専心専念」の文を引いて、信巻末の「一念転釈」で〈なんまんだぶ〉の専念はそのままが行信不離の専心であるとして、
- しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ「専心」なり。(『註釈版聖典』二五二頁)
と、第十八願成就文の「一念」を「専心」であるとされるのである。この専心である信を以下十九句をあげて釈しておられる。この釈は本願回向のご信心の徳をあらわすために、いろいろな信心の異名をあげ転釈されておられるのである。この経・論・釈からの十九句の意味と出拠を梯實圓和上の聖典セミナー『教行信証』信巻から窺ってみる。なお原文は漢文なので参考としてあげておく。
- 専心 即是深心。
- 深心 即是深信。
- 深信 即是堅固深信。
- 堅固深信 即是決定心。
- 決定心 即是無上上心。
- 無上上心 即是真心。
- 真心 即是相続心。
- 相続心 即是淳心。
- 淳心 即是憶念。
- 憶念 即是真実一心。
- 真実一心 即是大慶喜心。
- 大慶喜心 即是真実信心。
- 真実信心 即是金剛心。
- 金剛心 即是願作仏心。
- 願作仏心 即是度衆生心。
- 度衆生心 即是摂取衆生 生安楽浄土心。
- 是心 即是大菩堤心。
- 是心 即是大慈悲心。
- 是心 即是由無量光明慧生故。
- 願海平等故発心等。発心等故道等。
- 道等故大慈悲等。大慈悲者 是仏道正因故。