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九首和讃

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2024年8月25日 (日) 12:08時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

くしゅ-わさん 九首和讃

この「九首和讃」は京都常楽台(存覚上人は常楽台の住持だった)の宝庫より出でたるものと伝え、古来、御開山の真作であると伝えられる。しかし、現代では疑問が持たれている。用語例から見て御開山のものとするには疑いが残る。なお御開山の「御臨末の御書」とされる書は明らかに後世の偽作であろう。→「御臨末の御書」

御開山は和歌は綺語(ウタヲヨミ イロヘ コトバ ヲ イフ)として使われず、今様といふ実直な形式で仏徳を讃詠されたのであった。「我なくも 法は尽きまじ和歌の浦 あをくさ人のあらんかぎりは」などいふ技巧的な和歌を詠まれることはありえないと思ふ。
以下帖外九首和讃

(1)

四十八願成就して
 正覚の弥陀となりたまふ
 たのみをかけしひとはみな
 往生かならずさだまりぬ。

(2)

極楽無為の報土には
 雑行むまるゝことかたし
 如来要法をえらんでは
 専修の行ををしへしむ。

(3)

兆載永劫の修行は
 阿弥陀の三字にをさまれり
 五劫思惟の名号は
 五濁のわれらに付属せり。

(4)

阿弥陀如来の三業は
 念仏行者の三業と
 彼此金剛の心なれば
 定聚のくらゐにさだまりぬ。

(5)

多聞浄戒えらばれず
 破戒罪業きらはれず
 たゞよく念ずるひとのみぞ
 瓦礫も金と変じける。

(6)

金剛堅固の信心は
 仏の相続よりおこる
 他力の方便なくしては
 いかでか決定心をえん。

(7)

大願海のうちには
 煩悩のなみこそなかりけれ
 弘誓のふねにのりぬれば
 大悲の風にまかせたり。

(8)

超世の悲願きゝしより
 われらは生死の凡夫かは
 有漏の穢身はかはらねど
 こゝろは浄土にあそぶなり。

(9)

六八の弘誓のそのなかに
 第三十五の願に
 弥陀はことに女人を
 引接せんとちかひしか。

なお、

超世の悲願きゝしより
 われらは生死の凡夫かは
 有漏の穢身はかはらねど
 こゝろは浄土にあそぶなり。

の一首をとりあげて、有漏穢身を離れて、心の往生を説く人もいるのだが、これは時衆との混同であろう。
一遍上人は、「他力称名の行者は此の穢身はしばらく穢土にありといへども、心はすでに往生をとげて浄土にあり」「播州法語集」(林遊は未見)と云われたそうだが、この意が浄土真宗に混入されたのであろう。
御開山は、

惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。(真巻 P.371)

とされておられた。「和讃」では、
(12)

安養浄土の荘厳は
 唯仏与仏の知見なり
 究竟せること虚空にして
 広大にして辺際なし (高僧 P.580)

と唯仏与仏の知見とされ、「御消息」では浄土は、

仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。(消息 P.779)

とされておられた。
もちろん凡情として浄土を語るのは否定できないが、凡情に流されるといふ危険も考察すべきであろう。
ちなみに林遊は、夕日の沈む西方の仏国を、母も往った、父も往った、やがていのち終わればあえる世界(妙有)であると実体視しているのであった。ありがたいこっちゃなあ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

凡情を遮せず