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恵信尼消息

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2009年9月6日 (日) 15:13時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

 本書は大正時代になってはじめて公表されたもので、親鸞聖人の内室、恵信尼公が弘長3年(1263)から文永5年(1268)に至る6年間にわたって、末娘の覚信尼公にあてて書き送られた8通の手紙である。なおそのほかに譲状2通と、『大経』の音読仮名書が添えられている。

 最初の4通は、聖人の御往生について覚信尼公から書状を受け取った際に、聖人のことを懐かしく回想されて書かれたものである。これらの書状のなかでとくに注目すべきものは、聖人が比叡山で堂僧をつとめられていたことや、法然上人との出会いに至るまでのことを示した記事であろう。また聖人がかつて三部経千回読誦を中止されたことを回顧された記述や、法然上人が勢至の化身であり聖人が観音の化身であるという恵信尼公の夢のことなども注意すべきである。他の6通には恵信尼公の身辺のもようが記されている。

 このように本書は、聖人の生涯、さらに聖人と恵信尼公、覚信尼公と恵信尼公との間柄を伝える貴重な資料でもある。

恵信尼消息

   恵信尼消息

(1)

 去年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかにみ候ひぬ。なによりも殿(親鸞)の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候ふ。

 を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて後世をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんずるにあひまゐらせんとたづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々に迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。

 さて、常陸の下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、夢をみて候ひしやうは、堂供養かとおぼえて、東向きに御堂はたちて候ふに、しんがくとおぼえて、御堂のまへにはたてあかししろく候ふに、たてあかしの西に、御堂のまへに、鳥居のやうなるによこさまにわたりたるものに、仏を掛けまゐらせて候ふが、一体はただ仏の御顔にてはわたらせたまはで、ただひかりのま中、仏の頭光のやうにて、まさしき御かたちはみえさせたまはず、ただひかりばかりにてわたらせたまふ。

いま一体はまさしき仏の御顔にてわたらせたまひ候ひしかば、「これはなに仏にてわたらせたまふぞ」と申し候へば、申す人はなに人ともおぼえず、「あのひかりばかりにてわたらせたまふは、あれこそ法然上人にてわたらせたまへ。

勢至菩薩にてわたらせたまふぞかし」と申せば、「さてまた、いま一体は」と申せば、「あれは観音にてわたらせたまふぞかし。あれこそ善信の御房(親鸞)よ」と申すとおぼえて、うちおどろきて候ひしにこそ、夢にて候ひけりとは思ひて候ひしか。

さは候へども、さやうのことをば人にも申さぬときき候ひしうへ、尼(恵信尼)がさやうのこと申し候ふらんはげにげにしく人も思ふまじく候へば、てんせい人にも申さで、上人(法然)の御事ばかりをば、殿に申して候ひしかば、「夢にはしなわいあまたあるなかに、これぞ実夢にてある。

上人をば、所々に勢至菩薩の化身と夢にもみまゐらすることあまたありと申すうへ、勢至菩薩は智慧のかぎりにて、しかしながら光にてわたらせたまふ」と候ひしかども、観音の御ことは申さず候ひしかども、心ばかりはそののちうちまかせては思ひまゐらせず候ひしなり。

かく御こころえ候ふべし。

 されば御りんずはいかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ、おなじことながら、益方も御りんずにあひまゐらせて候ひける、親子の契りと申しながら、ふかくこそおぼえ候へば、うれしく候ふ、うれしく候ふ。

 またこの国は、去年の作物、ことに損じ候ひて、あさましきことにて、おほかたいのち生くべしともおぼえず候ふなかに、ところどもかはり候ひぬ。一ところならず、益方と申し、またおほかたはたのみて候ふ人の領どもみなかやうに候ふうへ、おほかたの世間も損じて候ふあひだ、なかなかとかく申しやるかたなく候ふなり。かやうに候ふほどに、年ごろ候ひつる奴ばらも、男二人、正月うせ候ひぬ。なにとして物をも作るべきやうも候はねば、いよいよ世間たのみなく候へども、いくほど生くべき身にても候はぬに、世間を心ぐるしく思ふべきにも候はねども、身一人にて候はねば、これらが、あるいは親も候はぬ小黒女房の女子、男子、これに候ふうへ、益方が子どもも、ただこれにこそ候へば、なにとなく母めきたるやうにてこそ候へ。いづれもいのちもありがたきやうにこそおぼえ候へ。

 この文ぞ、殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、 六角堂に百日籠らせたまひて後世の事いのりまうさせたまひける九十五日の あか月の御示現の文なり。御覧候へとて書きしるしてまゐらせ候ふ。


(2)

 「ゑちごの御文にて候ふ」

 この文を書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申しても要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人によく書かせてもちまゐらせたまふべし。

 またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。幼く、御身の八つにておはしまし候ひし年の四月十四日より、かぜ大事におはしまし候ひしときのことどもを書きしるして候ふなり。

 今年は八十二になり候ふなり。一昨年の十一月より去年の五月までは、いまやいまやと時日を待ち候ひしかども、今日までは死なで、今年の飢渇にや飢死もせんずらんとこそおぼえ候へ。かやうの便りに、なにもまゐらせぬことこそ心もとなくおぼえ候へども、ちからなく候ふなり。

 益方殿にも、この文をおなじ心に御伝へ候へ。もの書くことものうく候ひて、別に申し候はず。

 「弘長三年癸亥」    二月十日


(3)  善信の御房(親鸞)、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、かざ心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して大事におはしますに、腰・膝をも打たせず、てんせい看病人をもよせず、ただ音もせずして臥しておはしませば、御身をさぐればあたたかなること火のごとし。頭のうたせたまふこともなのめならず。

 さて、臥して四日と申すあか月、くるしきに、「まはさてあらん」と仰せらるれば、「なにごとぞ、たはごととかや申すことか」と申せば、「たはごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』をよむことひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字の一字も残らず、きららかにつぶさにみゆるなり。さて、これこそこころえぬことなれ。念仏の信心よりほかにはなにごとか心にかかるべきと思ひて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみげにげにしく三部経を千部よみて、すざう利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、〈自信教人信難中転更難〉(礼讃)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことはとどまりぬ。さて、臥して四日と申すあか月、〈まはさてあらん〉とは申すなり」と仰せられて、やがて汗垂りてよくならせたまひて候ひしなり。

 三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにてよみはじめて四五日ばかりありて、思ひかへしてよませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。 信蓮房は未の年三月三日の昼生れて候ひしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候ふ。

  弘長三年二月十日                 恵 信


(4)

 御文のなかに先年に、寛喜三年の四月四日より病ませたまひて候ひしときのこと書きしるして、文のなかに入れて候ふに、そのときの日記には、四月の十一日のあか月、「経よむことは、まはさてあらん」と仰せ候ひしは、やがて四月の十一日のあか月としるして候ひけるに候ふ。それを数へ候ふには、八日にあたり候ひけるに候ふ。四月の四日よりは八日にあたり候ふなり。

  わかさ殿申させたまへ               ゑしん


(5)

 もし便りや候ふとて、ゑちうへこの文はつかはし候ふなり。さても一年、八十と申し候ひし年、大事のそらうをして候ひしにも、八十三の歳一定と、ものしりたる人の文どもにも、おなじ心に申し候ふとて、今年はさることと思ひきりて候へば、生きて候ふとき卒都婆をたててみ候はばやとて、五重に候ふ石の塔を丈七さくにあつらへて候へば、塔師造ると申し候へば、いできて候はんにしたがひてたててみばやと思ひ候へども、去年の飢渇に、なにも、益方のと、これのと、なにとなく幼きものども上下あまた候ふを、殺さじとし候ひしほどに、ものも着ずなりて候ふうへ、しろきものを一つも着ず候へば、(以下欠失)

 一人候ふ。またおと法師と申し候ひし童をば、とう四郎と申し候ふぞ。そ
れへまゐれと申し候ふ。さ御こころえあるべく候ふ。けさが娘は十七になり
候ふなり。さて、ことりと申す女は、子も一人も候はぬときに、七つになり
候ふ女童をやしなはせ候ふなり。それは親につきてそれへまゐるべく候ふな

り。よろづ尽しがたくて、かたくてとどめ候ひぬ。あなかしこ、あなかしこ。


(6)

 便りをよろこびて申し候ふ。たびたび便には申し候へども、まゐりてや候ふらん。

 今年は八十三になり候ふが、去年・今年は死年と申し候へば、よろづつねに申しうけたまはりたく候へども、たしかなる便りも候はず。

 さて、生きて候ふときと思ひ候ひて、五重に候ふ塔の七尺に候ふ石の塔をあつらへて候へば、このほどは仕いだすべきよし申し候へば、いまはところどもはなれ候ひて、下人どもみな逃げ失せ候ひぬ。よろづたよりなく候へども、生きて候ふとき、たててもみばやと思ひ候ひて、このほど仕いだして候ふなれば、これへ持つほどになりて候ふときき候へば、いかにしても生きて候ふとき、たててみばやと思ひ候へども、いかやうにか候はんずらん。そのうちにもいかにもなり候はば、子どももたて候へかしと思ひて候ふ。

 なにごとも生きて候ひしときは、つねに申しうけたまはりたくこそおぼえ候へども、はるばると雲のよそなるやうにて候ふこと、まめやかに親子の契りもなきやうにてこそおぼえ候へ。

 ことには末子にておはしまし候へば、いとほしきことに思ひまゐらせて候ひしかども、みまゐらするまでこそ候はざらめ。つねに申しうけたまはることだにも候はぬこと、よに心ぐるしくおぼえ候ふ。

 「文永元年甲子

   五月十三日

  ぜんあくそれへの殿人どもは、もと候ひしけさと申すも、娘うせ候ひぬ。 いまそれの娘一人候ふ。母めもそらうものにて候ふ。さて、おと法師と申し 候ひしは、男になりて、とう四郎と申すと、また女の童のふたばと申す女の 童、今年は十六になり候ふ女の童は、それへまゐらせよと申して候ふなり。 なにごとも御文に尽しがたく候ひてとどめ候ひぬ。またもとよりのことり、七つ子やしなはせて候ふも候ふ

   五月十三日(花押)

  これはたしかなる便りにて候ふ。ときに、こまかにこまかに申したく候へ ども、ただいまとて、この便りいそぎ候へば、こまかならず候ふ。またこの ゑもん入道殿の御ことばかけられまゐらせて候ふとて、よろこび申し候ふな り。この便りはたしかに候へば、なにごともこまかに仰せられ候ふべし。あなかしこ。


(7)

 便りをよろこびて申し候ふ。

 さては去年の八月のころより、とけ腹のわづらはしく候ひしが、ことにふれてよくもなり得ず候ふばかりぞ、わづらはしく候へども、そのほかは年の故にて候へば、いまは耄れてさうたいなくこそ候へ。今年は八十六になり候ふぞかし、寅の年のものにて候へば。

 またそれへまゐらせて候ひし奴ばらも、とかくなり候ひて、ことりと申し候ふ年ごろのやつにて、三郎たと申し候ひしがあひ具して候ふが、入道になり候ひてさいしんと申し候ふ。入道めにはちあるもののなかのむまのぜうとかや申して御家人にて候ふものの娘の、今年は十やらんになり候ふを、母はよにおだしくよく候ひし、かがと申してつかひ候ひしが、一年の温病の年死にて候ふ。親も候はねば、ことりも子なきものにて候ふ。ときにあづけて候ふなり。

 それまた、けさと申し候ひし娘の、なでしと申し候ひしが、よによく候ひしも、温病に亡せ候ひぬ。その母の候ふも、年ごろ頭に腫物の年ごろ候ひしが、それも当時大事にて、たのみなきと申し候ふ。その娘一人候ふは、今年は二十になり候ふ。それとことり、またいとく、またそれにのぼりて候ひしときおと法師とて候ひしが、このごろとう四郎と申し候ふは、まゐらせんと申し候へば、父母うちすててはまゐらじと、こころには申し候ふと申し候へども、それはいかやうにもはからひ候ふ。かくゐ中ににみを入れて代りをまゐらせんとも、栗沢(信蓮房)が候はんずれば申し候ふべし。ただし代りはいくほどかは候ふべきとぞおぼえ候ふ。これらほどの男は世にすくなく申し候ふなり。

 また小袖たびたびたまはりて候ふ。うれしさ、いまはよみぢ小袖にて衣も候はんずれば、申すばかり候はずうれしく候ふなり。いまは尼が[恵信尼]着て候ふものは、最後のときのことはなしては思はず候ふ。いまは時日を待つ身にて候へば。

 またたしかならん便に、小袖賜ぶべきよし仰せられて候ひし。このゑもん入道の便りはたしかに候はんずらん。また宰相殿はありつきておはしまし候ふやらん。よろづ公達のことども、みなうけたまはりたく候ふなり。尽しがたくてとどめ候ひぬ。あなかしこ、あなかしこ。

  九月七日

  またわかさ殿も、いまは年すこし寄りてこそおはしまし候ふらめ。あはれ、ゆかしくこそ思ひ候へ。年寄りてはいかがしくみて候ふ人も、ゆかしくみたくおぼえ候ひけり。かこのまへのことのいとほしさ、上れんばうのことも思ひいでられてゆかしくこそ候へ。あなかしこ、あなかしこ。

                    ちくぜん

  わかさ殿申させたまへ            とひたのまきより


(8)

 「わかさ殿

 便りをよろこびて申し候ふ。

 さては、今年まであるべしと思はず候ひつれども、今年は八十七やらんになり候ふ。寅の年のものにて候へば、八十七やらん八やらんになり候へば、いまは時日を待ちてこそ候へども、年こそおそろしくなりて候へども、しはぶくこと候はねば、唾など吐くこと候はず。腰・膝打たすると申すことも当時までは候はず。ただ犬のやうにてこそ候へども、今年になり候へば、あまりにものわすれをし候ひて、耄れたるやうにこそ候へ。

 さても去年よりは、よにおそろしきことどもおほく候ふなり。

 またすかいのものの便りに、綾の衣賜びて候ひしこと、申すばかりなくおぼえ候ふ。いまは時日を待ちて居て候へば、これをや最後にて候はんずらんとのみこそおぼえ候へ。当時までもそれより賜びて候ひし綾の小袖をこそ、最後のときのと思ひてもちて候へ。よにうれしくおぼえ候ふ。衣の表もいまだもちて候ふなり。

 また公達のこと、よにゆかしくうけたまはりたく候ふなり。上の公達の御ことも、よにうけたまはりたくおぼえ候ふ。あはれ、この世にていま一度みまゐらせ、またみえまゐらすること候ふべき。わが身は極楽へただいまにまゐり候はんずれ。なにごともくらからず、みそなはしまゐらすべく候へば、かまへて御念仏申させたまひて、極楽へまゐりあはせたまふべし。なほなほ極楽へまゐりあひまゐらせ候はんずれば、なにごともくらからずこそ候はんずれ。

 またこの便は、これにちかく候ふみこの甥とかやと申すものの便に申し候ふなり。あまりにくらく候ひてこまかならず候ふ。またかまへてたしかならん便りには、綿すこし賜び候へ。をはりに候ふ、ゑもん入道の便りぞ、たしかの便りにて候ふべき。それもこのところにまゐることの候ふべきやらんときき候へども、いまだ披露せぬことにて候ふなり。

 またくわうず御前の修行に下るべきとかや仰せられて候ひしかども、これへはみえられず候ふなり。

 またわかさ殿のいまはおとなしく年寄りておはし候ふらんと、よにゆかしくこそおぼえ候へ。かまへて念仏申して極楽へまゐりあはせたまへと候ふべし。

 なによりもなによりも公達の御事、こまかに仰せ候へ。うけたまはりたく候ふなり。一昨年やらん生れておはしまし候ひけるとうけたまはり候ひしは、それもゆかしく思ひまゐらせ候ふ。

 またそれへまゐらせ候はんと申し候ひし女の童も、一年の大温病におほく亡せ候ひぬ。ことりと申し候ふ女の童も、はや年寄りて候ふ。父は御家人にてむまのぜうと申すものの娘の候ふも、それへまゐらせんとて、ことりと申すにあづけて候へば、よに無道げに候ひて、髪などもよにあさましげにて候ふなり。ただの童にて、いまいましげにて候ふめり。

 けさが娘のわかばと申す女の童の、今年は二十一になり候ふが、妊みて、この三月やらんに子産むべく候へども、男子ならば父ぞ取り候はんずらん。さきにも五つになる男子産みて候ひしかども、父相伝にて父が取りて候ふ。これもいかが候はんずらん。わかばが母は、頭になにやらんゆゆしげなる腫物のいでき候ひて、はや十余年になり候ふなるが、いたづらものにて時日を待つやうに候ふと申し候ふ。

 それに上りて候ひしをり、おと法師とて童にて候ひしが、それへまゐらすべきと申し候へども、妻子の候へば、よもまゐらんとは申し候はじとおぼえ候ふ。尼(恵信尼)がりんずし候ひなんのちには、栗沢(信蓮房)に申しおき候はんずれば、まゐれと仰せ候ふべし。

 また栗沢はなにごとやらん、のづみと申す山寺に、不断念仏はじめ候はんずるに、なにとやらん撰じまうすことの候ふべきとかや申すげに候ふ。五条殿の御ためにと申し候ふめり。

 なにごとも申したきことおほく候へども、あか月、便りの候ふよし申し候へば、夜書き候へば、よにくらく候ひて、よも御覧じ得候はじとてとどめ候ひぬ。

 また、針すこし賜び候へ。この便にても候へ。御文のなかに入れて賜ぶべく候ふ。なほなほ公達の御事こまかに仰せたび候へ。うけたまはり候ひてだになぐさみ候ふべく候ふ。よろづ尽しがたく候ひて、とどめ候ひぬ。

 また、さいさう殿いまだ姫君にておはしまし候ふやらん。

 あまりにくらく候ひて、いかやうに書き候ふやらん、よも御覧じ得候はじ。

  三月十二日亥の時