安心論題/信願交際
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(3)信願交際
一 宗門のながい歴史の中で、宗意安心についての最も大きな事件といえば三業惑乱でありましょう。そのおこりは、無帰命安心(たのまず秘事)のあやまりをただすために、願生帰命ということを説いたのが発端となり、やがて願生帰命説は誤りであるとする者と、誤りでないとする者と、教団を二分するような大問題となりましたが、最後には、願生帰命説は誤りであって、帰命とは信順の義であるという結末になったことは、周知のとおりであります。 この問題について正しい理解を得るには、本願の三心の中の「信楽」と「欲生我国」、本願成就文の上では「信心歓喜」と「願生彼国」の意義をよくうかがわなければなりません。「信願交際」という論題は、こうした問題に関する解明であります。
二 「信」とは、総じては本願の三心(至心・信楽・欲生)全体をいいますが、別していえば、三心の中の「信楽」を指します。本願成就文ではこれを「信心歓喜」と説かれています。 「願」とは、本願成就文の「願生彼国」であって、本願の三心の中では別して「欲生」に当たります。 「交際」とは、まじわり、きわということですから、現代の用語でいえば関係というほどの意味であります。 したがって、「信願交際」という論題は、信心歓喜と願生彼国との関係、これを本願の上でいえば、信楽と欲生我国との関係はどのようであるか、ということを論ずるのであります。
三 「信」とは無疑の義であります。阿弥陀仏の本願の法に疑いのとれたこと、これを宗祖は「無疑無雑」と仰せられています。如来の法をそのとおり受けいれて、私のはからいをまじえない心相であります。本願成就文(真聖全一―二四)に、 聞②其名号①信心歓喜 (その名号を聞きて、信心歓喜せん……) と説かれています。釈迦仏が讃嘆せられる弥陀の名号のいわれを聞いて、これを信じ喜ぶすがたです。本願の文には「名号を聞きて」というご文は出ていませんが、すぐ前の第十七願に、諸仏が弥陀の名号を讃嘆することを誓われてありますから、、その名号のいわれを聞いて疑いのとれた心相を「信楽」と示されたのであります。 このように、真宗の信は、現に私に与えられている法(名号・願力・仏勅)をいただいた心相をあらわします。 「欲生」「願生」というのは、欲や願の字は将来うべき果に対する期待の心相であって、現に得ていることに対するものではありません。第十八願の欲生は信楽のところにある欲生ですから、まちがいなく得られる将来の浄土往生を期待する心相であります。これを往生浄土を待ちもうける心といってもよいでしょう。しかし、往生すべき身になっても死にたくはないのが凡情ですから、「待ちもうける」というよりも、「往生浄土があてになること」といった方が適切かと思います。 名号は往生成仏の果を得しめる業因であり、如来の勅命は浄土に往生させようという仰せですから、この名号・仏勅を信受したところには、往生成仏させていただけることよという心相があるのは当然であります。善導大師はこれを「作得生想」(往生を得るにまちがいないという想いをする)と示されています。 このように、現に私に与えられている名号・仏勅に対して疑い晴れた喜びの心相「信楽」といい、これによって将来うべき果があてになることを「欲生」といいます。そこで、宗祖は『教行信証』信巻の欲生心釈(真聖全二―六五)に、 真実の信楽をもって、欲生の体とするなり。 と解釈されています。