安心論題/信願交際

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安心論題の話

はじめに
(1)聞信義相
(2)三心一心
(3)信願交際
(4)歓喜初後
(5)二種深信
(6)信疑決判
(7)信心正因
(8)信一念義
(9)帰命義趣
(10)タノム 
(11)所帰人法
(12)機法一体
(13)仏凡一体
(14)五重義相
(15)十念誓意
(16)六字釈義
(17)正定業義
(18)彼此三業
(19)念仏為本
(20)必具名号
(21)行一念義
(22)称名報恩
(23)即得往生
(24)平生業生
(25)正定滅度
おわりに

(3)信願交際


 宗門[1]のながい歴史の中で、宗意安心についての最も大きな事件といえば三業惑乱(さんごうわくらん)でありましょう。そのおこりは、無帰命(むきみょう)安心(あんじん)(たのまず秘事)のあやまりをただすために、願生帰命(がんしょうきみょう)ということを説いたのが発端となり、やがて願生帰命説は誤りであるとする者と、誤りでないとする者と、教団を二分するような大問題となりましたが、最後には、願生帰命説は誤りであって、帰命とは信順の義であるという結末になったことは、周知のとおりであります。
 この問題について正しい理解を得るには、本願の三心の中の「信楽(しんぎょう)」と「欲生我国(よくしょうがこく)」、本願成就文の上では「信心歓喜(しんじんかんぎ)」と「願生彼国(よくしょうひこく)」の意義をよくうかがわなければなりません。「信願交際(しんがんこうさい)」という論題は、こうした問題に関する解明であります。


 「信」とは、総じては本願の三心(至心・信楽・欲生)全体をいいますが、別していえば、三心の中の「信楽」を指します。本願成就文ではこれを「信心歓喜」と説かれています。
 「願」とは、本願成就文の「願生彼国」であって、本願の三心の中では別して「欲生」に当たります。
 「交際」とは、まじわり、きわということですから、現代の用語でいえば関係というほどの意味であります。
 したがって、「信願交際」という論題は、信心歓喜と願生彼国との関係、これを本願の上でいえば、信楽と欲生我国との関係はどのようであるか、ということを論ずるのであります。


 「信」とは無疑(むぎ)の義であります。阿弥陀仏の本願の法に疑いのとれたこと、これを宗祖は「疑蓋無雑(ぎがいむぞう)[2]と仰せられています。如来の法をそのとおり受けいれて、私のはからいをまじえない心相であります。本願成就文(真聖全一―二四)に、

 聞其名号 信心歓喜 (*)
 (その名号を聞きて、信心歓喜せん……)(*)

と説かれています。釈迦仏が讃嘆せられる弥陀の名号のいわれを聞いて、これを信じ喜ぶすがたです。本願の文には「名号を聞きて」というご文は出ていませんが、すぐ前の第十七願に、諸仏が弥陀の名号を讃嘆することを誓われてありますから、その名号のいわれを聞いて疑いのとれた心相を「信楽」と示されたのであります。
 このように、真宗の信は、現に私に与えられている法(名号(みょうごう)願力(がんりき)仏勅(ぶっちょく))をいただいた心相をあらわします。
 「欲生」「願生」というのは、欲や願の字は将来うべき果に対する期待の心相であって、現に得ていることに対するものではありません。第十八願の欲生は信楽のところにある欲生ですから、まちがいなく得られる将来の浄土往生を期待する心相であります。これを往生浄土を待ちもうける心といってもよいでしょう。しかし、往生すべき身になっても死にたくはないのが凡情ですから、「待ちもうける」というよりも、「往生浄土があてになること」といった方が適切かと思います。
 名号は往生成仏の果を得しめる業因であり、如来の勅命は浄土に往生させようという仰せですから、この名号・仏勅を信受したところには、往生成仏させていただけることよという心相があるのは当然であります。善導大師はこれを「作得生想(さとくしょうそう)」(往生を得るにまちがいないという想いをする)と示されています。
 このように、現に私に与えられている名号・仏勅に対して疑い晴れた喜びの心相を「信楽」といい、これによって将来うべき果があてになることを「欲生」といいます。そこで、宗祖は『教行信証』信巻の欲生心釈(真聖全二―六五)に、

 真実の信楽をもって、欲生の体とするなり。(*)

と解釈されています。
 信楽も欲生も、本願をいただいた心相ですが、欲生の体は信楽であるということは、信楽を土台とする欲生であるということであって、これを宗学では、欲生は信楽の義別であるといわれています。
 東京ゆきの列車に乗ったならば、まちがいなく東京に着けるという思いがあります。列車はまだ京都市内を走っていても、やがて東京に着くというあてができています。
 東京ゆきの列車に乗るということを土台として、必ず東京に着くという思いがあるのです。それと同様に、如来の願力に乗託する(信楽)ということを土台として、次の生にはまちがいなく浄土に往生させていただくことよという思い(欲生)があるのです。
 このように、第十八願の法にあっては、願力に乗託すること、本願に疑い晴れること、すなわち信楽(信心歓喜)を据わりとするのであって、欲生・願生を据わりにするものではありません。


 お聖教を見ますと、「願生」とか「浄土をねがう」という表現だけで示されているところも少なくありません。たとえば天親菩薩の『浄土論』の題目(真聖全一―二六九)は、

 無量寿経優婆提舎願生(*)

となっていますし、その偈頌の中の国土十七種荘厳の結びのところには(真聖全一―二七〇)、

 かるがゆえにわれ、かの阿弥陀仏国に生ぜんと願ず。(*)

と示されています。善導大師の『散善義』三心釈の二河白道の譬の合法のところにも(真聖全一―五四〇)、

 「中間の白道四五寸」というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるにたとうるなり。(*)

と述べられ、宗祖も和讃(讃弥陀偈讃)に(真聖全二―四八八)、

 安楽国をねがうひと、正定聚にこと住すなれ (*)

というように仰せられています。
 これらの文を見ますと、「願生」だけで示されていますから、本願の三心の中では「欲生」が主であるようにも思えます。
 しかし、右に挙げた諸文は、三心の中の欲生心を示されたのではなくて、本願の三心全体、いいかえますと、往生浄土の信心を総じて「願生」という言葉で表わされたものとうかがわれるのです。
 すなわち、聖道法の信心には浄土を願生するという義は具していないのに対して、本願の信心には欲生・願生の義を具しています。それで聖道の信に区別して、往生浄土門の信を示すのに、「願生」という表わしかたをされたものと考えられるのです。
 と申しますのは、さきにあげた『浄土論』の「願生」を、別のところ(真聖全一―二七〇)では「信心」(*)と言われてありますし、また二河白道の譬の「清浄願往生心」について、宗祖は『教行信証』の信巻に(真聖全二―六七)、

 「能生清浄願心」というは、金剛の真心を獲得するなり。本願力回向の大信心海なるが故に……。(*)

と示され、『二巻鈔』の下巻(真聖全二―四七六)に、

 「能生清浄願往生心」という無上の信心、金剛の真心を発起するなり。これは如来廻向の信楽なり。(*)

と明示されてあります。「安楽国をねがうひと、正定聚にこそ住すなれ」 (*)(讃弥陀偈和讃)というのも、他の和讃では「真実信心うるひとは、すなわち定聚のかずにいる」 (*)(大経和讃)と示されています。
 ですから、さきに挙げた諸文に示されている「願生」の語は、信心の代え名として用いられているのであって、別して三心の中の欲生心を指すのではありません。

 以上、欲生・願生という語は、本願の三心の中では「信楽」の義別として、将来の往生成仏の果を期する心相を示す場合と、右に述べたように願生浄土の信心をあらわし、信楽の代え名として用いられる場合とがあります。いずれにしても、私の方から仏に向かって往生させてくださいと、欲願し請求(しょうぐ)するものではありません。


 欲生・願生は第十八願の法だけにあるのではなく、第十九願の諸行往生の法にも、第二十願の自力念仏の法にもあります。しかし、同じく欲生といっても、第十八願の欲生と第十九・二十願の方便両願の欲生とは、その趣がまったく異なります。
 第十八願の欲生は、如来の願力を信受したところに存する他力の欲生心ですから、この世の命が尽きたときには、まちがいなくお浄土にまいらせていただくことよと、往生成仏の果があてになる心相であります。
 これに対して方便両願の欲生は、己の積む善根をもって往生の果を願い求めるのですから、往生できるかどうかはわかりません。このように、あてにならない将来の果を求めるのが自力の欲生心であります。
 前者の欲生を決定要期(けつじょうようご)(まちがいない将来の果があてになること)といい、後者の欲生を不定希求(ふじょうけぐ)(あてにならない将来の果をねがい求める)といわれています。
 すでに列車に乗ったならば、目的地に到着することはあてになるので、そこには不安もりきみもありません。しかし、宝くじを買うような場合には、かならず当たるという保証はありませんから、不安のうちに当たることをねがい求めるのです。
 このように、第十八願の欲生と方便両願の欲生とが大いに異なるのは、「信楽」の有る無しによります。第十八願の欲生はあくまで「信楽」を据わりとする欲生であるというところに、その特色があります。


 「弥陀に帰命する」とか、「弥陀をたのむ」というのは、本願の三心の中では信楽の義であって、欲生の義ではありません。
 帰命の「帰」は、よりかかる、よりたのむという意味であって、如来の願力にうちまかせ、如来の仰せにしたがうことであります。
 また「たのむ」というのは、現代ではお願いするという意味に多く用いられますが、真宗のお聖教に示されている「たのむ」は「たのみにする、あてたよりにする」という意味で用いられているのです。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p44~


脚注

  1. 同一宗教の中での宗派や宗旨の意。ここでは浄土真宗本願寺派の教団を指す。なお宗教という言葉は元来は仏教語であり、伝来された膨大な各種の仏教経典のそれぞれの意義を把握し、自らの生死の拠りどころとして選択した経典を宗(むね、もと)とする教えの意味である。幕末期に欧米との交際において言葉の翻訳にあたって、神と人間を再び結びつけるという意味の欧米語Religionの翻訳語として宗教という語が使用された。これによって宗教という言葉の外延が拡げられキリスト教や日本古来の神道なども宗教という言葉であらわされるようになった。
  2. 疑蓋無雑(ぎがいむぞう)。疑いの蓋を雑(まじ)えないということ。たとえば蓋のしてあるコップにどれほど水を注いでも水が入らないように、いつでもどこでも誰にでも届いている名号願力を疑いの蓋をまじえて拒絶していることを疑蓋という。法然聖人の本歌取りの歌に、月影のいたらぬ里はなけれども、蓋ある水に影はやどさじ、とあるように疑いの蓋を除ければ阿弥陀如来の御信心の月は皓々と凡心に照って下さるのである。