疑情
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ぎじょう
阿弥陀仏の本願を疑いはからう心。(行巻 P.207, 浄文 P.489,愚禿上 P.504,高僧 P.597,正信大意 P.1038)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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疑とは猶予不定をいう。迷いを超える仏教の理(ことわり)に対して、猶予して決定しない精神の作用のことである。自らの想念によって心がためらい、仏教の真理に対して決定的に思い切ることができないことを疑という。
これは煩悩の異名である五蓋の中の疑蓋に相当する。親鸞聖人は三心一心の字訓釈で、至心・信楽・欲生を、それぞれ疑蓋無雑(ぎがいむぞう)とされたのはこれに基づく。あらゆるものを救済するという阿弥陀如来の本願力を疑い、自らが拵えた疑いの蓋を雑えで遮蔽していることを疑というのである。
なお、不審と疑心は違う概念であり、これを混同すると盲信に陥る。不審とは審(つまび)らかではないという意で、より深く本願の意味を知り味わいたいということであって、本願に対する疑情とは峻別すべきものである。親鸞聖人が唯円房の問いに「親鸞もこの不審ありつるに」(歎異抄9条)と、仰せられたごとくである。
これを混同すると善知識という人師の言葉を盲目的に受け入れ、人惑を受けることになる。人の言葉によって迷い、他人の言葉によって右往左往するのである。あまつさえ組織や善知識に対する不審を問うことすらも、疑情とされてしまうのである。