六三法門
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
要門釈、第十九願開説、観経の意(聖道門から浄土門へ誘引)
- しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
- 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
意訳
さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおごして広く迷いの人々を導いてくださるのである。
すなわち、すでに慈悲の心からおこしてくださった第十九願がある。この願を修諸功徳の願と名づけ、また臨終現前の願と名づけ、また現前導生の願と名づけ、また来迎引接の願と名づける。また至心発願の願とも名づけることができる。
真・仮・偽
邪義の外道から聖道門を経て浄土門へ入ったのだが、選択本願の念仏の行ではなく聖道門の行体(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土へ往生しようとする行者の為の方便の願。此土入聖の聖道の行体をもって往生を願うのが十九願である。
二十願は、そのような十九願の行者が、やがて善本・徳本の名号の功徳性に気付いて聖道の菩提心 修諸功徳を捨て念仏をする者の願である。しかし、念仏を自らの修する善根であると取り違えて行じているから仮という。 名号は、直ちに成仏しうる他力真実の回向される法であるが、受けとる機が自力疑心をまじえるために、自力念仏という方便になるのである。
宗祖は真・仮・偽という三つの概念を持ってあらゆる宗教現象というものを説明する。つまり仮なる聖道門によって邪偽の宗教を教戒して仏教へ引き入れ、最終的には誓願一仏乗の十八願へ入らしめるのである。その意味では聖道門は単に廃捨するものではなく、邪義に迷っている者を聖道へ誘引するという意味があり、やがてそれをも包んでいくような雄大な教義体系が誓願一仏乗といわれる大乗の至極の浄土真宗である。
末法の時代で行証久しく廃れているにもかかわらず、行じて証しようとするから仮の法門といわれ、真実の聖道とは往生成仏の後に還相の菩薩が行じるものであるとされたのである。