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中論

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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ちゅうろん

 四巻。 後秦(こうしん)鳩摩羅什訳。 龍樹菩薩の中論本頌(ほんじゅ)青目(しょうもく)の註釈を付したもの。 あらゆる事物事象に実体がないとする縁起・(くう)無自性(むじしょう)を説き、世俗諦・勝義諦という二真理説を展開する。 →龍樹 (りゅうじゅ)。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

オンライン版 仏教辞典より転送

中論

Madhyamaka-kārikā मध्यमककारिका (skt.)

龍樹の主著。元のサンスクリット語での書名は『中についての頌』という意味で、その第24章「聖諦の考察」第18頌の

縁起であるところのもの、それをわれわれは空性であると呼ぶ、その空性は「素材に基づいて認識上設定すること(施設)」であり、空性はそのまま「中の実践中道」である

からきている。すなわち『中論』は「縁起・空性・仮」の在りかたを明らかにして、「中の実践」を課題とする論書ということである。

構成

 全体は、すべてのものは独立的には生じない(不生(ふしょう))を説明する「ものの生起条件(縁)の考察」を始めとする27章により構成されている。物事を固定的・実体的に把握しがちな言語・観念が煩悩の根源となっているとする観点から、言語・観念の内含する矛盾を徹底的に指摘していくという論法がとられる。これは「空性はすべての固定的な考え方から離れること」だからであり、そのために帰謬(きびゅう)論証的な表現形式が多用される。


注釈書

  • 龍樹に帰せられる無畏
  • 青目(Piṇgala,4世紀)の漢訳『中論』(鳩摩羅什訳)
  • 仏護(Buddhapālita,470-540(頃))の『仏護注』
  • 清弁(490-570(頃))の『般若灯論』(はんにゃとうろん)
  • 月称(Candrakīrti,650(頃))の『浄明句論』(じょうみょうくろん)

など

参考図書


出典
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中論
Mūlamadhyamaka-kārikā
現代における龍樹の像
基本情報
宗教 仏教
作者 龍樹(ナーガールジュナ)
言語 サンスクリット
時期 150年ごろ
章節 27章
中論 at 中国語 Wikisource
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中論(ちゅうろん)、正式名称『根本中頌[注釈 1](こんぽんちゅうじゅ、: Mūlamadhyamaka-kārikā, ムーラマディヤマカ・カーリカー)は、初期大乗仏教の僧・龍樹(ナーガールジュナ)の著作である。インド中観派、中国三論宗、さらにチベット仏教の依用する重要な論書である。

本文は論書というよりは、その摘要を非常に簡潔にまとめた27章の偈頌からなる詩文形式であり、注釈なしでは容易に理解できない。注釈書・論書の例は#注釈書・論書を参照。

構成

冒頭で提示される全体の要旨である「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)を含む立言としての「帰敬序」と、27の章から成る。各章の構成は以下の通り[1]

  • 帰敬序
  • 第1章「原因(縁)の考察」(全14詩)
    「縁」(四縁)の非自立性を帰謬論証
  • 第2章「運動(去来)の考察」(全25詩)
    「去るはたらき」(去法)の非自立性を帰謬論証
  • 第3章「認識能力の考察」(全9詩)
    「認識能力」(六根)と「認識対象」(六境)、並びに「識」「触」「受」「愛」「取」の非自立性を帰謬論証
  • 第4章「集合体(蘊)の考察」(全9詩)
    「物質」、並びに「受」「心」「想」の非自立性を帰謬論証
  • 第5章「要素(界)の考察」(全8詩)
    「特質」(相)と「六要素」(六大)の非自立性を帰謬論証
  • 第6章「貪り汚れの考察」(全10詩)
    「貪りに汚れること」と「貪りに汚れる人」の非自立性を帰謬論証
  • 第7章「作られたもの(有為)の考察」(全34詩)
    「生」「住」「滅」の三相、並びに「有為」「無為」の非自立性を帰謬論証
  • 第8章「行為の考察」(全13詩)
    「行為」と「行為主体」の非自立性を帰謬論証
  • 第9章「過去存在の考察」(全12詩)
    「受」に先行する主体の非自立性を帰謬論証
  • 第10章「火と薪の考察」(全16詩)
    「火」と「薪」(の例えを通じて「アートマン」や「五取蘊」)の非自立性を帰謬論証
  • 第11章「始原・終局の考察」(全7詩)
    「生」と「老・死」、並びに「始」と「終」の非自立性を帰謬論証
  • 第12章「苦しみの考察」(全10詩)
    「苦」の非自立性を帰謬論証
  • 第13章「形成されたもの(行・有為)の考察」(全8詩)
    「変化」の非自立性を帰謬論証
  • 第14章「集合の考察」(全8詩)
    「集合」の非自立性を帰謬論証
  • 第15章「自性の考察」(全11詩)
    「自性」、並びに「有」と「無」の非自立性を帰謬論証
  • 第16章「束縛・解脱の考察」(全10詩)
    「束縛」「解脱」、並びに「輪廻」「涅槃」の非自立性を帰謬論証
  • 第17章「業と果報の考察」(全33詩)
    「業」と「果報」の非自立性を帰謬論証
  • 第18章「アートマンの考察」(全11詩)
    「アートマン」の非自立性を帰謬論証
  • 第19章「時の考察」(全6詩)
    「時」(「現在」「過去」「未来」)の非自立性を帰謬論証
  • 第20章「原因と結果の考察」(全24詩)
    「原因」(「因」「縁」)と「結果」の非自立性を帰謬論証
  • 第21章「生成と壊滅の考察」(全21詩)
    「生成」と「壊滅」の非自立性を帰謬論証
  • 第22章「如来の考察」(全16詩)
    「如来」(修行者の完成形)の非自立性を帰謬論証
  • 第23章「顛倒した見解の考察」(全25詩)
    「浄」と「不浄」、「顛倒」の非自立性を帰謬論証
  • 第24章「四諦の考察」(全40詩)
    「四諦」等の非自立性を帰謬論証
  • 第25章「涅槃の考察」(全24詩)
    「涅槃」の非自立性を帰謬論証
  • 第26章「十二支縁起の考察」(全12詩)
    古典的な十二因縁(十二支縁起)、及びそこへの自説の関わりの説明
  • 第27章「誤った見解の考察」(全30詩)
    「常住」にまつわる諸説を再度批判しつつ総括

内容

『中論』は、説一切有部を中心とした諸部派の論(アビダルマ)において、様々に考察され論じられてきた、形而上的実体としてのダルマ(法)を想定する説(五位七十五法、三世実有・法体恒有など)等を、常住・常見(あるいはそれと裏腹の断滅・断見)を執した逸脱・矛盾したもの、釈迦の説いた教えの本義から外れたものとして、論駁していくことを目的としている。

その体裁は、整然と秩序立てられた論駁というよりも、「モグラ叩き」のように、そうした説の論点を1つ1つ取り上げながら、「そうした前提に則ると、矛盾する」といった帰謬論証(背理法)を重ねながら、地道に斥けていくものである。より具体的に言えば、

「(相依性)縁起」と、事物の「有・無」は両立しない
(事物が「有」でも「無」でも、「(相依性)縁起」は成立しない)

という前提の下に、論敵の主張を「有」(あるいは「無」)を主張しているものとして分類し、それを「(相依性)縁起」と両立しない主張をしているものとして斥けていく論法を用いる[2][要検証]

そうした地道な帰謬論証の積み重ねは、徐々に「自立的なものなど何ひとつない」という、龍樹の徹底した「無自性()」「相依性」(相互依存性)の思想を炙り出していくことになる。

そうした過激な考えは、むしろ従来の釈迦の説と両立せず、それを踏み越え、蹂躙し、台無しにするものではないのかという批判に対しては、ナーガールジュナは2つの真理(二諦)の区別を持ち込み、自分が示しているのは釈迦が悟った本当の深遠な真理(真諦第一義諦)であり、同時にもう一方の世俗の真理(世俗諦)を基礎付けてすらいるが、論敵(有自性論者)はそのことが分かっておらず、釈迦の教えや自説の存立すら困難にしていることにすら気付いていないと反論する(第24章)。

さらに、真の涅槃(ニルヴァーナ)とは、一切の分別戯論が滅した境地に他ならないこと(第25章)、そして、それこそが古典的な十二因縁(十二支縁起)の「無明」を消し去り、「逆観」(苦滅)を成立せしめるものでもあること(第26章)などを示しつつ、最後に改めて総括的な内容を挟み、釈迦を讃えて『中論』は締め括られる(第27章)。

後世への影響

インド・チベット

龍樹のこの著作から、中観派と呼ばれる、大乗仏教の一大学派が始まった。

この中観派に属するシャーンタラクシタ寂護)、カマラシーラ蓮華戒)、アティーシャなどのインド僧は、チベット仏教の歴史に多大な影響を与えており、特にアティーシャの影響下から、ツォンカパが出ることによって、中観帰謬論証派(プラーサンギカ派)思想と後期密教を結合した、顕密総合仏教としてのチベット仏教の性格が決定付けられることになる。

中国・日本

また一方では、この『中論』と、同じく龍樹の著作である『十二門論』、そして弟子である提婆の『百論』が中国に伝わり、「三論宗」が形成された。これは日本にも伝わり、南都六宗の一派になった。

更に、天台宗の始祖である慧文禅師も、この『中論』に大きな影響を受け、その内容を中諦・三諦といった概念で独自に継承した。

翻訳書

漢訳

日本語訳

  • 三枝充悳『中論―縁起・空・中の思想(上)』第三文明社 レグルス文庫、1984年。ISBN 4476011586 
  • 三枝充悳『中論―縁起・空・中の思想(中)』第三文明社 レグルス文庫、1984年。ISBN 4476011594 
  • 三枝充悳『中論―縁起・空・中の思想(下)』第三文明社 レグルス文庫、1984年。ISBN 4476011608 
  • 中村元『龍樹』講談社学術文庫、2002年。ISBN 4061595482 
  • 西嶋和夫『中論―釈尊の教えは実在論である』金沢文庫、改訂版2006年。ISBN 4873391172 
  • 桂紹隆、五島清隆『龍樹『根本中頌』を読む』春秋社、2016年。ISBN 4393135881 
  • 丹治昭義 校註『中論―新国訳大蔵経 インド撰述部 中観部大蔵出版(上・下)、2019年

注釈書・論書

漢訳の注釈書

  • 青目(ピンガラ、Piṅgala)の『中論』(大正蔵中観部No. 1564)
  • スティラマティ(安慧)の『大乗中観釈論』 (大正新脩大正藏經 Vol. 30, No. 1567 巻1~9) (高麗大藏經 第四十一冊 No. 1482 巻10~18)

サンスクリット・チベット訳の註釈書

解説書

  • アサンガ無著)の『順中論』(『順中論義入大般若波羅蜜経初品法門』)

脚注

注釈

  1. ^ 『根本中論頌』『根本中観頌』などとも。
  2. ^ 伝統的には龍樹自身による註釈(自註)と考えられてきたが、現在では否定されている。[4]
  3. ^ チベット仏教の最大宗派ゲルク派の祖であるツォンカパは、ブッダパーリタ(仏護)の『根本中論註』に強く影響を受け、重視していたことが知られている。

出典

  1. ^ 中村元『龍樹』、320-395頁。
  2. ^ 中村元『龍樹』、286-292頁。
  3. ^ 中論」『SAT大正新脩大藏經テキストデータベース』第30巻、東京大学大学院人文社会系研究科、No.1564、2018年https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2015/T1564_.30.0000000:0000000.cit 
  4. ^ 斎藤明「無畏論』の著者と成立をめぐる諸問題」『印度學佛教學研究』第51巻第2号、2003年、869-863頁、NAID 130004027606 

外部リンク