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常倫に…現前し

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2017年2月28日 (火) 22:42時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

じょうりんに…げんぜんし

 通常は「常倫諸地の行を超出し、現前に」と読む。常倫はつねなみ、普通一般の意。 (行巻 P.193)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

「原漢文(魏訳)」

第二十二願の読み方には三種類有る。

設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処。
除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国 修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上 正真之道。超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳 若不爾者 不取正覚。

当面の第二十二願文の読み方

第二十二願文の当面では、究極的には一生補処に至らしめる。しかし、十方の衆生を済度していこうという願い(プールヴァ・プラニダーナ(pūrva-praņidhāna 前からの願いという意)を持つ者は、一生補処から除外して、その願いの通りにさせてやろう、というのである。中村元氏の「浄土三部経」(岩波文庫)の『無量寿経』では、サンスクリット語と漢文を対応させて以下のように読下している。ここでは、除其本願以下の文はすべて除外例となっている。

なお、ここでの本願の語の意味は、願生者が懐いていた、(もと)の願い((pūrva-praņidhāna)であって、阿弥陀仏の本願ではない。〔〕内は私に於いて付した。破線は除外例を示す為に付した。

たとひわれ仏となるをえんとき、他方の仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟して必ず一生補処に至らしめん。
(ただし)その本願〔願生者のもとの願い〕、自在に化せんとするところの、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被(かぶ)り、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方のもろもろの仏・如来を供養し、恒沙の無量の衆生を開化して、無上正真の道に(安)立せしめ、常倫の(菩薩)に超出して、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんものを除く。
もししからずんば、正覚を取らじ。

異訳の『無量寿如来会』の第二十二願は、

若我成仏 於彼国中 所有菩薩於大菩提 咸悉位階一生補処
唯除大願諸菩薩等 為諸衆生被精進甲 勤行利益修大涅槃 遍諸仏国行菩薩行 供養一切諸仏如来 安立洹沙衆生住無上覚 所修諸行復勝於前 行普賢道而得出離 若不爾者 不取菩提
もし我、成仏せんに、彼の国の中において、所有菩薩、大菩提において、ことごとく位階一生補処ならん。ただ大願ある諸の菩薩等、諸の衆生の為に精進の甲を被り、勤めて利益を行じ大涅槃を修して、遍く諸仏の国にして菩薩の行を行じ、一切の諸仏如来を供養して、洹沙衆生を安立し、無上覚に住し、修する所の諸行、また前に勝れて、普賢の道を行じ、しかも出離を得しめんを除く。もししからずば、菩提を取らじ。 『無量寿如来会』の第二十二願

と、「唯除大願諸菩薩等」以下はすべて除外例となっている。

『浄土論註』での読み方

「浄土論註」では、超出常倫の前までが除外例であるとして、以下のように読んでいる。

「たとひわれ仏を得んに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至らん。
その本願〔願生者のもとの願い〕の自在に化せんとするところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道に立せしめんをば除く。
常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。
もししからずは、正覚を取らじ。

曇鸞大師は、何ゆえに未証浄心の菩薩が浄土へ往生し、多くの劫数を経るべき時を飛び越えて八地以上の菩薩に成りえるのか、という問に答えるために第二十二願を出された。「超出常倫」の句の前までが除外例であると読み、最初の文と最後の文を結びつけた。
そして、浄土は修行の環境が勝れているので、娑婆のように順次に菩薩の修行の階梯を経るのではなく、常倫(つねなみのともがら)の修行階梯である諸地を超出する意として「常倫の諸地の行を超出」とあるから即等に八地以上の菩薩になり、普賢の徳を修習するのだとした。曇鸞大師は第二十二願は、浄土での速やかな菩薩の階位の向上を誓った願であり、一生補処を誓った願であるとみられていたのである(*)
曇鸞大師は、ここでは第二十二願を、還相を誓った願だとはみておられない。この速やかに菩薩の階梯を経ることを各種の譬喩をあげて説明し「非常の言は常人の耳に入らず」と結論されている。
なお、ここでも「その本願」の本願(pūrva-praņidhāna)とは、願生者の本の願いという意味である。ただ、この後での「覈本釈」で、第二十二願の意味と様相が変わると見られたのが御開山であった。

御開山の読み方(証文類)

御開山は、この曇鸞大師の除外例の文例のまま以下のように読まれた。
その理解の元となったのが『論註』の阿弥陀仏の利他力を指示する「覈本釈(覈求其本釈)」であった。

たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。
その本願〔阿弥陀仏の本願〕の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。
常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。
もししからずは、正覚を取らじ。

ここでは、阿弥陀仏の本願によって、第十八願の「念仏往生の願」により浄土へ往生し、第十一願の「必至滅度の願」によって仏と成り、その後に一生補処の位へ降りて、第二十二願の「還相回向の願」によって再び浄土より穢土に還って「常倫に超出(常並みの階位を超え出て)し、諸地の行現前し(現前に十地の菩薩行が現れ)、普賢の徳を修習(普賢菩薩のような大慈悲をもって、有縁の人々を済度)」する、除外例を修する衆生済度の還相回向をなさしめられるとする。
つまり、第二十二願は還相を誓われた願であるとし、往生と同時に常倫に超出して諸地の行(普賢の徳)が娑婆世界で現前する、という還相を誓われた願であると見られた。利他の信心である願作仏心の、往生浄土の徳として度衆生心としての諸地の行が現前するのである。いわゆる「智慧あるがゆえに生死に住せず。慈悲あるがゆえに涅槃に住せず。」という無住処涅槃である。智慧によって生死という有無を超えるが、大悲を起すが故に生死に住しないという無住処涅槃の境界である。この無住処涅槃が還相回向ということである。御開山がご消息の一通目で、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」といわれた所以である。

(17)

安楽無量の大菩薩
 一生補処にいたるなり
 普賢の徳に帰してこそ
 穢国にかならず化するなれ 『浄土和讃

(36)

還相の回向ととくことは
 利他教化の果をえしめ
 すなはち諸有に回入して
 普賢の徳を修するなり 『高僧和讃

なお『教行証文類』「証巻」末尾には「還相の利益は利他の正意を顕すなり」とあり、如来の利他力による往相(往生浄土の相状)を示すことは、往生者をして還相(還来穢国の相状)せしめようという阿弥陀如来の本意であると御開山はみられた。

参考:

御開山に意による第二十二願の現代語。
わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏たがの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

常倫に