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疑蓋

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2017年10月10日 (火) 14:46時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

ぎがい

 蓋はおおうの意。疑いは真実をおおいかくすので疑蓋(疑いのふた)という。(信巻 P.230浄文 P.492)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

疑蓋とは、煩悩の異名の一分類であり、『倶舎論』では、欲貪蓋・瞋恚蓋・惛眠蓋・掉悔蓋・疑蓋の五蓋を挙げる中の疑蓋をいう。仏教における疑とは、迷いを超える仏教の理に対し猶予して心が定まらない猶予不定を疑という。
蓋はおおう、かぶせるの意で、阿弥陀仏の本願に対して自らの心を(おお)って受け容れないから(ふた)という意もある。阿弥陀仏の本願に、この疑いの蓋を()じえないことを「疑蓋無雑(ぎがい-むぞう)」といい、他力信心をあらわす語とする。信巻には「三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり(三心已疑蓋無雑 故真実一心)」(信巻 P.245) とある。→ 
法然聖人は『選択集』で。

生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(選択集 P.1248)

とされた。そもそも疑の反対語は不疑なのだが、この疑の反対語として涅槃の浄土に入るには、信であるとされたのである。この疑と信を対応させて、本願を疑えば生死に流転するのであり、阿弥陀仏の念仏往生の本願の信心を信じ、受容し信順すれば、西方仏国に往生して生死の絆を絶って仏に成るというのが「信疑決判」という法然聖人の指示であった。

疑情