往生の善知識
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そもそも予がまえへゝきたりて、見参対面をとげたりといふとも、さればわれらがちからにて後生をたすくべきむねなし。信心をとりて弥陀如来をたのみたてまつらんひとならでは、後生はたすかるべからず。
わがまへゝきたらんずるよりは、山野の墓原へゆきて五輪卒塔婆をおがみたらんずるは、まことにもてその利益もあるべし。すでに経文にいわく、一見卒塔婆永離三悪道[1]といへり。この卒塔婆をひとたびおがみたらんひとは、ながく三悪道の苦患をば一定のがるべしと、あきらかに経にみえたり。
かえすがえす当山へなにのこゝろえもなきひときたりて、予に対面して手をあはせおがめること、もてのほかなげきおもふところなり。
さらにもてたふときすがたもなし、たゞ朝夕はいたづらにねふせるばかりにて、不法懈怠にして不浄きはまりなく、しわらくさき身にてありけるをおがみぬること、真実真実かたはらいたき風情なり。あさまし、あさまし。
これらの次第を分別して、向後は信心もなきものは、あひかまへてあひかまへて卒塔婆をおがむべし。これすなわち仏道をならんたねになるべし。よくよくここゝろうくべきものなり。(浄土真宗全書五p.299より抜粋)
- ↑ 「卒塔婆を一見すれば永く三悪道を離れる」「卒塔婆偈」といわれるが経文には未見。
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