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西方指南抄

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2021年9月6日 (月) 01:32時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

『浄土真宗聖典全書』聖教データベースより転載。原文→ノート:西方指南抄(浄土真宗聖典全書 三)
『西方指南抄』の題号は『選択本願念仏集』後述の「善導『観経疏』者是西方指南行者目足也(善導の『観経の疏』はこれ西方の指南、行者の目足なり)」に依るとされる。 原文が旧字体なので、Wikiリンクやページ検索の利便用に、このページでは旧字体を新字体に変換した。各サブタイトルは『浄土真宗聖典全書』の解説などを参考に適宜、林遊に於いて付した。また語句のリンクや脚注、漢文読み下しなども林遊が付したものであり浄土真宗本願寺の見解ではない。

西方指南抄上[本]

(一)

法然聖人御説法事

経証の中に、仏の功徳をとけるに无量の身あり。あるいは総じて一身をとき、あるいは二身をとき、あるいは半三身をとき、乃至『華厳経』には十身[1]功徳とけり。いま(しばらく)真身化身の二身をもて、弥陀如来の功徳を讚嘆したてまつらむ。この真化二身をわかつこと、『双巻経』の三輩の文の中にみえたり。まづ真身といふは、真実の身なり。弥陀如来の因位のとき、世自在王仏のみもとにして四十八願をおこしてのち、兆載永劫のあひだ、布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行を修して、あらはしえたまへるところは、修因感果[2]の身なり。『観経』(意)にときていはく、「その身量、六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫、右にめぐりて五須弥山のごとしと。その一須弥山のたかさ、出海・入海おのおの八万四千那由他なり。また青蓮慈悲の御まなこは、四大海水のごとくして清白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明をはなちたまふこと、須弥山のごとし。うなじにめぐれる円光は、百億の三千大千世界のごとし。かくのごとくして八万四千の相まします。一一の相におのおの八万四千の好あり、一一の好にまた八万四千の光明まします。その一一の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を摂取してすてたまはず。御身のいろは、夜摩天閻浮檀金のいろのごとし」といへり。これ弥陀一仏にかぎらず、一切諸仏はみな黄金のいろなり。もろもろのいろの中には白色をもて本とすとまふせば、仏の御いろも白色なるべしといゑども、そのいろなほ損ずるいろなり。たゞ黄金のみあて不変のいろなり。このゆへに、十方三世の一切の諸仏、みな常住不変の相をあらわさむがために、黄金のいろを現じたまへるなり。これ『観仏三昧経』のこゝろなり。たゞし真言宗の中に五種の法あり。その本尊の身色、法にしたがふて各別なり。しかれども暫時方便の化身なり、仏の本色にはあらず。このゆへに、仏像をつくるにも、白檀の綵色(さいしき)なれども功徳をえざるにあらずといへども、金色につくりつれば、すなわち決定往生の業因なり。即生の功徳、略を存ずるにかくのごとし。「即生乃至三生に必得往生」[3]といへり。これ弥陀如来の真身の功徳、略を存ずるにかくのごとし。

次に化身といふは、无而欻有を化といふ。すなわち機にしたがふときに応じて身量を現ずること、大小不同なり。『経』(観経)に、「あるいは大身を現じて虚空にみつ、あるいは小身を現じて丈六、八尺」といへり。化身につきて多種あり。まづ円光の化仏。『経』(観経)にいはく、「円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一一の化仏に衆多无数の化菩薩をもて、侍者とせり」といへり。つぎに摂取不捨の化仏。「光明徧照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」 「隠/顕」
光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。
(観経)といふは、この真仏の摂取なり。このほかに化仏の摂取あり。卅六万億の化仏、おのおの真仏とともに十方世界の念仏衆生を摂取したまふといへり。次に来迎引接の化仏。九品の来迎におのおの化仏まします、品にしたがふて多少あり。上品上生の来迎には、真仏のほかに无数の化仏まします。上品中生には、千の化仏まします。上品下生には、五百の化仏まします。乃至かくのごとく次第におとりて、下品上生には、真仏は来迎したまはず、たゞ化仏と化観音・勢至とをつかはす。その化仏の身量、あるいは丈六、あるいは八尺なり。化菩薩の身量もそれにしたがふて、下品中生は、「天華の上に化仏・菩薩ましまして、来迎したまふ」(観経意)といへり。下品下生は、「命終してのち、金蓮華をみる。猶如日輪住其人前」(観経)といへり。文のごとくは、化仏の来迎もなきやうにみえたれども、善導の御心は、『観経の疏』(散善義)の十一門の義によらば、第九門に「命終のとき、聖衆の迎接したまふ不同、去時の遅疾をあかす」といへり。また「いまこの十一門の義は、九品の文に約対せり。一一の品のなかに、みなこの十一あり」といへり。しかれば、下品下生にも来迎あるべきなり。しかるを五逆の罪人、そのつみおもきによりて、まさしく化仏・菩薩をみることあたはず、たゞわが座すべきところの金蓮華ばかりをみるなり。あるいはまた文に隠顕あるなり。次にまた十方の行者の本尊のために、小身を現じたまへる化仏あり。天竺の鶏頭摩寺(けいずまじ)五通の菩薩、神足通をして極楽世界にまうでて、仏にまふしてまうさく、娑婆世界の衆生、往生の行を修せむとするに、その本尊なし。仏、ねがわくは、ために身相を現じたまへと。仏、すなわち菩薩の請におもむきて、樹の上に化仏五十体を現じたまへり。菩薩、すなわちこれをうつして、よにひろめたり。鶏頭摩寺の五通の菩薩の曼陀羅といへる、すなわちこれなり。また智光の曼陀羅[4]とて、世間に流布したる本尊あり。その因縁は人つねにしりたることなり、つぶさにまふすべからず。『日本往生伝』をみるべし。また新生の菩薩を教化し、説法せむがために、化して小身を現じたまへることまします。これはこれ、弥陀如来の化身の功徳、また略してかくのごとし。

いまこの造立せられたまへる仏は、祇園精舎の風をつたへて三尺の立像をうつし、最後終焉のゆふべを期して来迎引接につくれり。おほよそ仏像を造画するに種種の相あり。あるいは説法講堂の像あり、あるいは池水沐浴の像あり、あるいは菩提樹下成等正覚の像あり、あるいは光明遍照摂取不捨の像あり。かくのごときの形像を、もしはつくり、もしは画したてまつる。みな往生の業なれども、来迎引接の形像は、なほその便宜をえたるなり。かの尽虚空界の荘厳をみ、転妙法輪の音声をきゝ、七宝講堂のみぎりにのぞみ、八功徳池のはまにあそび、おほよそかくのごとく種種微妙の依正二報をまのあたり視聴せむことは、まづ終焉のゆふべに聖衆の来迎にあづかりて、決定してかのくにに往生してのうえのことに候。しかれば、ふかく往生極楽のこゝろざしあらむ人は、来迎引接の形像をつくりたてまつりて、すなわち来迎引接の誓願をあおぐべきものなり。その来迎引接の願といふは、すなわちこの四十八願の中の第十九の願なり。人師これを釈するに、おほくの義あり。まづ臨終正念のために来迎したまへり。おもはく、病苦みをせめて、まさしく死せむとするときには、かならず境界・自体・当生の三種の愛心をおこすなり。しかるに阿弥陀如来、大光明をはなちて行者のまへに現じたまふとき、未曽有の事なるがゆへに、帰敬の心のほかに他念なくして、三種の愛心をほろぼして、さらにおこることなし。かつはまた仏、行者にちかづきたまひて、加持護念したまふがゆへなり。『称讚浄土経』(意)に「慈悲加祐して、こゝろをしてみだらざらしむ。すでに命をすておはりて、すなわち往生をえ、不退転に住す」といへり。『阿弥陀経』に「阿弥陀仏、もろもろの聖衆とそのまへに現ぜむ。この人おわらむとき、心顚倒せずして、すなわち阿弥陀仏国土に往生をえむ」ととけり。「令心不乱」と「心不顚倒」とは、すなわち正念に住せしむる義なり。しかれば、臨終正念なるがゆへに来迎したまふにはあらず、来迎したまふがゆへに臨終正念なりといふ義、あきらかなり。在生のあひだ往生の行成就せむひとは、臨終にかならず聖衆来迎をうべし。来迎をうるとき、たちまちに正念に住すべしといふこゝろなり。しかるにいまのときの行者、おほくこのむねをわきまえずして、ひとへに尋常の行においては怯弱生じて、はるかに臨終のときを期して正念をいのる、もとも僻韻なり。しかれば、よくよくこのむねをこゝろえて、尋常の行業において怯弱のこゝろをおこさずして、臨終正念において決定のおもひをなすべきなり。これはこれ、至要の義なり。きかむ人、こゝろをとゞむべし。この臨終正念のために来迎すといふ義は、静慮院の静照法橋の釈なり。[5]
次に道の先達のために来迎したまふといへり。あるいは『往生伝』(往生浄土*伝巻中)に、沙門志法が遺書にいはく、
「我在生死海 幸値聖船筏 我所顕真聖 来迎卑穢質
若忻求浄土 必造画形像 臨終現其前 示道路摂心
念念罪漸尽 随業生九品 其所顕聖衆 先讚新生輩

仏道楽増進」「隠/顕」
我れ生死海にありて幸いに聖船の筏にもうあえり。我が顕ずるところの真聖、卑穢の質を来迎したまう。もし浄土を欣求するに必ず形像造画せよ。臨終に其の前に現じて、摂心して道路を示すなり。念念に漸く罪を尽し、業に随いて九品に生ず。其の顕るところの聖衆は、まず新生の輩を讃じ、仏道の楽を増進せん。
{云云}

これすなわち、この界にして造画するところの形像、先達となりて浄土におくりたまふ証拠なり。また『薬師経』(玄奘訳)をみるに、浄土をねがふともがら、行業いまださだまらずして、往生のみちにまどふことあり。すなわち文にいはく、「よく受持八分斎戒あらむ。あるいは一年をへ、あるいはまた三月受持せむ。まなぶところ、この善根をもて西方極楽世界无量寿仏のみもとにむまれむと願じて、正法を聴聞すれども、いまださだまらざるもの、もし世尊薬師瑠璃光如来の名号をきかむ。命終のときにのぞみて、八菩薩あて神通に乗じてきたりて、その道路をしめさむ。すなわちかの界にして、種種の雑色衆宝華の中に自然に化生す」[6]といへり。もしかの八菩薩その道路をしめさずは、ひとり往生することえがたきにや。これをもておもふにも、弥陀如来もろもろの聖衆とともに行者のまへに現じてきたりて迎接したまふも、みちびきて道路をしめしたまはむがためなりといふ義、まことにいはれたることなり。娑婆世界のならひも、みちをゆくにはかならず先達といふものを具する事なり。これによて御廟の僧正[7]は、この来迎の願おば現前導生の願となづけたまへり。
次に対治魔事のために来迎すといふ義あり。道さかりなれば、魔さかりなりとまふして、仏道修行するには、かならず魔の障難のあひそふなり。真言宗の中には、「誓心決定すれば、魔宮振動す」(発菩提*心論)といへり。天台『止観』(巻八*下意)の中には、「四種三昧を修行するに、十種の境界おこる中に魔事境来」といへり。また菩薩、三祇百劫の行すでになりて正覚をとなふるときも、第六天の魔王きたりて種種に障㝵せり。いかにいはむや、凡夫具縛の行者、たとひ往生の行業を修すといふとも、魔の障難を対治せずは、往生の素懐をとげむことかたし。しかるに阿弥陀如来、无数の化仏・菩薩聖衆に囲繞せられて、光明赫奕として行者のまへに現じたまふときには、魔王もこゝにちかづき、これを障㝵することあたはず。しかればすなわち、来迎引接は魔障を対治せむがためなり。来迎の義、略を存ずるにかくのごとし。これらの義につきておもひ候にも、おなじく仏像をつくらむには、来迎の像をつくるべきとおぼえ候なり。仏の功徳、大概かくのごとし。
次に三部経は、いま三部経となづくることは、はじめてまふすにあらず、その証これおほし。いはく大日三部経は、『大日の経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』等これなり。弥勒の三部経、『上生経』・『下生経』・『成仏経』等これなり。鎮護国家の三部経は、『法華経』・『仁王経』・『金光明経』等これなり。法華の三部経、『无量義経』・『法華経』・『普賢経』等これなり。これすなわち、三部経となづくる証拠なり。いまこの弥陀の三部経は、ある人師のいはく、「浄土の教に三部あり。いはく『双巻无量寿経』・『観无量寿経』・『阿弥陀経』等これなり」。これによて、いま浄土の三部経となづくるなり。あるいはまた弥陀の三部経ともなづく。またある師のいはく、「かの三部経に『鼓音声経』をくわえて四部となづく」(慈恩小*経疏意)といへり。おほよそ諸経の中に、あるいは往生浄土の法をとくあり、あるいはとかぬ経あり。『華厳経』にはこれをとけり、すなわち『四十華厳』の中の普賢の十願これなり。『大般若経』の中にすべてこれをとかず。『法華経』(巻六)の中にこれをとけり、すなわち「薬王品」の「即往安楽世界」の文これなり。『涅槃経』にはこれをとかず。また真言宗の中には、『大日経』・『金剛頂経』に蓮華部にこれとくといゑども、大日の分身なり、別てとけるにはあらず。もろもろの小乗経にはすべて浄土をとかず。しかるに往生浄土をとくことは、この三部経にはしかず。かるがゆへに浄土の一宗には、この三部経をもてその所縁とせり。
またこの浄土の法門において宗の名をたつること、はじめてまふすにあらず、その証拠これおほし。少々これをいださば、元暁の『遊心安楽道』に、「浄土宗意、本為凡夫、兼為聖人也」といへる、その証なり。かの元暁は華厳宗の祖師なり。慈恩の『西方要決』に、「依此一宗」といえるなり、またその証なり。かの慈恩は法相宗の祖師なり。迦才の『浄土論』(序)には、「此一宗窃要路たり」といへる、またその証なり。善導『観経の疏』(散善義)に、「真宗叵遇」といへる、またその証なり。かの迦才・善導は、ともにこの浄土一宗をもはらに信ずる人なり。自宗・他宗の釈すでにかくのごとし。しかのみならず、宗の名をたつることは、天台・法相等の諸宗、みな師資相承による。しかるに浄土宗に師資相承血脈次第あり。いはく菩提流支三蔵・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等なり。菩提流支より法上にいたるまでは、道綽の『安楽集』にいだせり。自他宗の人師、すでに浄土一宗となづけたり。浄土宗の祖師、また次第に相承せり。これによて、いま相伝して浄土宗となづくるものなり。しかるを、このむねをしらざるともがらは、むかしよりいまだ八宗のほかに浄土宗といふことをきかずと難破することも候へば、いさゝかまふしひらき候なり。おほよそ諸宗の法門、浅深あり、広狭あり。すなわち真言・天台等の諸大乗宗は、ひろくしてふかし。倶舎・成実等の小乗宗は、ひろくしてあさし。この浄土宗は、せばくしてあさし。しかれば、かの諸宗は、いまのときにおいて機と教と相応せず。教はふかし機はあさし。教はひろくして機はせばきがゆへなり。たとへば韻たかくしては、和することすくなきがごとし。またちゐさき器に大なるものをいるゝがごとし。たゞこの浄土の一宗のみ、機と教と相応せる法門なり。かるがゆへにこれを修せば、かならず成就すべきなり。しかればすなわち、かの不相応の教においては、いたはしく身心をついやすことなかれ。たゞこの相応の法に帰して、すみやかに生死をいづべきなり。
今日講讚せられたまへるところは、この三部の中の『双巻无量寿経』と『阿弥陀経』となり。 まづ『无量寿経』には、はじめに弥陀如来の因位の本願をとく、次にはかの仏の果位の二報荘厳をとけり。しかれば、この『経』には阿弥陀仏の修因感果の功徳をとくなり。{乃至}一一の本誓悲願、一一の願成就の文にあきらかなり。つぶさに釈するにいとまあらず。その中に衆生往生の因果をとくといふは、すなわち念仏往生の願成就の「諸有衆生聞其名号」(大経*巻下)の文、および三輩の文これなり。もし善導の御こゝろによらば、この三輩の業因について正雑の二行をたてたまへり。正行についてまた二あり、正定・助業なり。三輩ともに「一向専念」(大経*巻下)といへる、すなわち正定業なり、かの仏の本願に順ずるがゆへに。またそのほかに助業あり、雑行あり。{乃至}おほよそこの三輩の中におのおの菩提心等の余善をとくといゑども、上の本願をのぞむには、もはら弥陀の名号を称念せしむるにあり。かるがゆへに「一向専念」といへり。上の本願といふは、四十八願の中の第十八の念仏往生の願をさすなり。一向のことば、二、三向に対する義なり。もし念仏のほかにならべて余善を修せば、一向の義にそむくべきなり。往生をもとめむ人は、もはらこの『経』によて、かならずこのむねをこゝろうべきなり。
次に『阿弥陀経』は、はじめには極楽世界の依正二報をとく、次には一日七日の念仏を修して往生することをとけり、のちには六方の諸仏念仏の一行において証誠護念したまふむねをとけり。すなわちこの『経』には余行をとかずして、えらびて念仏の一行をとけり。{乃至}おほよそ念仏往生は、これ弥陀如来の本願の行なり、教主釈尊選要の法なり、六方諸仏証誠の説なり。余行はしからず。そのむね、『経』の文および諸師の釈つぶさなり。{乃至}
また経を釈するに、仏の功徳もあらはれ、仏を讚ずれば、経の功徳もあらわるゝなり。また疏は経のこゝろを釈したるものなれば、疏を釈せむに、経のこゝろあらはるべし。みなこれおなじものなり、まちまちに釈するにあたはず。{乃至}
いまこの『観无量寿経』に二のこゝろあり。はじめには定散二善を修して往生することをあかし、つぎには名号を称して往生することをあかす。{乃至}『清浄覚経』(巻四意)の信不信の因縁の文をひけり。この文のこゝろは、「浄土の法門をとくをきゝて、信向してみのけいよだつものは、過去にもこの法門をきゝて、いまかさねてきく人なり。いま信ずるがゆへに、決定して浄土に往生すべし。またきけどもきかざるがごとくにて、すべて信ぜぬものは、はじめて三悪道よりきたりて、罪障いまだつきずして、こゝろに信向なきなり。いま信ぜぬがゆへに、また生死をいづることあるべからず」といへるなり。詮ずるところは、往生人のこの法おば信じ候なり。{乃至}
天台等のこゝろは、十三観の上に九品の三輩観をくわへて、十六想観となづく。この定散二善をわかちて、十三観を定善となづけ、三福九品を散善となづくることは、善導一師の御こゝろなり。{乃至}
抑近来の僧尼を、破戒の僧、破戒尼といふべからず。持戒の人、破戒を制することは正法・像法のときなり。末法には無戒名字の比丘なり。伝教大師『末法灯明記』云、「末法の中に持戒の者ありといはば、これ怪異なり、市に虎あらむがごとし。たれかこれを信ずべき」といへり。またいはく、「末法の中には、たゞ言教のみあて行証なし。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒おか破せむによて破戒あらむ。破戒なほなし、いかにいはむや持戒おや」といへり。まことに受戒の作法は、中国には持戒の僧十人を請じて戒師とす。辺地には五人を請じて戒師として、戒おばうくるなり。しかるにこのごろは、持戒の僧一人もとめいださむに、えがたきなり。しかれば、うけての上にこそ破戒とことばもあれば、末代の近来は破戒なほなし、たゞ无戒の比丘なりとまふすなり。この『経』に破戒をとくことは、正像に約してときたまへるなり。{乃至}
次に名号を称して往生することをあかすといふは、「仏、阿難につげたまはく、なんぢよくこの語をたもて。この語たもてといふは、すなわちこれ无量寿仏のみなをたもてとなり」(観経)とのたまへり。善導これを釈していはく、「仏告阿難汝好持是語といふより已下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することをあかす。かみよりこのかた、定散両門の益とくといゑども、仏の本願をのぞむには、こゝろ、衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称するにあり」(散善義)とのたまへり。おほよそこの『経』の中には、定散の諸行をとくといゑども、その定散をもては付属したまはず、たゞ念仏の一行をもて阿難に付属して、未来に流通するなり。「遐代に流通す」といふは、はるかに法滅の百歳までをさす。すなわち末法万年ののち、仏法みな滅して三宝の名字もきかざらむとき、たゞこの念仏の一行のみとゞまりて百歳ましますべしとなり。しかれば、聖道門の法文もみな滅し、十方浄土の往生もまた滅し、上生都率もまたうせ、諸行往生もみなうせたらむとき、たゞこの念仏往生の一門のみとゞまりて、そのときも一念にかならず往生すべしといへり。かるがゆへにこれをさして、とおき世とはいふなり。これすなわち遠をあげて、近を摂するなり。「仏の本願をのぞむ」といふは、弥陀如来の四十八願の中の第十八の願をおしふるなり。いま教主釈尊、定散二善の諸行をすてゝ念仏の一行を付属したまふことも、弥陀の本願の行なるがゆへなり。「一向専念」といふは、『双巻経』にとくところの三輩のもんの中の一向専念をおしふるなり。一向のことば、余をすつることばなり。この『経』には、はじめにひろく定散をとくといゑども、のちには一向に念仏をえらびて付属し流通したまへるなり。しかれば、とおくは弥陀の本願にしたがひ、ちかくは釈尊の付属をうけむとおもはゞ、一向に念仏の一行を修して往生をもとむべきなり。
おほよそ念仏往生は諸行往生にすぐれたること、おほくの義あり。一には、因位の本願なり。いはく弥陀如来の因位、法蔵菩薩のとき、四十八の誓願をおこして、浄土をまふけて仏にならむと願じたまひしとき、衆生往生の行をたてゝえらびさだめたまひしに、余行おばえらびすてゝ、たゞ念仏の一行を選定して往生の行にたてたまへり。これを選択の願といふことは、『大阿弥陀経』の説なり。二には、光明摂取なり。これは阿弥陀仏因位の本願を称念して、相好の光明をもて念仏の衆生を摂取してすてたまはずして、往生せさせたまふなり。余の行者おば摂取したまはず。三には、弥陀みづからのたまはく、「これはこれ跋陀和菩薩極楽世界にまうでゝ、いづれの行を修してかこのくにゝ往生し候べきと、阿弥陀仏にとひたてまつりしかば、仏こたえてのたまはく、わがくにに生ぜむとおもはゞ、わが名を念じて休息することなかれ、すなわち往生することをえてむ」(一巻本般舟*経問事品意)とのたまへり。余行おばすゝめたまはず。四には、釈迦の付属にいはく、いまこの『経』に念仏を付属流通したまへり。余行おば付属せず。五には、諸仏証誠。これは『阿弥陀経』にときたまへるところなり。釈迦仏えらびて念仏往生のむねをときたまへば、六方の諸仏おのおのおなじくほめ、おなじくすゝめて、広長のみしたをのべて、あまねく三千大千世界におほふて証誠したまへり。これすなわち一切衆生をして、念仏して往生することは決定してうたがふべからずと信ぜしめむ料なり。余行おばかくのごとく証誠したまはず。六には、法滅の往生。いはく、「万年三宝滅、斯経住百年。爾時聞一念、皆当得生彼」(礼讚)といふて、末法万年ののち、たゞ念仏の一行のみとゞまりて、往生すべしといへることなり。余行はしからず。しかのみならず、下品下生の十悪の罪人、臨終のとき聞経と称仏と、二善をならべたりといゑども、化仏来迎してほめたまふに、「汝称仏名故諸罪消滅。我来迎汝」(観経)とほめて、いまだ聞経の事おばほめたまはず。また『双巻経』に三輩往生の業をとく中に、菩提心および起立塔像等の余の行おもとくといゑども、流通のところにいたりて、「其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念。当知此人為得大利。則是具足无上功徳」(大経*巻下)とほめて、余行をさして无上功徳とはほめたまはず。念仏往生の旨要をとるに、これにありと。
又云、仏の功徳は百千万劫のあひだ、昼夜にとくともきわめつくすべからず。これによて、教主釈尊、かの阿弥陀仏の功徳を称揚したまふにも、要の中の要をとりて、略してこの三部妙典をときたまへり。仏すでに略したまへり、当座の愚僧いかゞくはしくするにたえむ。たゞ善根成就のために、かたのごとく讚嘆したてまつるべし。阿弥陀如来の内証外用の功徳无量なりといゑども、要をとるに、名号の功徳にはしかず。このゆへにかの阿弥陀仏も、ことにわが名号をして衆生を済度し、また釈迦大師も、おほくかのほとけの名号をほめて未来に流通したまへり。
しかれば、いまその名号について讚嘆したてまつらば、阿弥陀といふは、これ天竺の梵語なり。こゝには翻訳して无量寿仏といふ。また无量光といへり。または无辺光仏・无㝵光仏・无対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・无称光仏・超日月光仏といへり。こゝにしりぬ、名号の中に光明と寿命との二の義をそなえたりといふことを。かの仏の功徳の中には、寿命を本とし、光明をすぐれたりとするゆへなり。しかれば、また光明・寿命の二の功徳をほめたてまつるべし。

まづ光明の功徳をあかさば、はじめに无量光は、『経』(観経)にのたまはく、「无量寿仏に八万四千の相あり。一一の相におのおの八万四千の随形好あり。一一の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明あまねく十方世界をてらす。念仏の衆生を摂取して、すてたまはず」といへり。恵心、これをかむがへていはく、「一一の相の中におのおの七百五倶胝六百万の光明を具せり、熾然赫奕たり」(要集*巻中意)といへり。一相よりいづるところの光明かくのごとし、いはむや八万四千の相おや。まことに算数のおよぶところにあらず。かるがゆへに无量光といふ。 つぎに无辺光といふは、かの仏の光明、そのかずかくのごとし。无量のみにあらず、てらすところもまた辺際あることなきがゆへに无辺光といふ。 つぎに无㝵光は、この界の日月灯燭等のごときは、ひとへなりといゑども、ものをへだてつれば、そのひかりとほることなし。もしかの仏の光明、ものにさえらるれば、この界の衆生、たとひ念仏すといふとも、その光摂をかぶることをうべからず。そのゆへは、かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだ、十万億の三千大千世界をへだてたり。その一一の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり。いはゆるまづ一四天下をめぐれる鉄囲山あり、たかさ須弥山とひとし。つぎに少千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ色界の初禅にいたる。次に大千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ第二禅にいたれり。しかればすなわち、もし无㝵光にあたらずは一世界をすらなほとほるべからず。いかにいはむや、十万億の世界おや。しかるにかの仏の光明、かれこれそこばくの大小諸山をとほりてらして、この界の念仏衆生を摂取したまふに障㝵あることなし。余の十方世界を照摂したまふことも、またかくのごとし。かるがゆへに无㝵光といふ。 次に清浄光は、人師釈していはく、「无貪の善根より生ずるところのひかりなり」(述文賛*巻中意)。貪に二あり、婬貪・財貪なり。清浄といふは、たゞ汚穢不浄を除却するにはあらず、その二の貪を断除するなり。貪を不浄となづくるゆへなり。もし戒に約せば、不婬戒と不慳貪戒とにあたれり。しかれば法蔵比丘、むかし不婬・不慳貪所生の光といふ。この光にふるゝものは、かならず貪欲のつみを滅す。もし人あて、貪欲さかりにして不婬・不慳貪の戒をたもつことえざれども、こゝろをいたしてもはらこの阿弥陀仏の名号を称念すれば、すなわちかの仏、无貪清浄の光をはなちて照触摂取したまふゆへに、婬貪・財貪の不浄のぞこる。无戒・破戒の罪
  1. 華厳経に、仏・菩薩(ぼさつ)の得る十種の仏身。衆生身・国土身・業報身・声聞身・縁覚身・菩薩身・如来身・智身・法身・虚空身を解境の十仏、正覚仏・願仏・業報仏・住持仏・化仏・法界仏・心仏・三昧仏・性仏・如意仏を行境の十仏という。
  2. 修因感果(しゅいんかんか) ◇因を修して果を感ず。善の因を修し、その各々の業力の作用により応ずべき果を感得すること。ここでは法蔵菩薩の修因感果を指す。
  3. 即ち生じ乃至三生に必ず生ず。◇『漢語灯録』には「造佛功德即決定往生業因次生及三生必得往生也(造仏の功徳は即ち決定往生の業因なり、次生及び三生には必ず往生を得る也)」とある。
  4. 智光の曼陀羅。◇奈良の元興寺に伝わる智光が感得したという曼荼羅の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称。
  5. ◇静照(~1003)の『四十八願釈』の第十九願の解釈に「雖聞称名 皆得往生。然命終時 心多顛倒。弘誓大悲 不得晏然 故与大衆 現其人前。」(称名を聞きて皆な往生すといえども、しかるに命終の時、心おおく顛倒す。弘誓の大悲、晏然(あんぜん:安らかで落ち着いた様子)たるを得ざるが故に、大衆とともに其の人の前に現ず。)『四十八願釈』とある。
  6. 『薬師琉璃光如来本願功徳経』に「復次に曼殊室利よ、若し四衆の苾芻(びっしゅ:比丘)・苾芻尼(びっしゅに:比丘尼)・鄔波索迦(うばそか:優婆塞)・鄔波斯迦(うばしか:優婆夷)、及び余の浄信の善男子・善女人等有りて、能く八分斎戒を受持すること、或は一年を経、或は復三月、学処を受持すること有らん。
    此の善根を以て、西方極楽世界 無量寿仏の所に生れて、正法を聴聞せんことを願い未だ定まらざる者、若し世尊、薬師瑠璃光如来の名号を聞かば、命終の時に臨んで八大菩薩有り、其の名を文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・無尽意菩薩・宝檀華菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・弥勒菩薩と曰う。 八大菩薩は空に乗じて来りて其の道路を示し、即ち彼の界、種種の雑色の衆の寳華の中に於て、自然に化生せん。 [1] とある。
  7. 御廟の僧正。◇源信僧都の師、慈恵大師良源。良源僧正は第十九願をもって浄土往生の願とされた。参考:「良源僧正は、第十八願は五逆と誹謗を犯していない凡夫の往生を誓った願であるが、その往生業は深妙ではないから臨終の来迎が誓われていない。それに引き替え第十九願に臨終来迎が誓われているのは、菩提心を発し、諸の功徳を修した勝れた行者であるからであって、当然第十八顧より第十九願の方が深妙な往生業が誓われている。」という。(梯實圓和上『顕浄土方便化身土文類講讃』より) →三生果遂