三部経大意(良聖本)
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
昭和八年に公表された、神奈川県の金沢文庫に襲蔵されてきた『浄土三都経大意』一巻。表紙に「良聖(花押)」と署名があるので良聖本と呼ぶ。つづいて真宗高田派本山に秘蔵されていた『三部経大意』一巻が公表された。この二書と『和語灯録』巻一所収の「三部経釈」は至誠心釈が大いに違う。
浄土三部経大意
『双巻経』・『観経』・『阿弥陀』、是を浄土の三部経と云。
『双巻経』には、先阿弥陀仏の四十八願を說き、次に願成就を明せり。其四十八願と云は、法蔵比丘、世自在王仏の御所にして菩提心を発して、浄仏国土・成就衆生の願を立給へり。凡そ其の四十八願は、或は无三悪趣とも立て、不更悪とも說き、或は悉皆金色とも云ひ、无有好醜とも誓。皆是彼国荘厳、往生後の果報也。此中に衆生彼国に生ずべき行を立給へる願を、第十八の願とするなり。
「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆誹謗正法」(大経*巻上)と云。凡四十八願の中に、此願殊に勝たりとす。其故は、彼国に若生るゝ衆生なくゆは、悉皆色の願も、無有好醜等の願も、何によりてか成就せむ。往生する衆生のあるにつけて、身の色ろも金色に、好醜ある事もなく、五通をもえ、三十二相をも具すべし。是によりて、善道釈して言はく、「法蔵比丘四十八願を立給て、一□の願に皆な、若我□仏、十方衆生、称我名号願生我国下□十念、若不生者不取正覚」(玄義*分意)と云。四十八願に一々に皆此心あり。凡諸仏の願と者、上求菩提・下化衆生の心なり。ある大乗経に云く、「菩薩の願に二種あり、一は上求菩提、二は下化衆生の意也。上求菩提の本意は、衆生を済度しやすか
らむが為也」と云へり。然ば、只本意下化衆生の願にあり。今弥陀如来の国土を荘厳し給しも、衆生を引摂しやすかんが為也。総て何の仏も、成仏の後は内証外用の功徳、済度利生の誓願、何れも何れも深くして、勝劣ある事なけれども、菩薩の道を行じ給ひし時の意巧方便の誓ひは、皆是区なる事也。弥陀如来は因位の時、専ら我名を念ぜむ者を迎□と誓給ひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向し給。濁世の我等が依怙、末代の衆生の出離是にあらずは、何にをか期せむ。是にありて、彼の仏は我世に超たる願を立つとなのり給へり。三□の諸仏も、いま□如此願をば発し給わず。十方の薩埵も、いまだ是等□誓はましまさず。「此の
願若剋果すべくは大千感動すべし、虚空の諸天まさに珍妙の花を雨すべし」(大経*巻上)と誓ひ給しかば、大地六種に振動し、天より花ふりて、汝まさに正覚をなるべしと告げき。法蔵比丘いまだ仏に成給はずとも、此願疑ふべからず。何況、成仏已後十劫になり給へり、信ぜずはあるべからず。善導和尚の「彼仏今現在世成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生」(礼讚)と釈し給へる、是なり。「諸有衆生聞其名号、信心歓喜、乃至一念至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転、唯除五逆誹謗正法」(大経*巻下)と云へる、是は第十八の願成就の文也。願には「乃至十念」(大経*巻上)と說と云へども、正く願の成就する事は一念にありと明せり。次に三輩往生の文あり。是は第十九の臨終現前の願成就の文也。発菩提心等の業をもて三輩をわかつと云とも、
往生の業は通じて皆「一向専念無量寿仏」(大経*巻下)と云□り。是則彼の仏本願なるが故也。「其仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自致不退転」(大経*巻下)と云文あり。漢朝に玄通律師と云者ありき、小乗戒を持つ者也。遠行して野に宿したりけるに、隣房に人ありて此文を誦しき。玄通是を聞て、一両返誦して後に、思出事もなくして忘れにき。其後この玄通律師、戒を破て、其の罪にありて炎魔の庁にいたる。其時に炎魔王云はく、汝仏法流布の所に生たりき。所覚の法あらば、速に說べしとて、高座に登せ給ひし時に、玄通、高座に登て思ひまはすに、総□て心に覚悟事無し。昔し野宿にて聞し文ありき、是を誦てんと思ひ出て、「其仏本願
力」と云文を誦したりしかば、炎魔法王、玉の冠を傾て、是は此西方極楽の弥陀如来の功徳を說く文なりとて、礼拝し給と云へり。願力不思議なる事、此文に見へたり。「仏語弥勒、其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念、当知此人為得大利、即是具足無上功徳」(大経*巻下)と云へり。此『経』を弥勒菩薩に付属し給には、乃至一念するをもて大利無上の功徳と云へり。『経』の大意、此文に明なる者歟。
次『観経』には定善・散善を說と云へども、念仏をもて阿難尊者に付属し給ふ。「汝好持是語」(観経)と云へる、是也。第九真身観に「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」(観経)と云へる文有り。済度衆生の願は平等にして差別有る事なけれども、無縁衆生は利益をかほる事あたはず。此故に、弥陀善逝、平等慈悲に催されて、十方世界に遍く光明を照して、一切衆生に悉く縁を結ばしめんがために、光明無量の願を立給へり。第十二の願是也。次に名号を以て因として、衆生を引摂せむが為に、
念仏往生の願を給へり。第十八の願是也。其の名号を往生の因とし給へる事を、一切衆生に遍く聞かしめんが為に、諸仏称揚の願を立給へり。第十七の願是也。第十七願に「十方世界の無量の諸仏、悉く咨嗟して、我が名を称せずと云はゞ、正覚を不取」(大経*巻上)云願を立□へり。次第十八願に「乃至十念、若不生者、不取正覚」(大経*巻上)と立給へる。此の故によりて、釈迦如来此土にして說給がごとく、十方に各恒河沙の仏ましまして、同是をしめし給へるなり。然ば、光明の縁は遍く十方世界を照して漏事なく、名号の因は悉く十方無量諸仏称揚し給ひて聞へずと云事なし。「我至成仏道、名声超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚」(大経*巻上)と誓ひ給ひし、此故也。然ば即、光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益を蒙らむ事不可疑。是故
『往生礼讚』序云、「諸仏所証平等にして是一つなれども、若願行を以て来し収むれば、因縁無きにあらず。然も弥陀世尊、本深重誓願を発して、光明・名号を以て十方を摂化し給」と云へり。又此願久して衆生を済度せむが為に、寿命無量の願を立給へり。第十三願是也。然ば、光明無量の願は、横に十方の衆生を広く摂取せむが為也。寿命無量の願は、竪に三世を久く利益せむが為也。如此因縁和合すれば、摂取不捨の光明常に照して捨給ず。此光明又化仏・菩薩ましまして、この人を摂護して百重・千重囲繞し給に、信心弥増長し、衆苦悉消滅す。臨終の時には、仏自来て迎へ給に、諸の邪業繫よく㝵る者なし。是は衆生の命終る時
に臨て、百苦来□逼て身心やすき事なく、悪縁外にひき、妄念内にもよをして、境界・自体・当生の三種の愛心きをい起り、第六天の魔王、此時に当りて威勢を起て妨をなす。如此種々の礙を除が為に、しかし臨終の時にみづから菩薩聖衆囲繞して、其人の前に現ぜむと云ふ願を建て給へり。第十九の願是也。是によりて、臨終の時にいたれば、仏来迎し給ふ。行者是を見て、心に歓喜をなして禅定に入が如くにして、忽に観音の蓮台に乗りて、安養の宝刹に至るなり。此等の益あるが故に、「念仏衆生摂取不捨」(観経)と云へり。
抑又此『経』(観経)に「具三心者必生彼国」と說けり。一は至誠心、二は深心、三廻向発願心也。三心は区に分れたりと云へども、要を取り詮を撰て是をいへば、深心一にをさまれり。善導和尚釈て言はく、「至と者真、誠と者実也。一切衆生身口意業に修る所の解行、必真実心の中に作すべき事をあかさんとす。外に賢善精進の相を現じて内に虚仮を懐ことえざれ。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵しがたく、事蛇蝎に同。雖起三業名為雑毒善、亦虚仮の行となづく。真実の業となづけ
ざるなり。若如此安心・起行を作す者は、たとひねむごろに身心をはげまして、日夜十二時に急に走り急に作て、灸頭燃ごとくにするものは、もろもろに雑毒の善と名く。此雑毒の行を廻して彼の仏の浄土に生るゝことを求めむと欲するものは、これ必ず不可なり。何以ての故に。正く彼阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じ給し時、乃至一念も一刹那も、三業に所修、皆是真実心の中に作によりてなり。凡所施趣き求るが為に、亦皆真実なり。又真実に二種有り。一者自利真実、二者利他真実なり。自利真実と者、復二種あり。一者真実心の中に、自他の諸悪及穢国等を制捨して、一切の菩薩と同く諸悪を捨て諸善を修し、真実心の中□なすべし」(散善義)と云へり。此外多くの釈有り、頗ぶる我等が分にこえたり。
但此至誠心は、ひろく定善と散善と弘願との三門にわたりて釈せり。是につきて総別の義あるべし。総者、自力を以て定散等を修して往生を願ふ至誠心也。別者、他力に乗て往生を願ずる至誠心也。
其故は、『疏』の「玄義分」の序題の下たに云く、「定は即慮をやめて以て心をこらし、散は即悪を廃以て善を修す。此の二善を廻して往生を求也。弘願者『大経』に說が如し。一切の善悪の凡夫生るゝ事を得は、皆阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずと云事なし」といへり。自力を廻て他力に乗る事は明なるものか。しかれば、初に「一切衆生の身口意業に修る所の解行、必真実心の中になすべし。外に賢善精進の相□現じて内に虚仮を懐く事えざれ」(散善義)と云へる。其「解行」と者、罪悪生死の凡夫、弥陀の本願に乗じて十声・一声に決定して生るべしと、真実にさとりて行ずる是也。外には本願を信ずる相を現じて、内には疑心を懐く、是は不真実の心也、虚仮の心也。次外には賢善精進の相を現じて、内には懈怠なる、是は
不真実の行也、虚仮の行也。「貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性をかしがたし、事蛇蝎に同じ。雖起三業名て雑毒の善とす、又虚仮の行と名く。真実の善と不名」(散善義)云へり。自他の諸悪をすて三界六道を毀厭して、皆すべからく真実なるべし。故に至誠心と名くと云は、是総□義也。故如何と者、深心の下に「罪悪生死の凡夫、曠劫より以来出離の縁ある事なしと信ずべし」(散善義)と云へり。若此の釈の如く、一切の菩薩と同く、諸悪をすて行住坐臥に真実をもちゐば悪人にあらず、煩悩をはなれたる物なるべし。彼の分段生死はなれ初果証したる聖者、なを貪瞋痴等の三毒を起す。何況、一分の惑をも断ぜざらむ罪悪生死の凡夫、
いかにしてか此真実心を具すべきや。此故に、自力にて諸行を修て至誠心を具せむとするものは、専らかたし。千が中に一人もなしと云へる、是也。すべて此の三心は、念仏及諸行にわたりて釈せり。文の前後によりて心得わかつべし。例ば、四修の中の無間修を釈して云く、「相続して恭敬礼拝、称名讚嘆、憶念観察、廻向発願して、心々相続して余業を以てきたし不間。故名無間修。又以貪瞋煩悩不来間。随て犯せば随て懺して、念を隔、時をへだて、日をへだてず、常に清浄ならしむるを、又无間修と名」(礼讚)と云へり。是も念仏・余行をわかちて釈せり。初釈は貪瞋等をばいわず、余行を以てきた□へだてざる无間修也。後釈は行の正雑をばいわず、貪瞋等の煩悩を以てきたしへだてざる無間修也。しかのみならず、二行
の得失を判じて云く、「上のごとく念々相続して、命をわるを期とする物は、十は即十ながら生れ、百は即百ながら生る。何を以ての故に。仏の本願と相応するが故、教に違せざるが故に、仏語に随順するが故に。若専を捨てゝ雑業を修するものは、百が時にまれに一二を得、千の時にまれに三五を得。何を以の故に。雑縁乱動して正念を失が故に、仏の本願と相応せざるが故□、教と相違するが故に、仏語に随はざるが故に、係念相続せざるが故に、憶想間断するが故に、廻願愍重真実ならざるが故に、慚愧・懺悔の心あることなきが故へに」(礼讚)等を云へり。此中に「貪瞋・諸見の煩悩きたり間断するが故に」(礼讚)と云へる等は、ひとり雑
行の失を出せり。こゝに知ぬ、余行にをひては貪瞋等の煩悩を発さずして行ずべしと云事を。是になずらえて思に、貪瞋等をきらう至誠心は余行にありと見へたり。何に況、廻向発願心の釈は水火の二河の喩を引て、愛欲・瞋恚の水火、常にうるをし、常にやきてやむことなけれども、深心の白道たゆることなければ、生るゝ事をうといへり。
次に「深心は深信の心なり。決定して深く自身は現に是罪悪生死の凡夫也、曠劫已来常に没し常に流転して、出離の縁ある事なしと信じ、決定して深く彼阿弥陀仏の四十八願を以て衆生を摂受し給ふ。無疑無慮、彼の願力に乗れば定て往生することを得と信」(散善*義意)と云へり。初に、先づ「罪悪生死の凡夫、曠劫より已来出離の縁ある事なしと信ぜよ」と云へる、是即断善の闡提の如きの物な
り。かゝる衆生の一念・十念すれば、無始已来の生死輪廻を出でゝ、彼極楽世界、不退の国土に生ると云によりて、信心は発るべきなり。凡仏の別願の不思議は、たゞ心のかはる所にあらず、唯仏与仏のみよく知り給へり。阿弥陀
「いかんぞ、一生の修福念仏を以て即彼無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟る事を得むやといわば、答て云べし。諸仏の教行は、数塵沙にこえたり。稟識の機縁、心ろに随て一にあらず。喩へば世間の人の眼に見つべく、信じつべきが如は、明□よく闇を破し、空はよく有を含み、地はよく載養し、水はよく生潤し、火はよく成壊するが如し。如此等の事悉く待対の法と名づく。即目に見べし、千差万別也。何に況や、仏法不思議の力、豈種々の益なからんや」(散善義)と云へり。極楽世界に水鳥・樹林の、微妙の法を囀も不思議なれども、是をば仏の願力なればと信じて、何ぞ只第十八の「乃至十念」(大経*巻上)と云ふ願をのみ可疑哉。
総じて仏の說を信は、此も仏說也。花厳三无差別、般若の尽浄虚融、法花の実相真如、涅槃の悉有仏性、たれか不信。是も仏說なり、彼も仏說也。何をか信じ、何をか信ぜざらむや。夫三字の名号は少しと云へども、如来の所有の内証外用の功徳、万徳恒沙の甚深の法門を、此の名号の中にをさまれる。誰か是を量るべき。『疏』の「玄義分」(意)に此名号を釈て云、「阿弥陀仏と者、是天竺の正音也。こゝには翻じて無量寿覚と云。无量寿者是法、覚者是人也。人法ならびてあらはす。故阿弥陀仏と云。人法者所観の境なり。これに付て依報あり、正報あり」と云へり。然ば、弥陀如来・観音・勢至・普賢・文殊・地蔵・竜樹よりはじめて、乃至
彼の土の菩薩・声聞等に至るまでそなへ給へる所の事理の法門、定恵の□力、内証の実智、外用の功徳、総じて万徳無漏の所証の法門、悉く三字の中に収まれり。総じて極楽世界に何れの法門か漏れたる所あらむ。而を、此三字の名号をば、諸宗各我宗に釈し入たり。真言には阿字本不生の義、八万四千の法門、四十二字の阿字より出生せり。一切の法は阿字をはなれたる事なし。故に功徳甚深の名号なりと云へり。天台には空・仮・中の三諦、性・了・縁の三の義、法・報・応の三身、如来所有の功徳是をいでず。故に功徳甚深也と云。如此諸宗各我が存る所の法につひて、阿弥陀の三字を釈せり。今此宗の心は、真言の阿字本不生の義も、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道の旨も、法相の五重唯識の心も、総て森羅の万法
広く是に摂習ふ。極楽世界に漏たる法門なきが故也。但し今弥陀の願意は、如此さとれと□はあらず。唯深く信心を至て唱る者を迎むとなり。耆婆・篇鵲が万病をいやす薬は、万草諸薬を以て合薬せりと云へども、病者是をさとりて其の薬種何分、其の薬草何両和合せり□不知。然而、是を服するに万病悉くいゆるが如し。但し恨むらくは、此薬を信ぜずして、我病は極めて重し、何が此薬にて癒る事あらむと疑て服せずは、耆婆が薬術も、扁鵲秘方も、空
くして其益あるべからざる事を。弥陀の名号も又如此。我煩悩悪業病は、極て重し、いかゞ此名号を唱て生る事あらむと疑て是を信ぜずは、弥陀の誓願も、釈尊の所說も、むなしくして其験あるべからざるものか。唯仰て信ずべし、良薬を得て服せずして死する事なかれ。崑崙山に行て玉を不取して返り、旃檀の林に入て枝を不折して出でなば、後悔如何せむ、自らよく思量すべし。
抑我等曠劫より已来、仏の出世にも遇けむ、菩薩
の化道にも値けむ。過去の諸仏も、現在の如来も、皆是宿世の父母也、多生の朋友也。かれはいかにして菩提を証し給へるぞ、我等は何によりて生死にとゞまれるぞ、慚々、悲々。而を本師釈迦如来、大罪の山に入、邪見林にかくれて、三業放逸に六情またからざらん衆生を、我国土には取置て教化度脱せしめむと誓ひ給へりき。抑何にしてかゝる諸仏のこしらへかね給へる衆生をば度脱せしめんとは誓ひ給へるぞと尋ぬれば、阿弥陀如来因位の時、無諍念王と申せし時、菩提心を発て生死を過度せしめむと誓給ひしに、釈迦如来は宝海梵士□申しき。無諍念王、因位をすて菩提心を発し、摂取衆生の願を立て、我仏に成じらん時、十
方三世の諸仏もこしらへかね給たらむ悪業深重の衆生なりとも、我名を唱へば皆悉く迎むと誓ひ給ひしを、宝海梵士聞畢て、我必穢悪の国土にして正覚を唱て、悪業深重にして輪廻无際な□む衆生等に此事を示□む。衆生是を聞て唱へば、生死を解脱せむ事甚だ易すかるべしとをぼして、此願を発し給へり。曠劫より已来、諸仏の世に出でゝ、縁に随ひ、機をはかりて、各衆生を度脱せしめ給ふ事、かず塵沙にすぎたり。或は大乗を說き少乗を說き、或は実教をひろめ権教をひろむ。機縁純熟すれば皆悉く其の益を得。爰に釈尊、八相を五濁悪世に唱へて、放逸邪見の衆生の出離、其期なきことを哀て、此より西方に極楽世界あり、仏まします、阿弥陀と名けたてまつる。彼の仏は「乃至十念、若不生者、不取正覚」(大経*巻上)と誓給て、已
に仏に成り給へり。速に是を念ぜよ。出離生死の道多と云へども、悪業煩悩の衆生の、とく生死を解脱すべきこと、これに過たる事なしと教給ひて、努々是を疑事なかれ。六方恒沙の諸仏も、皆同く証誠し給へるなり。ねんごろに教へ給て、我もし久く穢土にあらば、邪見・放逸の衆生、我をそしり我をそむきて、かへりて悪趣に堕せむ。我世に出る事は、本意唯弥陀の名号を衆生に令聞ためなりとて、阿難尊者にむかひて、汝好く此事を持て遐代に流通せよ□、ねむごろに約束しをきて、跋提河のほとり、沙羅林の下にして、八十の春の天、二月十五の夜半に、頭北面西にして涅槃に入り給にき。其の時に、日月光を失ひ、草木色を変
じて、竜神八部、禽獣・鳥類にいたるまで、天に仰てなげき、地に臥て叫ぶ。爰に阿難・目連等の諸大弟子、悲淚のなみだを抑て相議して云はく、我等釈尊の恩になれたてまつり、八十の春秋を送り迎へし間、或は我等釈尊に奉問、答給もありき、或は自らねんごろに告給事もありき。而に化縁爰に尽て、黄金の膚、忽にかくれ給ひぬ。済度利生の方便、今は誰に向てか問奉るべき。須く如来の御詞をしるし置て、未来にも伝へ、御かたみともせんと云て、多羅葉を拾ひて悉く是を注し置き、三蔵たち是を訳て晨旦に渡し、本朝に伝ふ。諸宗に各つかさどるところの一代聖教是也。而を阿弥陀如来、善導和尚となのりて、唐土に出て云はく、
「如来出現於五濁 随宜方便化群萌
或說多聞而得度 或說小解証三明
或教福恵双除障 或教禅念坐思量
種々法門皆解脱 無過念仏往西方
上尽一形至十念 三念五念仏来迎
直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生」(法事讚*巻下)
とをせられき。釈尊出世の本懐、唯此事に有と云べし。「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」(礼讚)と云へり。釈尊の恩を報ず、是誰が為ぞや、偏に我等がためにあらずや。今度空くして過なば、出離何の時をか期せむとする。速に信心を発して生死を過度すべし。
次に廻向発願心は人ことに具しやすき事也。国土の快楽を聞て、誰か願はざらんや。抑、彼国土に九品の差別あり、我等何れの品をか期すべき。善導和尚の御心、「極楽弥陀は報仏・報土也。未断或の凡夫は総じて生ずべからずと云へども、弥陀の別願の不思議にて、罪悪生死の凡夫、一念・十念して生ず」(玄義*分意)と釈し給へり。而を上古より已
来、多□下品と云とも可足なんど云て、上中品を欣はず。是は悪業の重に恐て心を上品にかけざるなり。若夫悪業よらば、総じて往生すべからず。願力によりて生ぜり、何ぞ上品にすゝまむ事を望みがたしとせむや。総て弥陀の浄土を儲給事は、願力の成就する故也。然らば、又念仏の衆生の正くは生ずべき国土也。「乃至十念、若不生者、不取正覚」(大経*巻上)と立給て、此願によりて感得し給へる所の国土なるが故なり。今又『観経』の九品の業をいはゞ、下品は五逆・十悪の罪人、命終の時に臨みて、はじめて善知識の勧によりて、或は十声、或は一声称念して、生事をえたり。我等悪業ふかしと云へども、未造五逆。行業疎そかなりと云
とも、念仏一声・十声に過たり。臨終より前に弥陀誓願を聞得て、随分に信心を至たす。然ば、下品まではくだるべからず。中品は小乗持戒の行者、孝養父母、仁・儀・礼・智・信等の世善の行人也。是又中々生れがたし。小乗の行人にあらず、持たる戒もなし、我等が分にあらず。上品は大乗の凡夫、菩提心等の行也。菩提心は諸宗各得意云とも、浄土宗の心は、浄土に生れむと願るを菩提心と云へり。念仏は是大乗行也、無上功徳也。然ば、上品の往生、手をひくべからず。又本願に「乃至十念」(大経*巻上)と立給ひて、臨終現前の願に「大衆囲繞して其人の前に現ぜむ」(大経*巻上)と立給へり。中品は声聞衆来迎す。下品は化仏の三尊、或は金蓮台等来迎すと云へり。而を大衆と囲繞して現ぜむと立給へり。本願意趣、上品の来迎をまうけ給へる
物也。何ぞ強に是をすまわむや。又善導和尚、「三万已上は上品往生の業也」(観念法*門意)と云へり。数遍によりても上品に生ずべし。又三心について九品あるべし。信心によりて上品に生ずべき歟。上品を欣は、事我身の為にあらず。彼の国に生れをわりて、かへりて疾く衆生を化せむが為也。是仏の御心にかなはざらんや。
次『阿弥陀経』は、先極楽の依正二報の功徳を說。
衆生願楽の心を勧めんが為也。後に往生の行をあかす。「小善根を以ては彼国に生るゝ事を不可得。阿弥陀仏の名号を執持して、一日七日すれば往生する事を得」(小経意)とあかせり。衆生是を信ぜざらむ事を恐て、六方に各恒沙の諸仏ましまして、舌相を大千にのべて証誠し給へり。善導釈して云はく、「此証によりて生るゝ事をえずは、六方の如来の舒給へる舌、一度口より出で畢て、永く口に返り入らずして、自然にやぶれたゞれむ」(観念*法門)とのたまへりしかば、これを疑ふ者は、只弥陀の本願をうたがうのみにあらず、釈尊の所說をも疑なり。釈尊の所說を疑は、六方恒沙の諸仏の所說を疑也。即此大千にのべ給へる舌相をやぶりたゞらかすなり。若又是を信は、弥陀の本願を信るのみにあらず、釈迦の所說を信ずるなり。釈迦
の所說を信は、六方恒沙の諸仏の所說を信る也。一切諸仏を信ずれば、一切法を信るになる。一切の法を信れば、一切の菩薩を信るになる。此信ひろくして広大の信心也。
「為断凡夫疑見執 皆舒舌相覆三千
共証七日称名号 又表釈迦言說真」(法事讚*巻下)
「六方如来舒舌証 専称名号至西方
到彼花開聞妙法 十地願行自然彰」(礼讚)
「心々念仏莫生疑 六方如来証不虚
三業専心无雑乱 百宝蓮花応時現」(法事讚*巻下)
『法事讚』(巻上)云、
「人天善悪、皆得往生、到彼无殊、斉同不退。」
「他方凡聖、乗願往来、到彼无殊、斉同不退。」(法事讚*巻上)
三部経大意 源空撰
建長六年W甲寅R五月十五日於平針郷新善光寺書了
- 末註: