西方指南抄
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『浄土真宗聖典全書』聖教データベースから転載
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Ⅲ-0863西方指南抄上[本]
(一)
法然聖人御說法事
經證の中に、佛の功德をとけるに无量の身あり。あるいは總じて一身をとき、あるいは二身をとき、あるいは半三身をとき、乃至『華嚴經』には十身功德とけり。いま且眞身・化身の二身をもて、彌陀如來の功德を讚嘆したてまつらむ。この眞化二身をわかつこと、『雙卷經』の三輩の文の中にみえたり。まづ眞身といふは、眞實の身なり。彌陀如來の因位のとき、世自在王佛のみもとにして四十八願をおこしてのち、兆載永劫のあひだ、布施・持戒・忍辱・精進等の六度萬行を修して、あらはしえたまへるところは、修因感果の身なり。『觀經』(意)にときていはく、「その身量、六十萬億那由他恆河沙由旬なり。眉間の白毫、右にめぐりて五須彌山のごとしと。その一須彌山のたかさ、出海・入海おのおの八萬四千那由他なり。また靑蓮慈悲の御まなこは、四大海水のごとくして淸白分Ⅲ-0864明なり。身のもろもろの毛孔より光明をはなちたまふこと、須彌山のごとし。うなじにめぐれる圓光は、百億の三千大千世界のごとし。かくのごとくして八萬四千の相まします。一一の相におのおの八萬四千の好あり、一一の好にまた八萬四千の光明まします。その一一の光明、あまねく十方世界の念佛の衆生を攝取してすてたまはず。御身のいろは、夜摩天の閻浮檀金のいろのごとし」といへり。これ彌陀一佛にかぎらず、一切諸佛はみな黃金のいろなり。もろもろのいろの中には白色をもて本とすとまふせば、佛の御いろも白色なるべしといゑども、そのいろなほ損ずるいろなり。たゞ黃金のみあて不變のいろなり。このゆへに、十方三世の一切の諸佛、みな常住不變の相をあらわさむがために、黃金のいろを現じたまへるなり。これ『觀佛三昧經』のこゝろなり。たゞし眞言宗の中に五種の法あり。その本尊の身色、法にしたがふて各別なり。しかれども暫時方便の化身なり、佛の本色にはあらず。このゆへに、佛像をつくるにも、白檀の綵色なれども功德をえざるにあらずといへども、金色につくりつれば、すなわち決定往生の業因なり。卽生の功德、略を存ずるにかくのごとし。「卽生乃至三生に必得往生」といへり。これ彌陀如來の眞身の功德、略を存ずるにかくのごⅢ-0865とし。
次に化身といふは、无而欻有を化といふ。すなわち機にしたがふときに應じて身量を現ずること、大小不同なり。『經』(觀經)に、「あるいは大身を現じて虛空にみつ、あるいは小身を現じて丈六、八尺」といへり。化身につきて多種あり。まづ圓光の化佛。『經』(觀經)にいはく、「圓光のなかにおいて、百萬億那由他恆河沙の化佛まします。一一の化佛に衆多无數の化菩薩をもて、侍者とせり」といへり。つぎに攝取不捨の化佛。「光明徧照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨」(觀經)といふは、この眞佛の攝取なり。このほかに化佛の攝取あり。卅六萬億の化佛、おのおの眞佛とともに十方世界の念佛衆生を攝取したまふといへり。次に來迎引接の化佛。九品の來迎におのおの化佛まします、品にしたがふて多少あり。上品上生の來迎には、眞佛のほかに无數の化佛まします。上品中生には、千の化佛まします。上品下生には、五百の化佛まします。乃至かくのごとく次第におとりて、下品上生には、眞佛は來迎したまはず、たゞ化佛と化觀音・勢至とをつかはす。その化佛の身量、あるいは丈六、あるいは八尺なり。化菩薩の身量もそれにしたがふて、下品中生は、「天華の上に化佛・菩薩ましまして、來迎したまⅢ-0866ふ」(觀經意)といへり。下品下生は、「命終してのち、金蓮華をみる。猶如日輪住其人前」(觀經)といへり。文のごとくは、化佛の來迎もなきやうにみえたれども、善導の御心は、『觀經の疏』(散善義)の十一門の義によらば、第九門に「命終のとき、聖衆の迎接したまふ不同、去時の遲疾をあかす」といへり。また「いまこの十一門の義は、九品の文に約對せり。一一の品のなかに、みなこの十一あり」といへり。しかれば、下品下生にも來迎あるべきなり。しかるを五逆の罪人、そのつみおもきによりて、まさしく化佛・菩薩をみることあたはず、たゞわが座すべきところの金蓮華ばかりをみるなり。あるいはまた文に隱顯あるなり。次にまた十方の行者の本尊のために、小身を現じたまへる化佛あり。天竺の鷄頭摩寺の五通の菩薩、神足通をして極樂世界にまうでて、佛にまふしてまうさく、娑婆世界の衆生、往生の行を修せむとするに、その本尊なし。佛、ねがわくは、ために身相を現じたまへと。佛、すなわち菩薩の請におもむきて、樹の上に化佛五十體を現じたまへり。菩薩、すなわちこれをうつして、よにひろめたり。鷄頭摩寺の五通の菩薩の曼陀羅といへる、すなわちこれなり。また智光の曼陀羅とて、世間に流布したる本尊あり。その因縁は人つねにしりたることなり、つぶさにまふすⅢ-0867べからず。『日本往生傳』をみるべし。また新生の菩薩を敎化し、說法せむがために、化して小身を現じたまへることまします。これはこれ、彌陀如來の化身の功德、また略してかくのごとし。
いまこの造立せられたまへる佛は、祇園精舍の風をつたへて三尺の立像をうつし、最後終焉のゆふべを期して來迎引接につくれり。おほよそ佛像を造畫するに種種の相あり。あるいは說法講堂の像あり、あるいは池水沐浴の像あり、あるいは菩提樹下成等正覺の像あり、あるいは光明遍照攝取不捨の像あり。かくのごときの形像を、もしはつくり、もしは畫したてまつる。みな往生の業なれども、來迎引接の形像は、なほその便宜をえたるなり。かの盡虛空界の莊嚴をみ、轉妙法輪の音聲をきゝ、七寶講堂のみぎりにのぞみ、八功德池のはまにあそび、おほよそかくのごとく種種微妙の依正二報をまのあたり視聽せむことは、まづ終焉のゆふべに聖衆の來迎にあづかりて、決定してかのくにに往生してのうえのことに候。しかれば、ふかく往生極樂のこゝろざしあらむ人は、來迎引接の形像をつくりたてまつりて、すなわち來迎引接の誓願をあおぐべきものなり。その來迎引接の願といふは、すなわちこの四十八願の中の第十九の願なり。人師こⅢ-0868れを釋するに、おほくの義あり。まづ臨終正念のために來迎したまへり。おもはく、病苦みをせめて、まさしく死せむとするときには、かならず境界・自體・當生の三種の愛心をおこすなり。しかるに阿彌陀如來、大光明をはなちて行者のまへに現じたまふとき、未曾有の事なるがゆへに、歸敬の心のほかに他念なくして、三種の愛心をほろぼして、さらにおこることなし。かつはまた佛、行者にちかづきたまひて、加持護念したまふがゆへなり。『稱讚淨土經』(意)に「慈悲加祐して、こゝろをしてみだらざらしむ。すでに命をすておはりて、すなわち往生をえ、不退轉に住す」といへり。『阿彌陀經』に「阿彌陀佛、もろもろの聖衆とそのまへに現ぜむ。この人おわらむとき、心顚倒せずして、すなわち阿彌陀佛國土に往生をえむ」ととけり。「令心不亂」と「心不顚倒」とは、すなわち正念に住せしむる義なり。しかれば、臨終正念なるがゆへに來迎したまふにはあらず、來迎したまふがゆへに臨終正念なりといふ義、あきらかなり。在生のあひだ往生の行成就せむひとは、臨終にかならず聖衆來迎をうべし。來迎をうるとき、たちまちに正念に住すべしといふこゝろなり。しかるにいまのときの行者、おほくこのむねをわきまえずして、ひとへに尋常の行においては怯弱生じて、Ⅲ-0869はるかに臨終のときを期して正念をいのる、もとも僻韻なり。しかれば、よくよくこのむねをこゝろえて、尋常の行業において怯弱のこゝろをおこさずして、臨終正念において決定のおもひをなすべきなり。これはこれ、至要の義なり。きかむ人、こゝろをとゞむべし。この臨終正念のために來迎すといふ義は、靜慮院の靜照法橋の釋なり。
次に道の先達のために來迎したまふといへり。あるいは『往生傳』(往生淨土*傳卷中)に、沙門志法が遺書にいはく、
「我在生死海 幸値聖船筏 我所顯眞聖 來迎卑穢質
若忻求淨土 必造畫形像 臨終現其前 示道路攝心
念念罪漸盡 隨業生九品 其所顯聖衆 先讚新生輩
佛道樂增進」W云云R
これすなわち、この界にして造畫するところの形像、先達となりて淨土におくりたまふ證據なり。また『藥師經』(玄奘譯)をみるに、淨土をねがふともがら、行業いまださだまらずして、往生のみちにまどふことあり。すなわち文にいはく、「よく受持八分齋戒あらむ。あるいは一年をへ、あるいはまた三月受持せⅢ-0870む。まなぶところ、この善根をもて西方極樂世界无量壽佛のみもとにむまれむと願じて、正法を聽聞すれども、いまださだまらざるもの、もし世尊藥師瑠璃光如來の名號をきかむ。命終のときにのぞみて、八菩薩あて神通に乘じてきたりて、その道路をしめさむ。すなわちかの界にして、種種の雜色衆寶華の中に自然に化生す」といへり。もしかの八菩薩その道路をしめさずは、ひとり往生することえがたきにや。これをもておもふにも、彌陀如來もろもろの聖衆とともに行者のまへに現じてきたりて迎接したまふも、みちびきて道路をしめしたまはむがためなりといふ義、まことにいはれたることなり。娑婆世界のならひも、みちをゆくにはかならず先達といふものを具する事なり。これによて御廟の僧正は、この來迎の願おば現前導生の願となづけたまへり。
次に對治魔事のために來迎すといふ義あり。道さかりなれば、魔さかりなりとまふして、佛道修行するには、かならず魔の障難のあひそふなり。眞言宗の中には、「誓心決定すれば、魔宮振動す」(發菩提*心論)といへり。天台『止觀』(卷八*下意)の中には、「四種三昧を修行するに、十種の境界おこる中に魔事境來」といへり。また菩薩、三祇百劫の行すでになりて正覺をとなふるときも、第六天の魔王きたりて種種Ⅲ-0871に障㝵せり。いかにいはむや、凡夫具縛の行者、たとひ往生の行業を修すといふとも、魔の障難を對治せずは、往生の素懷をとげむことかたし。しかるに阿彌陀如來、无數の化佛・菩薩聖衆に圍繞せられて、光明赫奕として行者のまへに現じたまふときには、魔王もこゝにちかづき、これを障㝵することあたはず。しかればすなわち、來迎引接は魔障を對治せむがためなり。來迎の義、略を存ずるにかくのごとし。これらの義につきておもひ候にも、おなじく佛像をつくらむには、來迎の像をつくるべきとおぼえ候なり。佛の功德、大概かくのごとし。
次に三部經は、いま三部經となづくることは、はじめてまふすにあらず、その證これおほし。いはく大日三部經は、『大日の經』・『金剛頂經』・『蘇悉地經』等これなり。彌勒の三部經、『上生經』・『下生經』・『成佛經』等これなり。鎭護國家の三部經は、『法華經』・『仁王經』・『金光明經』等これなり。法華の三部經、『无量義經』・『法華經』・『普賢經』等これなり。これすなわち、三部經となづくる證據なり。いまこの彌陀の三部經は、ある人師のいはく、「淨土の敎に三部あり。いはく『雙卷无量壽經』・『觀无量壽經』・『阿彌陀經』等これなり」。Ⅲ-0872これによて、いま淨土の三部經となづくるなり。あるいはまた彌陀の三部經ともなづく。またある師のいはく、「かの三部經に『鼓音聲經』をくわえて四部となづく」(慈恩小*經疏意)といへり。おほよそ諸經の中に、あるいは往生淨土の法をとくあり、あるいはとかぬ經あり。『華嚴經』にはこれをとけり、すなわち『四十華嚴』の中の普賢の十願これなり。『大般若經』の中にすべてこれをとかず。『法華經』(卷六)の中にこれをとけり、すなわち「藥王品」の「卽往安樂世界」の文これなり。『涅槃經』にはこれをとかず。また眞言宗の中には、『大日經』・『金剛頂經』に蓮華部にこれとくといゑども、大日の分身なり、別てとけるにはあらず。もろもろの小乘經にはすべて淨土をとかず。しかるに往生淨土をとくことは、この三部經にはしかず。かるがゆへに淨土の一宗には、この三部經をもてその所縁とせり。
またこの淨土の法門において宗の名をたつること、はじめてまふすにあらず、その證據これおほし。少々これをいださば、元曉の『遊心安樂道』に、「淨土宗意、本爲凡夫、兼爲聖人也」といへる、その證なり。かの元曉は華嚴宗の祖師なり。慈恩の『西方要決』に、「依此一宗」といえるなり、またその證なり。かの慈恩は法相宗の祖師なり。迦才の『淨土論』(序)には、「此一宗竊要路たり」といⅢ-0873へる、またその證なり。善導『觀經の疏』(散善義)に、「眞宗叵遇」といへる、またその證なり。かの迦才・善導は、ともにこの淨土一宗をもはらに信ずる人なり。自宗・他宗の釋すでにかくのごとし。しかのみならず、宗の名をたつることは、天台・法相等の諸宗、みな師資相承による。しかるに淨土宗に師資相承血脈次第あり。いはく菩提流支三藏・惠寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禪師・善導禪師・懷感禪師・小康法師等なり。菩提流支より法上にいたるまでは、道綽の『安樂集』にいだせり。自他宗の人師、すでに淨土一宗となづけたり。淨土宗の祖師、また次第に相承せり。これによて、いま相傳して淨土宗となづくるものなり。しかるを、このむねをしらざるともがらは、むかしよりいまだ八宗のほかに淨土宗といふことをきかずと難破することも候へば、いさゝかまふしひらき候なり。おほよそ諸宗の法門、淺深あり、廣狹あり。すなわち眞言・天台等の諸大乘宗は、ひろくしてふかし。倶舍・成實等の小乘宗は、ひろくしてあさし。この淨土宗は、せばくしてあさし。しかれば、かの諸宗は、いまのときにおいて機と敎と相應せず。敎はふかし機はあさし。敎はひろくして機はせばきがゆへなり。たとへば韻たかくしては、和することすくなきがごとし。まⅢ-0874たちゐさき器に大なるものをいるゝがごとし。たゞこの淨土の一宗のみ、機と敎と相應せる法門なり。かるがゆへにこれを修せば、かならず成就すべきなり。しかればすなわち、かの不相應の敎においては、いたはしく身心をついやすことなかれ。たゞこの相應の法に歸して、すみやかに生死をいづべきなり。
今日講讚せられたまへるところは、この三部の中の『雙卷无量壽經』と『阿彌陀經』となり。 まづ『无量壽經』には、はじめに彌陀如來の因位の本願をとく、次にはかの佛の果位の二報莊嚴をとけり。しかれば、この『經』には阿彌陀佛の修因感果の功德をとくなり。W乃至R一一の本誓悲願、一一の願成就の文にあきらかなり。つぶさに釋するにいとまあらず。その中に衆生往生の因果をとくといふは、すなわち念佛往生の願成就の「諸有衆生聞其名號」(大經*卷下)の文、および三輩の文これなり。もし善導の御こゝろによらば、この三輩の業因について正雜の二行をたてたまへり。正行についてまた二あり、正定・助業なり。三輩ともに「一向專念」(大經*卷下)といへる、すなわち正定業なり、かの佛の本願に順ずるがゆへに。またそのほかに助業あり、雜行あり。W乃至Rおほよそこの三輩の中におのおの菩提心等の餘善をとくといゑども、上の本願をのぞむには、もはら彌陀の名號を稱Ⅲ-0875念せしむるにあり。かるがゆへに「一向專念」といへり。上の本願といふは、四十八願の中の第十八の念佛往生の願をさすなり。一向のことば、二、三向に對する義なり。もし念佛のほかにならべて餘善を修せば、一向の義にそむくべきなり。往生をもとめむ人は、もはらこの『經』によて、かならずこのむねをこゝろうべきなり。
次に『阿彌陀經』は、はじめには極樂世界の依正二報をとく、次には一日七日の念佛を修して往生することをとけり、のちには六方の諸佛念佛の一行において證誠護念したまふむねをとけり。すなわちこの『經』には餘行をとかずして、えらびて念佛の一行をとけり。W乃至Rおほよそ念佛往生は、これ彌陀如來の本願の行なり、敎主釋尊選要の法なり、六方諸佛證誠の說なり。餘行はしからず。そのむね、『經』の文および諸師の釋つぶさなり。W乃至R
また經を釋するに、佛の功德もあらはれ、佛を讚ずれば、經の功德もあらわるゝなり。また疏は經のこゝろを釋したるものなれば、疏を釋せむに、經のこゝろあらはるべし。みなこれおなじものなり、まちまちに釋するにあたはず。W乃至R
いまこの『觀无量壽經』に二のこゝろあり。はじめには定散二善を修して往生Ⅲ-0876することをあかし、つぎには名號を稱して往生することをあかす。W乃至R『淸淨覺經』(卷四意)の信不信の因縁の文をひけり。この文のこゝろは、「淨土の法門をとくをきゝて、信向してみのけいよだつものは、過去にもこの法門をきゝて、いまかさねてきく人なり。いま信ずるがゆへに、決定して淨土に往生すべし。またきけどもきかざるがごとくにて、すべて信ぜぬものは、はじめて三惡道よりきたりて、罪障いまだつきずして、こゝろに信向なきなり。いま信ぜぬがゆへに、また生死をいづることあるべからず」といへるなり。詮ずるところは、往生人のこの法おば信じ候なり。W乃至R
天台等のこゝろは、十三觀の上に九品の三輩觀をくわへて、十六想觀となづく。この定散二善をわかちて、十三觀を定善となづけ、三福九品を散善となづくることは、善導一師の御こゝろなり。W乃至R
抑近來の僧尼を、破戒の僧、破戒尼といふべからず。持戒の人、破戒を制することは正法・像法のときなり。末法には無戒名字の比丘なり。傳敎大師『末法燈明記』云、「末法の中に持戒の者ありといはば、これ怪異なり、市に虎あらむがごとし。たれかこれを信ずべき」といへり。またいはく、「末法の中には、たゞ言Ⅲ-0877敎のみあて行證なし。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒おか破せむによて破戒あらむ。破戒なほなし、いかにいはむや持戒おや」といへり。まことに受戒の作法は、中國には持戒の僧十人を請じて戒師とす。邊地には五人を請じて戒師として、戒おばうくるなり。しかるにこのごろは、持戒の僧一人もとめいださむに、えがたきなり。しかれば、うけての上にこそ破戒とことばもあれば、末代の近來は破戒なほなし、たゞ无戒の比丘なりとまふすなり。この『經』に破戒をとくことは、正像に約してときたまへるなり。W乃至R
次に名號を稱して往生することをあかすといふは、「佛、阿難につげたまはく、なんぢよくこの語をたもて。この語たもてといふは、すなわちこれ无量壽佛のみなをたもてとなり」(觀經)とのたまへり。善導これを釋していはく、「佛告阿難汝好持是語といふより已下は、まさしく彌陀の名號を付屬して、遐代に流通することをあかす。かみよりこのかた、定散兩門の益とくといゑども、佛の本願をのぞむには、こゝろ、衆生をして一向にもはら彌陀佛のみなを稱するにあり」(散善義)とのたまへり。おほよそこの『經』の中には、定散の諸行をとくといゑども、その定散をもては付屬したまはず、たゞ念佛の一行をもて阿難に付屬して、未Ⅲ-0878來に流通するなり。「遐代に流通す」といふは、はるかに法滅の百歲までをさす。すなわち末法萬年ののち、佛法みな滅して三寶の名字もきかざらむとき、たゞこの念佛の一行のみとゞまりて百歲ましますべしとなり。しかれば、聖道門の法文もみな滅し、十方淨土の往生もまた滅し、上生都率もまたうせ、諸行往生もみなうせたらむとき、たゞこの念佛往生の一門のみとゞまりて、そのときも一念にかならず往生すべしといへり。かるがゆへにこれをさして、とおき世とはいふなり。これすなわち遠をあげて、近を攝するなり。「佛の本願をのぞむ」といふは、彌陀如來の四十八願の中の第十八の願をおしふるなり。いま敎主釋尊、定散二善の諸行をすてゝ念佛の一行を付屬したまふことも、彌陀の本願の行なるがゆへなり。「一向專念」といふは、『雙卷經』にとくところの三輩のもんの中の一向專念をおしふるなり。一向のことば、餘をすつることばなり。この『經』には、はじめにひろく定散をとくといゑども、のちには一向に念佛をえらびて付屬し流通したまへるなり。しかれば、とおくは彌陀の本願にしたがひ、ちかくは釋尊の付屬をうけむとおもはゞ、一向に念佛の一行を修して往生をもとむべきなり。
Ⅲ-0879おほよそ念佛往生は諸行往生にすぐれたること、おほくの義あり。一には、因位の本願なり。いはく彌陀如來の因位、法藏菩薩のとき、四十八の誓願をおこして、淨土をまふけて佛にならむと願じたまひしとき、衆生往生の行をたてゝえらびさだめたまひしに、餘行おばえらびすてゝ、たゞ念佛の一行を選定して往生の行にたてたまへり。これを選擇の願といふことは、『大阿彌陀經』の說なり。二には、光明攝取なり。これは阿彌陀佛因位の本願を稱念して、相好の光明をもて念佛の衆生を攝取してすてたまはずして、往生せさせたまふなり。餘の行者おば攝取したまはず。三には、彌陀みづからのたまはく、「これはこれ跋陀和菩薩極樂世界にまうでゝ、いづれの行を修してかこのくにゝ往生し候べきと、阿彌陀佛にとひたてまつりしかば、佛こたえてのたまはく、わがくにに生ぜむとおもはゞ、わが名を念じて休息することなかれ、すなわち往生することをえてむ」(一卷本般舟*經問事品意)とのたまへり。餘行おばすゝめたまはず。四には、釋迦の付屬にいはく、いまこの『經』に念佛を付屬流通したまへり。餘行おば付屬せず。五には、諸佛證誠。これは『阿彌陀經』にときたまへるところなり。釋迦佛えらびて念佛往生のむねをときたまへば、六方の諸佛おのおのおなじくほめ、おなじくすゝめⅢ-0880て、廣長のみしたをのべて、あまねく三千大千世界におほふて證誠したまへり。これすなわち一切衆生をして、念佛して往生することは決定してうたがふべからずと信ぜしめむ料なり。餘行おばかくのごとく證誠したまはず。六には、法滅の往生。いはく、「萬年三寶滅、斯經住百年。爾時聞一念、皆當得生彼」(禮讚)といふて、末法萬年ののち、たゞ念佛の一行のみとゞまりて、往生すべしといへることなり。餘行はしからず。しかのみならず、下品下生の十惡の罪人、臨終のとき聞經と稱佛と、二善をならべたりといゑども、化佛來迎してほめたまふに、「汝稱佛名故諸罪消滅。我來迎汝」(觀經)とほめて、いまだ聞經の事おばほめたまはず。また『雙卷經』に三輩往生の業をとく中に、菩提心および起立塔像等の餘の行おもとくといゑども、流通のところにいたりて、「其有得聞彼佛名號、歡喜踊躍乃至一念。當知此人爲得大利。則是具足无上功德」(大經*卷下)とほめて、餘行をさして无上功德とはほめたまはず。念佛往生の旨要をとるに、これにありと。
又云、佛の功德は百千萬劫のあひだ、晝夜にとくともきわめつくすべからず。これによて、敎主釋尊、かの阿彌陀佛の功德を稱揚したまふにも、要の中の要をⅢ-0881とりて、略してこの三部妙典をときたまへり。佛すでに略したまへり、當座の愚僧いかゞくはしくするにたえむ。たゞ善根成就のために、かたのごとく讚嘆したてまつるべし。阿彌陀如來の内證外用の功德无量なりといゑども、要をとるに、名號の功德にはしかず。このゆへにかの阿彌陀佛も、ことにわが名號をして衆生を濟度し、また釋迦大師も、おほくかのほとけの名號をほめて未來に流通したまへり。
しかれば、いまその名號について讚嘆したてまつらば、阿彌陀といふは、これ天竺の梵語なり。こゝには翻譯して无量壽佛といふ。また无量光といへり。または无邊光佛・无㝵光佛・无對光佛・炎王光佛・淸淨光佛・歡喜光佛・智慧光佛・不斷光佛・難思光佛・无稱光佛・超日月光佛といへり。こゝにしりぬ、名號の中に光明と壽命との二の義をそなえたりといふことを。かの佛の功德の中には、壽命を本とし、光明をすぐれたりとするゆへなり。しかれば、また光明・壽命の二の功德をほめたてまつるべし。
まづ光明の功德をあかさば、はじめに无量光は、『經』(觀經)にのたまはく、「无量壽佛に八萬四千の相あり。一一の相におのおの八萬四千の隨形好あり。一一Ⅲ-0882の好にまた八萬四千の光明あり。一一の光明あまねく十方世界をてらす。念佛の衆生を攝取して、すてたまはず」といへり。惠心、これをかむがへていはく、「一一の相の中におのおの七百五倶胝六百萬の光明を具せり、熾然赫奕たり」(要集*卷中意)といへり。一相よりいづるところの光明かくのごとし、いはむや八萬四千の相おや。まことに算數のおよぶところにあらず。かるがゆへに无量光といふ。 つぎに无邊光といふは、かの佛の光明、そのかずかくのごとし。无量のみにあらず、てらすところもまた邊際あることなきがゆへに无邊光といふ。 つぎに无㝵光は、この界の日月燈燭等のごときは、ひとへなりといゑども、ものをへだてつれば、そのひかりとほることなし。もしかの佛の光明、ものにさえらるれば、この界の衆生、たとひ念佛すといふとも、その光攝をかぶることをうべからず。そのゆへは、かの極樂世界とこの娑婆世界とのあひだ、十萬億の三千大千世界をへだてたり。その一一の三千大千世界におのおの四重の鐵圍山あり。いはゆるまづ一四天下をめぐれる鐵圍山あり、たかさ須彌山とひとし。つぎに少千界をめぐれる鐵圍山あり、たかさ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鐵圍山あり、たかさ色界の初禪にいたる。次に大千界をめぐれる鐵圍山あり、たかⅢ-0883さ第二禪にいたれり。しかればすなわち、もし无㝵光にあたらずは一世界をすらなほとほるべからず。いかにいはむや、十萬億の世界おや。しかるにかの佛の光明、かれこれそこばくの大小諸山をとほりてらして、この界の念佛衆生を攝取したまふに障㝵あることなし。餘の十方世界を照攝したまふことも、またかくのごとし。かるがゆへに无㝵光といふ。 次に淸淨光は、人師釋していはく、「无貪の善根より生ずるところのひかりなり」(述文贊*卷中意)。貪に二あり、婬貪・財貪なり。淸淨といふは、たゞ汚穢不淨を除却するにはあらず、その二の貪を斷除するなり。貪を不淨となづくるゆへなり。もし戒に約せば、不婬戒と不慳貪戒とにあたれり。しかれば法藏比丘、むかし不婬・不慳貪所生の光といふ。この光にふるゝものは、かならず貪欲のつみを滅す。もし人あて、貪欲さかりにして不婬・不慳貪の戒をたもつことえざれども、こゝろをいたしてもはらこの阿彌陀佛の名號を稱念すれば、すなわちかの佛、无貪淸淨の光をはなちて照觸攝取したまふゆへに、婬貪・財貪の不淨のぞこる。无戒・破戒の罪