阿修羅の琴
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
あしゅらのきん
阿修羅のもっている琴。その福徳によって、聞こうと思えば弾かなくても自然に意にしたがって妙なる音を出すといわれる。 (行巻 P.190,証巻 P.335)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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◆ 参照読み込み (transclusion) WDM:あしゅらきん
阿修羅琴
「阿修羅道の琴」として、論釈の中でよく引用される。つまり、阿修羅の福徳によって、琴の音を聴こうと思うと、誰も琴を弾かないのに聞く者の心のまゝに妙音を奏でるといわれる。龍樹は『大智度論』巻17に、法身の菩薩の衆生に対する教化が自在であることをたとえて、この阿修羅琴を述べている。
- 法身の菩薩は無量の身を変化して衆生のために法を説く。しかも菩薩は心に分別することなきは、阿修羅の琴の常に自ら声を出だし、意に随って作し、人の弾ずるもののなきが如し。此もまた敬心なく、摂心もなし。是れ福徳の報より生ずるが故に、人の意に随って声を出す。法身の菩薩も、また是の如し。 〔T25, p.188c〕
また、このような例は、曇鸞の『往生論註』下の「利行満足章」に
- 本願力というのは、上位の菩薩が、そのさとりの中において、つねに禅定にあって、いろいろの身、いろいろの神通、いろいろの説法を現わす。これはみな、この土における信心の中にそなわる利他回向の徳からするのである。たとえば阿修羅の琴は弾ずる者がなくても、自然に音曲の出るようなものである。これを第五の教化地の功徳相と名づける。 〔七祖註釈版 p.116〕
と示している。