煩悩即菩提
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
上記の「曇鸞讃」に、
- 無碍光の利益より
- 威徳広大の信をえて
- かならず煩悩のこほりとけ
- すなはち菩提のみづとなる (高僧 P.585)
- 罪障功徳の体となる
- こほりとみづのごとくにて
- こほりおほきにみづおほし
- さはりおほきに徳おほし (高僧 P.585)
とあり、仏のさとりの智見からみれば、煩悩と菩提は、その体性は一つであるということ。 これを煩悩具足の衆生の側から論ずると、一元論の本覚思想に陥る。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:煩悩即菩提
ぼんのうそくぼだい/煩悩即菩提
煩悩がそのままさとりの縁となること。原始仏教や部派仏教では、煩悩と菩提は対立的に捉えられたが、大乗仏教において煩悩も菩提(さとり)も空であり、本来は不二で相即していると説かれるようになった。さとりの面から捉えれば煩悩も真如の現れであり、それを離れてさとりはないということになる。大乗仏教の一思想表現として「生死即涅槃」と併称される。『大乗荘厳経論』六に「法性を離れて外に諸法あることなきにより、是の故に是の如く説く、煩悩即菩提なりと」(正蔵三一・六二二中)とある。
【執筆者:大屋正順】