三縁
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
さんえん
Ⅰ 阿弥陀仏が念仏の衆生を
- ①
親縁 。衆生が口で仏名 を称 え、身で仏を礼拝 し、意 で仏を念ずるとき、これらを仏は聞き、見、知って衆生と仏とは互いに憶念 し合うという密接不離の関係にあること。 - ②
近縁 。衆生が仏を見たいと願えば目前にあらわれるという関係にあること。 - ③
増上縁 。衆生が名号(みょうごう)を称えれば多劫 の罪を除き、命の終るときに仏は聖衆 とともに来迎 して、罪業 の繋縛 に障碍 されず往生させること。
Ⅱ 三種の慈悲のこと。
- ①
衆生縁 。衆生の実体があるとみて衆生に対して生ずる世俗的な慈悲で小悲ともいう。 - ②
法縁 。衆生の実体はないが、個体を構成する五蘊 の法体は実有であるとする小乗の聖者のおこす慈悲で中悲ともいう。 - ③無縁。差別の見解を離れた平等絶対の慈悲で初地以上の菩薩や仏のおこされる大悲をいう。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 三種の慈悲
『浄土論註』の性功徳釈より。
『浄土論』の偈文「正道大慈悲 出世善根生」の大慈悲の語を『浄土論註』で解釈する中で、「慈悲に三縁あり」とし、衆生縁、法縁、無縁とする。この三縁という語は『大智度論』巻四〇や『涅槃経』梵行品などの 三縁の語に依られたものであろう。ここでの縁とは、「縁ずる(心のはたらきが対境に向かってはたらき、そのすがた(相)を取ること)」という意味で、慈悲がどのような関係性によっておこるかを三種に分けて考察されている。
なお、三縁については諸経論でさまざまな解釈があるが、一つは衆生縁の慈悲といわれるもので、人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で普通には愛といわれるものである。我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから小悲という。
法縁の慈悲とはあらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁という。我という実体はないという道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので中悲という。
無縁の慈悲とは、迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから無縁という。人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから大悲という。この智慧を因とする〈正道の大慈悲であるような出世の善根より生ず〉という、無縁の大悲が浄土の法性であり根本である。そして、真仏・真土の浄土とは、この大慈悲をエネルギーとして性起された無住処涅槃の境界である。
- 参照
『大智度論』巻40
復次慈悲心有三種。衆生縁法縁無縁。
- 復た次ぎに、慈悲心に三種有り、衆生縁、法縁、無縁なり。
凡夫人衆生縁。声聞辟支仏及菩薩 初衆生縁後法縁。
- 凡夫人は衆生縁なり。声聞、辟支仏、及び菩薩は、初は衆生縁、後は法縁なり。
諸仏善修行畢竟空故名為無縁。
- 諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に名づけて、無縁と為す。