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いのちをはらんときまで

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

いのちをはらんときまで

 「恒願…」の頌句(じゅく)は元来、臨終迎接を願った文であるが、親鸞聖人は「臨終時」を「いのちをはらんときまで」と読むことによって、これを平生の欣求心を明かすものとみられた。(一多 P.677)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

原文は『礼讃』の文、

恒願一切臨終時(ごうがんいっさい-りんじゅうじ) 勝縁勝境悉現前(しょうえん-しょうきょう-しつげんぜん)
つねに願はくは一切臨終の時、勝縁・勝境ことごとく現前せん。 (往生礼讃 P.667)

を『一念多念分別事』には、

念々にわすれず、念々に怠らず、まさしく往生せんずるときまで念仏すべきよしを、(一多分別 P.1372)

とされていた。この文を、

「一切臨終時」といふは、極楽をねがふよろづの衆生、いのちをはらんときまでといふことばなり。(一多 P.677)
と読まれた。『一念多念分別事』では「往生せんずるとき」と臨終来迎の奇瑞を期する時の文とされていた。しかし御開山は、「いのちをはらんときまで」と平生に於ける欣求を顕すごとされておられた。なお隆寛律師は「一切」を「念々にわすれず、念々に怠らず」と一切時とし、御開山は一切を「極楽をねがふよろづの衆生」とされている。「をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり」とされておられるので、一切時とはされなかったのであろう。