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世間

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

せけん

 世の中。煩悩(ぼんのう)に束縛されて存在しているもの。生きものを有情(うじょう)(または衆生(しゅじょう))世間といい、生きものを住まわせている山河大地などを器世間(きせけん)という。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 世間(せけん)とは、出世間(しゅっせけん)とあわせてこの世を二分して見る仏教用語である。移り変り、破壊を免れない迷いの世界という意味である。

二種世間
JDS:世間
JDS:出世間

◆ 参照読み込み (transclusion) ノート:世間

社会といふ語が世間といふ言葉と通用されることがあるのだが、加賀野井 秀一氏は世間と社会の違いについて、

 「社会」という言葉に例を取ってみましょう。「ソサエティー」ですね。この「ソサエティー」も明治期の言葉です。
ところが、それ以前に日本語では「世間」という言葉がありました。ですから、何も社会なんて言わなくても、「ソサエティー」という言葉を世間と訳せばいいじゃないかとも考えられるわけですが、そうではありません。例えば皆さん「世間様へ気兼ねをする」というのはありますけれど、「社会様へ気兼ねをする」というのはどうもおかしいですよね。何とはなしにそぐわない。それから「社会参加をいたしましょう」と言いますが、でも「世間参加をいたしましょう」というのはないんですね。この概念を細かく考えてみますと、「社会」というのは我々個人を含むものですけれども、含んでいながら、我々と対立する、公と私みたいな関係になっております。ところが、「世間」というのは違うんです。世間の中には「私」は含まれません。「世間の目が怖い」なんていうのは、全部自分の外部です。それに対していつも気遣いをしている。他人にとっての世間の中に私は入るわけですが、自分自身は、世間の中に含まれつつ、その世間と対立するという構造じゃないですね。ですから、日本人の中に「社会」という概念はなかったのだと考えた方がいいと思います。
「古い革袋に新しいワインを入れる」とちょっと調子が悪いというようなもので、どうしても新しい言葉が必要になった。そこで福澤諭吉なんかが考えて作ったわけです。けれども、「社会」という言葉は、まかり間違うと「会社」という言葉になりそうだったらしいですね。そうすれば、我々は会社に参加しなくちゃいけない。ただでさえ、会社人間になっている我々が、そこへ参加したらえらいことですけれども(笑)、いずれにしても、そういう形で社会という言葉が出来たわけです。
といわれていた。

明治期の先達は、英単語「society」の訳語として当初は「世間」の語を配当しようとしたそうだが、「世間」といふ語には仏教語としての意味が濃厚なため「society」の訳語として社会といふ語が造語された。会社の「社」は人々の集まり、組織、団体の意で、「会」はあつまる、あつまりの意を示すことから造語された日本製の漢語。→JWP:和製漢語