阿惟越致相
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
『十住毘婆沙論』易行品に、
- 問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。
と「先に説くがごとし」とあるので、惟越致と阿惟越致を説く『阿惟越致相』をUP。惟越致の菩薩には、敗壊の菩薩と漸漸精進の菩薩を説く。
阿惟越致相品
惟越致と阿惟越致
問うて曰く、是の諸菩薩に二種有り。一には惟越致、二には阿惟越致なり。応に其の相を説くべし、是れ惟越致、是れ阿惟越致なりと。
答へて曰く、
等心にして衆生に於いて、 他の利養を嫉まず。
乃至身命を失うとも、 法師の過を説かず。
深妙法を信楽して、 恭敬を貪らず。
此の五法を具足するは、 是れ阿惟越致なり。
「等心衆生」とは、衆生は六道の所摂、上・中・下に於いて心に差別無き、是を阿惟越致と名づく、と。
問うて曰く、説くが如く諸仏、菩薩に於いて応に第一敬心を生ずべし。余は則ち爾らず。又言く、諸仏菩薩に親近して恭敬し供養すと。余は爾らず。云何が一切衆生等心無二と言ふや、と。
答へて曰く。説くに各ゝ義有り。応に疑難すべからず。「衆生に於いて等心なり」とは、若し衆生有って菩薩を視ること 怨賊の如くなるあり、視ること父母の如くなる有り、視ること中人の如くなる有り。此の三種の衆生の中に於いて、等心に利益して度脱せんと欲するが故に差別有ること無し。是の故に汝難を致すべからず。
「他の利養を嫉まず」とは、若しは他のもの衣服・飲食・臥具・医薬・房舎・産業・金銀・珍宝・村邑・聚落・国城・男女等を得るに、此の施の中に於いて嫉妬を生ぜず。又、恨を懐かずして心に欣悦するなり。
「法師の過を説かず」とは、若し人有って説いて大乗、空・無相・無作法、若しは六波羅蜜、若しは四功徳処、若しは菩薩十地等の諸の大乗法に応ぜんに、乃至失命の因縁ありとも、尚ほ其の過悪を出さず。何に況んや諸の悪事を加へんや。
「深妙の法を信楽す」とは、深法とは空・無相・無願[1]及び諸の深経に名づく。般若波羅蜜、菩薩蔵等の如し。此の法に於いて一心に信楽して疑惑する所無くんば、余の事に中に於いて是の如き楽無し。深経の中に於いて滋味を得るが故に。
「恭敬を貪らず」とは、諸法の実相に通達するが故に、名誉・毀辱・利と不利等に於いて異有ること無し。
「此の五法を具す」とは、上の所説の如し。阿耨多羅三藐三菩提に於いて退転せず懈廃せざる、是れを阿惟越致と名づけ、此と相違するを惟越致と名づく。
是の惟越致の菩薩に二種有り。或は敗壊する者、或は漸漸に転進して阿惟越致を得るものあり。
菩薩の敗壊の相
問いて曰く、説く所の敗壊とは其の相、云何んと。
答へて曰く、
若しは志幹あること無く、 好んで下劣の法を楽ひ、
深く名と利養に著し、 其の心、端直ならず。
他家に吝護[2]して、 空法を信楽せず。
但だ諸の言説を貴ぶ。 是を敗壊の相と名づく。
「志幹あること無し」とは、顔貎に色無く、威徳浅薄なるをいふ。
問うて曰く、身相威徳なるを以って、是れ阿惟越致の相とするに非ず。而も此の説を作す、是れ何の謂ぞや、と。
答へて曰く、斯の言、謂(いわ)れ有り、疑を致すべからず。我れ内に功徳有るが故に身に威徳有りと説く。但だ身色、顔貎端正なるのみを説くにはあらず。「志幹」とは所謂る、威徳勢力なり。若し人有て能く善法を修集し悪法を除滅せば、此の事の中に於いて、力有るを名づけて志幹と為すなり。復た身は若し天王、光は日月の如しと雖も、若し善法を修集して悪法を除滅すること能はずんば、名づけて志幹無しと為すなり。復た身色醜陋にして形、餓鬼の如しと雖も、能く善を修し悪を除けば乃ち名づけて志幹と為すのみ。是の故に汝が難は非なり。
「好んで下劣の法を楽ふ」とは、仏乗を除き已れる余乗は、仏乗に比するに、小劣にして如かざるが故に名づけて下と為す。悪を以てするには非ざるなり。其の余の悪事をも亦た名づけて下と為す。二乗の所得を仏に於いて下と為すのみ。倶だ世間を出でて無余涅槃に入るが故に、名づけて悪と為さず。是の故に、若し人仏乗を遠離して二乗を信楽せば、是れを下法を楽うと為す。是の人、上事を楽ふと雖ども、二乗を信楽して大乗を遠離するを以ての故に、亦下法を楽ふと名づく。復た次に下を悪事に名づく。所謂る五欲なり。又、断常等、六十二見、一切の外道の論議、一切の生死を増長するもの是れを下法と為し、此の法を行ずるが故に名づけて下法を楽うと為す。
「名利に深著す」とは、布施・財利・供養・称讃の事の中に於いて、深心に繋念して善く方便を為し、清浄の法味を得ざる故に此の事を貪楽す。
「心、端直ならず」とは、其の性、諂曲にして喜んで欺誑を行ず。
「他家を吝護す」とは、是の人家に入る所に随って、余人の利養・恭敬・讃歎を得ること有るを見て、即ち嫉妬を生じ憂愁して悦ばず。不清浄ならず、我を計ること深きが故に、利養に貪著し嫉妬の心を生じ檀越を嫌恨するなり。
「空法を信楽せず」とは、諸仏三種に空法を説きたまふ。所謂る三解脱門なり。此の空法に於いて信ぜず、楽はず、以って貴と為さず、心、通達せざるが故に。
「但だ言説を貴ぶ」とは、但だ言辞を楽って、説の如く修行すること能わず。但だ口に説くこと有って、諸法を信解し其の趣味を得ること能わず、是れを敗壊の相と名づく。
若し人、菩提心を発して、是の如き相有らば、当に知るべし是れ敗壊の菩薩なりと。
「敗壊」とは不調順に名づく。譬へば最弊の悪馬を名づけて敗壊と為すが如し。但だ馬の名のみ有って馬の用有ること無し。敗壊の菩薩も亦是の如し。但だ空名のみ有りて実行有ること無し。若し人、敗壊の菩薩と作らんと欲せずんば、当に悪法を除き、法に随って名を受くべし。
漸漸精進の菩薩
問うて曰く、汝、説かく、惟越致地の中に在りて、二種の菩薩有り。一には敗壊の菩薩、二には漸漸に精進して後に阿惟越致を得と、敗壊の菩薩は已に解説す。漸漸に精進して後に阿惟越致を得る者、今、解説す可し。
答へて曰く、
菩薩我を得ず。 亦、衆生を得ず。
説法を分別せず。 亦、菩提を得ず。
相を以て仏を見ず。 此の五功徳を以って
大菩薩と名づくるを得て 阿惟越致を成ず。
菩薩、此の五功徳を行じて、直[3]に阿惟越致に至る。「我を得ず」とは、我の著を離るるが故に。是の菩薩、内外・五陰・十二入・十八界の中に於いて我を求むるに不可得なり。是の念を作す。
若し陰[4]是れ我ならば 我れ即ち生滅の相なり。
云何が当に受を以って 而も即ち受者と作すべき。
若し陰を離れて我れ有あらば 陰の外に得べし。
云何が当に受を以て 而も受に異らしむべき。
若し我に五陰有らば 我れ即ち五陰を離る。
世間に常に言ふがごとし 牛は牛主に異なると。
異物共に合するが故に 此の事を名づけて有と為す。
是の故に我に陰有らば 我れ即ち陰に異ならん。
若し陰中に我れ有らば 房中に人有るが如し。
床上の聴者の如し。 我れ応に陰に異なるべし。
若し我中に陰有らば 器中に果有るが如し。
乳中に蠅有るが如し。 陰則ち我に異ならん。
可然と非然との如し。 可、然を離れて然(燃)えず。
然に可然有ること無し。 然、可然中に無し。
我、陰に非ずして陰を離る。 我も亦有ること無し。
五陰の中に我無し 我の中に五陰無し。
是の如く染と染者と 煩悩と煩悩者と、
一切瓶衣等 皆な当に是の如く知るべし。
若し我に定有り 及び諸法の異相を説かば、
当に知るべし、是の如き人は 仏法の味を得ず。
菩薩、是の如く思惟して即ち我見を離る。我を見ることを遠離するが故に則ち我を得ず。
衆生を得ずとは、衆生の名は菩薩に異りとは、貪、我見を離るるが故に是の念を作す。若し他人実に我有らば、彼れ他の因の為に我れ有る可きが故に、彼を以って他と為す。而も実に我を求むるに不可得なり。彼も亦不可得なるが故に、彼も無く亦我も無し。是の故に菩薩も亦彼を得ず。
「分別して説法せず」とは、是れ菩薩、一切の法は不二なりと信解するが故に差別無きが故に、一相の故に是の念を作す。一切の法は皆邪に従って憶想分別して虚妄欺誑を生ず。是れ菩薩は諸の分別を滅して諸の衰悩無し。即ち無上第一義因縁の法に入りて他の慧に随はず。
実の性は則ち有に非ず。 亦、復た是れ無に非ず。
亦有亦無に非ず。 非有非無に非ず。
亦、文字有るに非ず。 亦、文字を離れたるにあらず。
是の如く実義は 終に説くことを得べからず。
言ふ者は言(ことば)のみを言ふべし。 是れ皆寂滅相なり。
若し性寂滅とは 有に非ず亦無に非ず。
為に何事をか説かんと欲し、 為に何を以って言説せん。
云何が有智の人、 而も与に言ふ者は言ふ。
若し諸法の性、空なれば、 諸法は即ち無性、
随って何を以って法空とする。 是の法は説くべからず。
言有らざることを得ざれば。 言を仮って以って空と説く。
実の義は亦、空に非ず。 亦、復た不空にも非ず。
亦、空、不空にも非ず 空、不空に非ざるにも非ず。
虚にも非ず、亦、実にも非ず、 説に非ず、不説にも非ず。
而も実に所有無く、 亦、所有無きにも非ず。
是を悉く諸の所有分別、 因及び従因の生は、
捨離すと為す。 是の如く一切の法は、
皆是れ寂滅の相なり。 取も無く亦捨も無く、
灰と衣と不浄無し。 灰も亦還(ま)た衣を汚す。
言に非ざれば実を宣べず 言説は則ち過有り。
菩薩は是の如く観じて、説法の中に信解し通達して、分別する所無し。「菩提を得ず」とは、是れ菩薩は空法を信解するが故に、凡夫所得の菩提の如く、是の如く得ず。
是の念を作さく、
仏は菩提を得ず、 仏は亦得ざるにも非ず。
諸果及び余法、 皆亦、復た是の如し。
仏有れば菩提有り。 仏は得て即ち常と為す。
仏無くんば菩提無し。 得ざるときんば断滅せん。
仏を離れて菩提無し。 菩提を離れて仏無し。
若し一異ならば成ぜず。 云何が和合有らん。
凡そ諸の一切の法は 異を以っての故に合有り。
菩提は仏に異らず。 是の故に二にして合無し。
仏と及び菩提と、 異なれば共倶(とも)に成ぜず。
二を離れて更に三無し。 云何ぞ而も成ずることを得ん。
是の故に仏は寂滅なり。 菩提も亦寂滅なり。
是二、寂滅の故に、 一切皆寂滅なり。
「相を以って仏を見ず」とは、是れ菩薩無相の法を信解し、通達して是の念を作す。
一切若し無相なりといわば、 一切即ち相有らん。
寂滅は是れ無相なりといわば、 即ち是れ有相と為す。
若し無相法を観ぜば、 無相を即ち相と為す。
若し無相を修すと言はば、 即ち無相を修するには非ず。
若し諸の貪著を捨する 之を名づけて無相と為す。
是の捨貪の相を取らば 則ち解脱無しと為す。
凡そ取有るを以っての故に、 取に因って而も捨有り。
誰か取り、何事をか取る。 之を名づけて以って捨と為す。
取とは用いて取らるる(所取)と、 及以(および)取る可き(可取)法と
共に離れて倶に有ならず、 是れ皆寂滅と名づく。
若しは法相、因成、 是れを即ち無性と為す。
若し性有ること無くんば、 此れ即ち相有ること無し。
若しは法に性有ること無き、 此れ即ち無相ならば、
云何んぞ性無しと言はん。 即ち是れを無相と為す。
若し有と無とを用って 亦は遮し、亦は聴(ゆる)すべき、
心に著せずと言ふと雖も、 是れ則ち過(とが)有ること無し。
何処にか先ず法有って、 而も後に滅せざる者あらん。
何処にか先ず然ること有って、 而も後に滅する者有らん。
是の有相寂滅は、 無相寂滅に同じ。
是の故に寂滅の語あり。 及び寂滅の語とは、
先ず亦、寂滅に非ず、 亦、不寂滅に非ず、
亦、寂、不寂にも非ず、 寂、不寂に非ざるにも非ず。
是の菩薩、是の如く無相の慧に通達するが故に、疑悔有ること無し。色相を以って仏を見ず。受・想・行・識の相を以って仏を見ず。
見仏問答
問うて曰く。云何が色相を以って仏を見ず、受・想・行・識の相を持って仏を見ざるやと。
答へて曰く、色は是れ仏に非ず。受・想・行・識は是れ仏に非ず。色を離れて仏有るに非ず、受・想・行・識を離れて仏有るに非ず、仏に色有るに非ず、仏に受・想。行・識有るに非ず。色中に仏有るに非ず。受・想・行・識に中に仏有るに非ず。仏の中に色有るに非ず。仏の中に受・想・行・識有るに非ず。菩薩は此の五種の中に於いて相を取らざれば阿惟越致地に至ることを得と。
阿惟越致の相貎
問うて曰く、已に知りぬ、此の法を得る、是れ阿惟越致なりと。阿惟越致何の相貎か有るや。
答へて曰く、
般若已に広く、 阿惟越致の相を説く。
若くは菩薩、凡夫地・声聞地・辟支仏地・仏地を観ずるに、不二・不分別にして疑悔有ること無し。当に知るべし、是れ阿惟越致なり。阿惟越致は、言説する所有れば皆利益有り。他人の長短、好醜を観ず。外道沙門の所有る言説を悕望せず。知るべきことは即ち知り、見るべきことは便ち見て、余天を礼事せず。華香・幡蓋を以って供養せず。余師に宗事せず。悪道に堕せず。女身を受けず。常に自ら十善道を修し、亦た他をして行ぜしむ。*
常に善法を以って示教し、利喜して乃至夢中にも十善道を捨てず、十不善道を行せず。身口意業に種うる所の善根は、皆衆生を安楽にし度脱せんが為にす。所得の果報は衆生と共にす。若しは深法を聞いて疑悔を生ぜず、語言を少くして利安語・和悦語・柔軟語なり。眠睡を少くして行来、進止に心散乱せず。威儀庠雅に、憶念堅固にして、身に諸虫無く、衣服臥具浄潔にして垢無く、身心清浄、閑静にして少事なり。心諂曲せず、慳嫉を懐かず、利養・衣服・飲食・臥具・医薬・資生之物を貴ばず、深法の中に於いて諍競する所無し。一心に法を聴き、常に前に在らんと欲し、此の福徳を以って諸波羅蜜を具足す。
世の技術に於いて衆と殊絶し、一切の法は皆法性に順ずと観じて乃至悪魔が八大地獄を変現すとも、菩薩を化作して而も之に語りて言く、汝若し菩提心を捨てずんば、当に此の中に生ずべしと。是の怖畏を見て而も心に捨てず。
悪魔復た言く、摩訶衍経は仏の所説に非ずと。是の語を聞く時、心に異有ること無く、常に法相に依りて他に随わず。生死の苦悩に於いて而も驚畏無し。菩薩、阿僧祇劫に於いて善根を修集して而も退転する者を聞くとも、其の心、没せず。又、菩薩、退して阿羅漢と為り、諸の禅定を得て法を説き人を度すと聞くとも、心、亦、退せず。常に能く一切の魔事を覚知す。若し薩波若は空、大乗の十地も亦空、衆生を度す可くも亦空、諸法は所有無きこと亦、虚空の如しと聞くとも、若し是の如く其の心を惑乱して退転し、疲厭し、懈廃せしめんと欲すと聞くとも、而も是の菩薩倍精進を加えて深く慈悲を行ず。意、若し初禅、第二、第三、第四禅に入らんと欲しても而も禅に随って生ぜず、還って欲界の法を起こし。憍慢を除破して称讃を貴ばず、心に瞋礙無し。若し居家に在っても五欲に染著せず。厭離の心を以って受くること病に薬を服するが如し。
邪命を以って自活せず、自活の因縁を持って他を悩乱せず、但だ衆生に安楽を得しめんが為の故に居家に処在す。密迹金剛常に随って侍衛し、人及び非人も壊乱すること能はず。諸根具足して欠少する所無し。咒術・悪薬の人伏して物を害することを為さず。闘諍を好まず。自ら身を高うせず他人を卑まず、吉凶を占相せず、楽って衆事を説かず。所謂る帝王・臣民・国土・疆界。戦闘の器仗・衣物・酒食・女人の事、古昔の事、大海中の事、是の如き等の事、悉く楽って説かず。往いて歌舞伎楽を観聴せず、但だ楽って説いて諸波羅蜜の義に応じ、楽って説いて諸波羅蜜の法に応じ、増益を得しめて諸の闘訟を離れ常に見仏を見んことを願ふ。
他方、現在に仏有ることを聞きて願って往生せんと欲し、常に中国に生じて、終に自ら我は是れ阿惟越致なりや、阿惟越致に非ざるやを疑はず、決定して自ら是れ阿惟越致なりと知る。種種の魔事を覚りて而も随はず。乃至身を転じて声聞・辟支仏の心を生ぜず。乃至悪魔現じて仏身と作り、語って言く、汝応に阿羅漢を証すべし、我今汝が為に説法せん、即ち此の中に於いて阿羅漢を成ぜん、と。亦た信受せず。
護法の為の故に身命惜しまず、常に精進を行ず。若し法を説くの時、疑難有ること無く、闕失有ること無し。是の如き等の事を阿惟越致の相と名づく。能く此の相を成就する者は、当に知るべし是れ阿惟越致なり。或は未だ具足せざる者有り。何者か是れ久しからずして阿惟越致地に入るなりや。後の諸地に随って善根を修集し、随って善根転た深き故に、是の阿惟越致相を得。
十住毘婆沙論巻第四