自性唯心

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じしょう-ゆいしん

 万有はその本性についていえば、ただ心の変現にほかならないもので、自己の心以外に何ものもないとする聖道門の考え。

この立場より自己の心性を指して直ちに弥陀といい、この心を浄土であると主張する。聖道門の立場。(信巻 P.209, 講私記 P.1069)


 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)
 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社)
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自性唯心(自らの性は、ただ心のみ。)

 存在するすべての物はその本性についていえば、ただ心の変現にほかならないもので、自己の心以外に何ものもないとする考え。この立場より自己の心性を指して直ちに弥陀といい、その心を浄土であると主張する。  このように弥陀も浄土もともに自己の心の中にあることを「己心(こしん)の弥陀、唯心(ゆいしん)の浄土」、あるいは「己心の浄土、唯心の弥陀」という。御開山はこれを「信巻」別序で、

 しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。(信巻 P.209)

と、自性唯心であり、西方の真実の証(さとり)の世界である浄土を知らないからであると批判しておられる。
浄土門では、この世でのさとりの完成を目指す聖道門と違い、弥陀と浄土が自己の心の外に説かれることの、往生浄土の意義を重視するからである。→指方立相 (『浄土真宗辞典』より抜粋)

このような穢土と浄土の二元的な思想は、自身の煩悩を凝視せず、一元論の観念論に陥っていた本覚法門への批判でもあった。帰すべき浄土をもたない現代人や、浄土真宗の僧侶の中にも、このような輩は多い。

『竜舒増広浄土文』に於ける考察