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体・相・用

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

たい・そう・ゆう

 体とは、本体のこと。相とは、本来の性質あるいは性能の意。用とは、性質のもつ働きをさす。一般に仏教では、衆生の心の本体そのものとその性質、さらに作用とは広大無辺であるところから、体、相、用の三大という言葉が広く用いられている。(コトバンクでの記述)

上述の意は『大乗起信論』から。『大乗起信論』「立義分」では、大乗の大の意義を「体・相・用」の三義で示していた。→大乗起信論

所言義者、則有三種。云何為三。

所言(いわゆる)、義には、則ち三種有り。 云何んが三となすや。

一者大、謂一切法真如平等不増減故。

一には体が大なり、謂わく、一切の法の真如は平等にして増減せざるが故なり。

二者大、謂如来蔵[1]具足無量性功徳故。

二には相が大なり、謂わく、如来の蔵にして、無量の性功徳を具足するが故なり。

三者大、能生一切世間出世間善因果故。

三には用が大なり、能く一切の世間と出世間の善の因果を生ずるが故なり。

一切諸仏本所乗故。一切菩薩皆乗此法到如来地故。

一切の諸仏が(もと)乗ぜし所なるが故なり。一切の菩薩も皆此の法に乗じて如来地に到るが故なり。

と、体・相・用の意義を示してある。
御開山は「仏願の生起本末」という語を使われるのだが、阿弥陀仏の本願が「」であり、その実現の「」が生起であり、一切衆生をさとりの界(さかい)である浄土へ往生せしめる〔なんまんだぶ〕の法を本末の「末」とされたのであろう。

なお、法然聖人は『四箇条問答』(西方指南抄/中末)で、本願と名号と行者の体用を論じておられた。覚如上人はこの意を『執持鈔』で、

しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。 (執持鈔 P.864)

と、いわれていた。


  1. 如来蔵。如来にそなわる無量の功徳の意。 『仏性論』(大正蔵31巻795頁以下)では、如来蔵には、
    所摂蔵(しょしょうぞう) 衆生が如来に蔵せられている意。
    隠覆蔵(おんぷくぞう) 衆生が如来を蔵している意。
    能摂蔵(のうしょうぞう) 衆生が如来の果徳をすべて蔵している意、
    の三義が含まれていると説く。『勝鬘経』(大正蔵12巻221頁以下・677頁上)では、空如来蔵、不空如来蔵の二義を説き、空如来蔵は如来蔵には煩悩が空無であるという意、不空如来蔵には無量の性功徳がそなわる意であると説く。ここの用例は、能摂蔵や不空如来蔵の意味に相当する。『現代語訳-大乗起信論』池田魯参著の脚注より。