仏願の生起本末

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 ぶつがんのしょうきほんまつ

 仏が衆生救済の願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあること。(信巻 P.251)


 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)
 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社)
 区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


阿弥陀仏の名号いわれ仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。
仏願の本末とは、仏願の因果をいう意で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足しさとりを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。→聞即信(浄土真宗辞典)

『浄土論註』の上巻には、浄土の荘厳相を解釈するについて、

仏本(ぶつもと)この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、……畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。
このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。「成就」とは、いふこころは、この清浄は破壊すべからず、汚染すべからず。 三界の、これ汚染の相、これ破壊の相なるがごときにはあらず。 (論註 P.57)

と、浄土の三厳二十九種の荘厳相を、一々に仏願の生起(仏本)と、本末というかたちで述べられている。
また、御開山が第十八願の、至心、信楽、欲生の三心を釈するについても、

  • 機無(き-む) 衆生(機)には、清浄真実の心は全く無い。因位の阿弥陀仏(法蔵菩薩)が衆生をみそなわすに、煩悩成就の衆生には、生死を離れて仏となる因である清浄で真実な心は全く存在しないということ。
  • 円成(えん-じょう) 阿弥陀仏が衆生に代わって、兆載永劫に衆生を救うために清浄真実なる因(名号)を、(まどか)に成就されたこと。
  • 回施(え-せ) 阿弥陀仏が成就した、往生成仏の涅槃のさとりの因である功徳(名号)を、衆生に等しく回向し施して下さること。

と、仏願の生起(機無)、本(円成)、末(回施)というかたちであらわされておられる。→機無・円成・回施・成一

御開山は仏願の生起について『和讃』で、

如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向をとしたまひて
 大悲心をば成就せり (正像 P.606)

とされておられる。この句は『浄土論』の、

不捨一切苦悩衆生 心常作願 廻向為首 得成就大悲心故(一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに)。 (行巻 P.159で論註として引文)

の文を和讃されたものである。は、はじめ、 第一、中心という意であるから初めから回向なのである。深川倫雄和上はこの意を阿弥陀さまの本願の材料はオマエなんだよ。オマエを材料にしてお前の苦悩をを元にご本願が建てられたのだよ、だからオマエは本願の中身なんだよ、と仏願の生起を示して下さった。家内の好きな柿羊羹の法話である。→柿羊羹の中身は皆柿羊羹仏力を談ず

なお、三心釈では「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」 (信巻 P.232) とし、「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」(信巻 P.235) と、信楽の体は至心(名号)であるとされておられる。
この意味において、本願成就文の、

あらゆる衆生、その名号をきて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。 (大経 P.41)

の「その名号を聞きて」を御開山は、

しかるに『経』に聞といふは、衆生、仏願の生起本末をきて疑心あることなし、これを聞といふなり。 (信巻 P.251)

とされておられるので「仏願の生起本末」とは、阿弥陀仏の名号いわれを疑いを雑えないで本願を聞き受けている「無疑心」である。これが第十八願の、至心・信楽・欲生の三心を信楽の一心におさめた本願力回向の「大信」であり、乃至十念の称名の「大行」であった。
この意を我々に教え示されたのが法然聖人のいわれた、

「その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり」(三部経大意)

の第十七願であった。御開山は、釈尊はその第十七願に応じて、

「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」(教巻 P.135)

の『大無量寿経』を説かれたと領解されたのであった。『大無量寿経』は、本願を「宗」とし、なんまんだぶを「体」とする経典であった。御開山が「正信念仏偈」釈迦章で「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり(如来所以興出世 唯説弥陀本願海)」と讃嘆された所以である。これが仏願の生起本末の末(果)として衆生を済度しつつある、なんまんだぶであった。