聖光房
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(弁長から転送)しょうこうぼう
(1162-1238)字は
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- →鎮西
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:聖光
しょうこう/聖光
応保二年(一一六二)五月六日—嘉禎四年(一二三八)閏二月二九日。浄土宗二祖。諱は弁長、字は弁阿、号は聖光房。鎮西上人、筑紫上人、善導寺上人ともいう。
[修行時代]
筑前香月城主の弟、香月弾正左衛門則茂の子として生まれる。誕生地は現在の誕生山吉祥寺(北九州市八幡西区吉祥寺町)。嘉応二年(一一七〇)九月、九歳で出家し聖光房弁長となる。安元元年(一一七五)受戒し、以後八ヶ年、白岩寺の唯心、明星寺の常寂について学ぶ。寿永二年(一一八三)二二歳で比叡山に登り、東塔南谷の観叡の室に入り、のち東塔東谷の宝地房証真の下で学ぶ。足掛け八年の功成り、帰国して建久二年(一一九一)三〇歳で僧坊三六〇を擁する油山(福岡市西南七キロ)の学頭となる。三二歳のとき明星寺を訪ね、異母弟三明房の突然の悶絶に遭い、仏道本来の役割を考えさせられる。その後推されて明星寺五重塔再建の勧進となり、爾来三ヶ年各地を回ってこれを完成させ、同八年三六歳のとき、本尊制作のため上洛し仏師康慶に依頼する。
[法然との邂逅]
完成までの数ヶ月、康慶工房の離れ(現在の京都市下京区寺町の聖光寺の地)で待つ間、東山吉水(現在の知恩院の地)に法然を訪ね、仏道本来の姿に目覚め、以後三ヶ月、片時も座下を離れずに法を聞いた。その後一旦帰国し、建久一〇年(一一九九)再度上洛。この年『選択集』を付与された。法然の下で学ぶこと前後八年に及んだが、元久元年(一二〇四)八月、山門が蜂起し、専修念仏の停止を訴え、法然は事件の拡大と念仏教団の将来をおもんぱかり、帰るべき故郷のある者には帰国を促した。
[鎮西の教化]
心ならずも帰国した聖光の耳に、建永の法難(一二〇七)で法然が流罪となった知らせが聞こえてきた。この頃、聖光は高良山の麓の厨寺(福岡県久留米市安養寺)で一千日別時念仏を行った際、天台・真言僧の抵抗があったが、かえって彼らを教化し、無事満行した。これが鎮西での浄土教教化の第一歩となった。承元四年(一二一〇)以後、国司草野要阿・作阿夫妻が、善導寺(もと光明寺)を改築し外護者となる。聖光は筑前・筑後・肥後にまで足を延ばし、寺院を建立しては念仏の布教を図り、その数四八箇寺といわれる。筑前では吉祥寺、博多の善導寺、光明寺、本誓寺、極楽寺、筑後では現在の大本山善導寺、陽善寺、安養寺、天福寺、地福寺、光明寺、無量寿院、常念寺、肥後の往生院、五福寺、三宝院、西光院などである。安貞二年(一二二八)一〇月、衆徒二十余人とともに肥後往生院(熊本)で四八日の別時念仏を行い、この間に『授手印』を撰述し、聖護・生極楽・唯称・円阿・綽阿に授与した。伝宗第二重の巻物である。本文に聖光教学を六重二二件(五種正行・正助二行・三心・五念門・四修・三種行儀とその件数)で示し、それらは南無阿弥陀仏の一行に帰すると結帰一行説を述べ、裏書に一念義、西山義、寂光土義の三義を「善導の御釈に相応せず」(聖典五・四〇/浄全一〇・一一・上)と破斥している。
[法灯を継ぐ]
安貞二年一一月、弟子の入阿に「鎮西相伝一枚起請文」を与え、寛喜二年(一二三〇)に『阿弥陀経』一巻を著し「臨終の持経に擬す」と述べている。嘉禎二年(一二三六)に、後に浄土宗三祖となる良忠が入門。翌三年に浄土宗の論題八〇題を問答形式で講述し、それを良忠が筆記し『西宗要』六巻とした。この年、「私の勘文」を加えた聖光教学を示す主著である『徹選択集』二巻を著した。この他に『念仏名義集』三巻、『念仏三心要集』一巻、『浄土宗名目問答』三巻などがあり、近年『念仏往生修行門』が発見された。現存しない著作に『物語集』などがある。弟子は『総系譜』に、宗円を筆頭に行仙・持願・入阿など四二名の名を挙げている。中でも良忠は同三年に『授手印』を授与され、八月一日璽書を受け「弁阿相承の義」を授けられ、石見に帰国した。聖光は翌四年閏二月二九日、七七歳で入寂した。文政一〇年(一八二七)一一月、大紹正宗国師の号を賜った。
【資料】『四十八巻伝』四六(聖典六)、道光『聖光上人伝』(浄全一七)
【参考】梶村昇『弁長』(『浄土仏教の思想』一〇、講談社、一九九二)
【参照項目】➡結帰一行三昧
【執筆者:梶村昇】