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往生拾因

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 平安後期の僧で三論宗の永観(ようかん)(1033~1111)の撰になる。1103年(康和5)の成立と伝える。永観は白河院の要請で康和2(1100)年に東大寺の別当となったので東大寺永観とも呼称される。この『往生拾因』は、念仏の一行は十種の因あるがゆえに、一心に称名念仏すれば必ず往生を得ることを十項目にわたって述べる。念仏は行住坐臥を妨げず、極楽は道俗貴賤を選ばず、衆生の罪もひとしく救済されると説き、これを〈念仏宗〉と称したという。法然聖人は、『無量寿経釈』において、「補助善導之義者此有七家{中略}五源信六永觀七珍海」(善導の義を補助せば是に七家有り。五には源信、六には永觀、七には珍海)と、永観師の名を名をあげておられ、法然聖人の専修念仏思想の先駆として注目される。
『改邪鈔』には「われはこれ賀古の教信沙弥[この沙弥のやう、禅林の永観の『十因』にみえたり]の定なり」(改邪鈔 P.921)とあり、この『往生拾因』に教信沙弥の逸話が記述されている。
なお、親鸞聖人はこの書を「信巻」(末)の末尾で五逆の説明に引文されておられる。


往生拾因

念仏宗 永観集

夫出離之正道其行非一。西方之要路末代有縁。

それ出離の正道、その行一に非ざれども、西方の要路は末代に縁有り。

然貪著於名利発心惟難。馳騁於四方坐禅無人。

然るを名利に貪著し発心すること()れ難く、四方に馳騁して坐禅[1]するに人無し。

嗟乎去去不来盛年 残日稍闌。来来無去衰 齢余年復幾。

ああ、去り去りて来らざるは盛年なり、残らん日の(やや)(たけ)たり。来り来りて去ること無きは衰へたる(よわい)、余年の()(いくばく)ぞや。

是以澄心於小水魚。歎露命日日減。係念於屠処羊。悲無常之歩歩近。況乎世間春来 夢栄華何実。人身水上漚浮生誰留。隠山海仙未免無常之悲。

ここを以つて心を澄し、小水の魚に、露命の日日に減ずることを歎き[2]、屠処の羊に念を係けて、無常の歩歩に近づくことを悲む。(いわ)んや世間は春来の夢、栄華何んぞ実ならん。人身は水上の(あわ)、浮生誰か留まらん。山海に隠れし仙もまた無常の悲を免れず。

籠石室人 終遭別離之歎。実一生仮棲 豈期永代乎。而今倩思 受何病招何死哉。重病悪死一何痛哉。

石室に籠りし人も、(つい)に別離の歎きに遭へり。実に一生は仮の(すみか)()に永代を期せんや。而るに今(つらつら)思ふに、何の病を受け何の死を招かんや。重病と悪死と一、何んぞ痛まんや。

雪山不死薬験失。耆婆医王方術尽。無常暴風不論神仙。奪精猛鬼不択貴賤。生死必然。誰人得免。

雪山不死の薬も験を失し、耆婆医王の方も術尽きぬ。無常の暴風は神仙をも論ぜず。奪精の猛鬼は貴賤を択ばず。生死必然なり。誰の人か免れることを得ん。

『荘厳論』云。若人臨終喘気麁出。喉舌乾燋不能下水。言語不了視瞻不端。筋脈断絶刀風解形。支節舒緩。機関止廃不能動転。挙体酸痛如被針剌。命尽終時見大黒闇。如墜深岸。独遊(逝)曠野無有伴侶。已上

『荘厳論』に云く。もし人臨終に喘気(あら)く出で、喉舌乾き(こが)れて水を下すことあたわず。言語不了にして視瞻、(ただ)しからず。筋脈断絶し刀風形を解き。支節舒緩し、機関止廃して動転することあたわず。挙体酸痛すること針に剌さるるが如し。命尽き終る時、大黒闇を見る。深岸より墜するが如し。独り曠野に逝きて伴侶あることなし。已上

然則形無常主。只有守屍之鬼。神無常家。独跰中有之旅。悲哉冥冥独遊(逝)一人不従。重重被嘖誰訪是非。何況一堕悪趣受苦無窮乎。誠出離之行誰不励之哉。

然れば則ち形に常の主無し。只屍を守るこの鬼のみ有り。(たましい)に常の家無し。独り中有の旅に(さまよ)ふ。悲哉(かなしきかな)、冥冥として独り逝くに一人としても従わず。重重たる嘖めを(こうむ)れども、誰か是非を訪ん。何に況や一たび悪趣に堕せば受苦無窮なるおや。誠に出離の行、誰かこれを励まんや。

幸今値弥陀願。如渡得船。如民得王。巨石置舟 過大海於万里。蚊虻附鳳 翔蒼天於九空。況乎行者至誠 相応本願。然日月如走冥途在近。若競余日不勤者 遇浄土教又何時。早抛万事速求一心。

幸ひに今、弥陀の願に(もうあえ)り。渡りに船を得たるがごとく、民の王を得るが如し。巨石も舟に置きぬれば、大海を万里に過ぎ、蚊虻も(おおとり)に附きぬれば、蒼天を九空に翔けるや。況んや、行者誠を至して、本願に相応せんをや。然るに日月走るが如く冥途近きに在り。若し余日を競つて勤めざれば、浄土の教に遇いて又何の時にぞ、早く万事を(なげう)つて(すみやか)に一心を求めよ。

依道綽之遺誡 火急称名。順懐感之旧儀 励声念仏。有時五体投地称念。有時合掌当額専念。凡厥一切時処一心称念。依於小縁不退大事。難値一遇。豈惜身命。

道綽の遺誡に依つて火急に称名し、懐感の旧儀に順じて励声に念仏し、有時は五体を地に投げて称念し、有時は合掌して額に当てて専念せよ。凡そ()れ一切の時処に一心に称念すべし。小縁に依つて大事を退せざれ。()い難くして一たび()へり。()に身命を惜しまんや。

 念仏一行開 為十因。

念仏の一行を開きて十因と為す。

  一 広大善根故
  二 衆罪消滅故
  三 宿縁深厚故
  四 光明摂取故
  五 聖衆護持故
  六 極楽化主故
  七 三業相応故
  八 三昧発得故
  九 法身同体故
  十 随順本願故

一 広大善根故

第一、一心称念阿弥陀仏広大善根故必得往生。

第一に、一心に阿弥陀仏を称念すれば広大の善根なるが故に必ず往生を得。

『阿弥陀経』云。不可以少善根得生彼国。若有善男子善女人。聞説阿弥陀仏執持名号。若一日若二日乃至七日一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏与諸聖衆現在其前。是人終時心不顛倒即得往生。 已上

『阿弥陀経』に云く。少善根をもつてかの国に生ずることを得べからず。もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち往生することを得。 已上

問。設使心専只念仏名。未為大善。那得往生。

問ふ。たとひ心をして専らならしむとも、ただ仏名を念ず。未だ大善と為さず。那(なん)ぞ往生することをを得ん。

答。『称讃浄土経』云。得聞如是無量寿仏 無量無辺不可思議功徳名号等。已上

答ふ。『称讃浄土経』に云く。是の如きの無量寿仏の無量無辺不可思議功徳の名号を聞くことを得る等。已上

『西方要決』云。諸仏願行成此果名。但能念号 具包衆徳。故成大善不廃往生。已上

『西方要決』云く。諸仏は願行をもて、此の果名を成ずれば、但だ能く号(みな)を念ずれば、具(つぶさ)に衆(もろもろ)の徳を包(か)ねたり。故に大善を成じ、往生を廃せず。 已上

故知。弥陀名号之中 即彼如来従初発心 乃至仏果 所有一切万行万徳皆悉具足無有欠減。

故に知んぬ。弥陀の名号の中に即ち彼の如来 初発心より乃至仏果まで、所有(あらゆる)一切の万行万徳、みな悉く具足して欠減有ること無し。

非唯弥陀一仏功徳。亦摂十方諸仏功徳。以一切如来 不離阿字故。因此念仏者 諸仏所護念。今此仏号 文字雖少 具足衆徳。

唯だ弥陀一仏の功徳のみに非ず。また十方諸仏の功徳を摂す。一切の如来は、阿字を離れざるを以ての故に、これに因(よ)つて念仏の者は、諸仏に護念せらるる所なり。今この仏号は文字少しと雖ども衆徳を具足す。

如如意珠 形体雖少 雨無量財。何況四十二字功徳円融無礙。一字各摂諸字功徳。阿弥陀名如是。無量不可思議功徳合成。一称南無阿弥陀仏 即成広大無尽善根。如彼丸香僅焼一分衆香芬馥。亦如大網少牽一目、諸目振動。

如意珠の形体少(ちい)さしと雖ども無量の財を雨ふらすが如し。何に況んや四十二字の功徳円融無礙にして、一字に各諸字の功徳を摂す。阿弥陀の名も是の如し。無量不可思議の功徳を合成せり。一(ひと)たび南無阿弥陀仏を称せば、即ち広大無尽の善根を成ず。彼の丸香の僅かに一分を焼けば衆香芬馥するが如し。また大網の少しく一目を牽くに、諸目振動するが如し。

故『双観経』云。其有得聞彼仏名号 歓喜踊躍乃至一念。当知此人為得大利。即是具足無上功徳。已上

故に『双観経』に云く。それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。 已上

凡夫行者煩悩胎中一称南無阿弥陀仏、此一音声 勝余音声 如頻伽卵声、勝衆鳥。

凡夫行者、煩悩の胎の中にして南無阿弥陀仏と一称するに、この一音声の余の音声に勝れること、頻伽卵にして声、衆鳥に勝るが如し。

問。善悪諸業熏習所成。設雖衆徳具足、名号一念何得無上功徳。

問ふ。善悪の諸業熏習して成ずる所なり。たとひ衆徳具足の名号なりと雖ども一念に何ぞ無上の功徳を得ん。

答。未必可然、於彼八十万億那由他劫、為阿耨菩提、行前五波羅蜜功徳、比聞寿量 一念功徳、千万億分不及其一。

答ふ。未だ必しも然るべからず、彼の八十万億那由他劫に於いて、阿耨菩提の為に、前五波羅蜜を行ずる功徳を、寿量を聞く一念の功徳に比せんに、千万億分にしてその一に及ばず。

故彼偈説。又於無数劫住於空閑処。若坐若経行除睡常摂心。以是因縁故能生諸禅定。八十億万劫安住 心不乱 {挙一略余} 有善男女等聞我説寿命。乃至一念信其福過於彼。已上

故に彼の偈に説かく。また無数劫に於いて空閑処に住し、もしは坐、もしは経行して睡を除き常に心を摂す。この因縁を以つての故に能く諸の禅定を生ず。八十億万劫安住して、心乱れず{一を挙へて余を略す} 善男女等有りて我が寿命を説くを聞きて、乃至一念も信ぜばその福、彼に過ぎたり。已上

一指剪時五体不安。一念信発万善自動。是以功徳勝劣 不由時劫長短。釈尊寿命功徳如是。無量寿仏功徳何別。

一指剪る時、五体安からず。一念の信発れば万善自動す。これを以つて功徳の勝劣は時劫の長短に由らず。釈尊の寿命の功徳 是の如し。無量寿仏の功徳何んぞ別ならん。

故『阿弥陀思惟経』云。若転輪王千万歳中 満四天下七宝布施十方諸仏。不如苾芻 苾芻尼 優婆塞 優婆夷 一弾指頃坐禅以平等心。憐愍一切衆生念阿弥陀仏功徳。已上

故に『阿弥陀思惟経』に云く。もし転輪王 千万歳の中に、四天下に満ちる七宝を、十方の諸仏に布施せんよりは、苾芻・苾芻尼・優婆塞・優婆夷、一弾指の頃だ坐禅して平等心を以つて、一切衆生を憐愍して阿弥陀仏の功徳を念ぜんにはしかず。已上

故経説下輩云。乃至一念念於彼仏。以至誠心願生其国。此人臨終夢見彼仏亦得往生。已上

故に経(無量寿経下)に下輩を説きて云く。乃至一念も彼の仏を念じて、至誠心を以てその国に生ぜんんと願ずれば、この人臨終に夢に彼の仏を見たてまつり、また往生を得。已上

是故弥陀一念功徳 深広無際。如来広説不能窮尽。不爾何因速得往生。一念尚爾。況十念乎。況復一日七日念乎。何況一生不退念乎。

この故に弥陀一念の功徳、深広無際にして、如来広く説きたまへるも窮尽すること能わず。爾らざらんは何に因てか速に往生することをを得ん。一念なお爾り。況んや十念をや。況んやまた一日七日の念をや。何に況んや一生の不退の念をや。

彼千手観音 説円満陀羅尼。先勧念本師弥陀。普賢大士現行禅師道場 同教念阿弥陀仏。実知。弥陀名号殆過大陀羅尼之徳。

彼の千手観音は、円満陀羅尼を説きて、先ず本師弥陀を念ぜよと勧む。普賢大士は行禅師の道場に現じて同じく阿弥陀仏を念ずるを教ふ。実に知ぬ。弥陀の名号は殆(ほと)んど大陀羅尼の徳にも過ぎたり。

又勝法華三昧之行。故但称仏名直至道場。況往生浄土豈有留難。我等有何宿善 幸今値此仏号。無上功徳不求自得。浄土之業便以為足。当知 人中芬陀利華。依之十方恒沙諸仏出広長舌各垂勧進。是表実語。可取仰信。

また法華三昧の行にも勝れたり。故に但だ仏名を称すれば直ちに道場に至る。況んや浄土に往生せんに豈に留難有らんや。我等、何(いか)なる宿善有りてか、幸ひに今この仏号に値へり。無上の功徳求ざるに自ら得たり。浄土の業便(すなわ)ち以て足と為す。
当に知るべし、人中の芬陀利華ということを。これに依て十方恒沙の諸仏は広長舌を出して各勧進を垂れたまふ。これ実語を表するなり。仰信を取るべし。

彼鷲峯妙法多宝一仏証明。又王城金典 四方四仏倶説。凡厥処処集会道場 不如今説舌相証誠之盛矣。設雖彼伏怨世界疑惑者。豈不信受哉。是故双林決断之筵。於浄土一門更無疑決矣。

彼の鷲峯の妙法は多宝一仏証明す。また王城の金典は四方四仏倶に説く。凡そ厥れ処処の集会の道場も。今の説の舌相証誠の盛なるにはしかず。たとひ彼の伏怨世界の疑惑の者なりと雖ども、豈に信受せざらんや。是の故に双林決断の筵に浄土の一門に於て更に疑決無し。

如『大論』云。婆羅門城王 作制限法。若有与仏食、聴仏語者、輸五百金銭。其後仏到其国、入城乞食、衆人閉門。鉢空而帰。是時有一老女。持破瓦器盛臭潘涳。出門将棄。見仏鉢空漸来。思惟。如是神人降身 行乞愍一切故。信心清浄慚愧白仏。且欲設供更不能得。今此弊食須者可取。仏知其心 受其施食微笑。出五色光普照天地。告阿難言。是老女施仏食故、十五劫間天上人中受福。快楽後得男身、出家学道成辟支仏。

『大論』に云ふが如きんば、婆羅門城の王、制限の法作せり。もし仏に食を与へ、仏語を聴く者有らば、五百の金銭を輸(いた)さしめんと。その後、仏其の国に到りて、城に入りて乞食たまふも、衆人門を閉づ。鉢を空にして帰たまふ。その時一りの老女有り。破れた瓦器を持ちて臭き潘涳を盛りて、門を出でて将に棄てんとす。仏の鉢の空にして漸く来るを見て、思惟すらく。是の如きの神人身を降(くだ)して乞を行ずることは一切を愍れみたまふが故ならん。信心清浄にして慚愧して仏に白さく。しばらく供を設せんと欲すれども更に得ること能わず。今この弊食を須(もち)ひたまはば取りたまふべし。仏その心を知りて、その施食を受けて微笑す。五色の光を出して普く天地を照らして、阿難に告げて言く。この老女、仏に食を施するが故に、十五劫の間天上人中に福を受け快楽にして、後に男身を得て、出家学道して辟支仏と成るべし。


爾時仏辺婆羅門立説偈言、汝是日種 刹利性、浄飯国王之太子。而以食故大妄語、如是臭食報何重。是時世尊出広長舌、覆面上至髪際。時婆羅門忽然合掌白仏。若人舌能覆鼻言不虚妄、何況髪際。心開意解、五体投地、悔過甚深。時仏為種種説法、得初道果。即挙手大声言、一切衆人甘露門開、如何不出。

爾の時、仏辺に婆羅門立ちて偈を説きて言く、汝は是れ日種刹利性、浄飯国王の太子なり。しかるに食を以ての故に大妄語す、是の如きの臭食の報何ぞ重からん。是の時に世尊、広長の舌を出して、面上を覆つて髪際に至らしむ。時に婆羅門忽然として合掌して仏に白さく。もし人舌能く鼻を覆へば言ふこと虚妄ならず、何に況んや髪際をや。心に意解を開きて、五体を地に投じて、過を悔いること甚だ深し。時に仏、為に種種に説法したまふのとき、初の道果を得て、即ち手を挙げて大声に言ふ、一切衆人甘露門開けぬ、如何(いかなる)か出でざると。

城中一切婆羅門、皆送五百金銭。与王迎仏供養。破制限法永帰仏法。{略抄}

城中の一切の婆羅門、皆な五百金銭を送りて王に与へて、仏を迎へて供養したまへり。制限の法を破りて永く仏法に帰す。{略抄}

予抄此文 翰与涙倶。其証小事 釈尊独至舌相於髪際。今説大事 諸仏遍 覆長舌於大千。彼婆羅門城王、尚翻邪見、帰仏法。何況念仏行者、誰不信受哉。
又彼妙良薬、施一病比丘。或孝養父母、奉仕師長。或一日一夜、持八斎戒、持沙弥戒。此等世善、尚得往生。何況得聞阿弥陀仏 不可思議功徳名号 一心称念。引彼麁善、況此妙因、練磨自心深生信解。

予この文を抄するに、翰(ふで)涙と倶なり。其の小事を証するに、釈尊独り舌相を髪際に至らしめん。今大事を説くに諸仏遍く長舌を大千に覆いて、彼の婆羅門城の王、なお邪見を翻して仏法に帰す。何に況んや念仏の行者、誰か信受せざらんや。
また彼の妙良薬を、一りの病比丘に施して、或いは父母に孝養し、師長に奉仕し、或いは一日一夜、八斎戒を持し、沙弥戒を持つ。これ等の世善、なお往生を得。何に況んや、阿弥陀仏の不可思議功徳の名号を聞くことを得て、一心に称念せんをや。彼の麁善を引きて、この妙因に況す、自心を練磨して深く信解を生ず。

疑者云。如前所引教理 雖然疑念難絶。是即非他、罪業之身忽生浄土。

疑者の云ふ。前の所引の如きんば教理、然りと雖ども疑念絶へ難し。是れ即ち他に非ず、罪業の身忽ちに浄土に生ぜんや。

仁所疑執 罪業身者、為過去業 為今生業。若疑宿業者 何受難、受之人身。又値 難値之仏法。若有重罪、人身尚難、何況仏法。

なんじが疑執する所の罪業身とは、過去の業とやせん、今生の業とかせん。もし宿業を疑はば、何ぞ受け難きの人身を受け、また値い難きの仏法に値ひ、もし重罪有らば、人身すらなお難し、何に況んや仏法をや。

疑者云。雖有重罪、由人業勝 悪不能遮。人報已尽 苦果当受。

疑者の云く。重罪有ると雖ども、人業勝れたるに由つて悪遮することあたわず。人報已に尽きなば苦果当に受くべし。

今聞仁疑、返更増信。彼人趣業、悪尚不遮。何況浄土業、若疑現業者、造五逆者 具足十念滅罪得往。何況余罪。

今なんじが疑を聞きて、返て更に信を増しぬ。彼の人趣の業すら、悪なお遮せず。何に況んや浄土の業をや。もし現業を疑はば、五逆を造れる者も、十念を具足すれば罪を滅し往くことを得。何に況んや余罪をや。

疑者云。彼造逆者 由宿善強、臨命終時、遇善知識 具足十念即得往生。

疑者の云く。彼の造逆の者は宿善の強きに由つて、命終の時に臨みて、善知識に遇ひ十念を具足して即ち往生を得。

又由仁疑 弥以増信。逆者十念宿善尚強、何況一生不退念仏。故『念仏三昧経』云。若有善男子善女人 聞此念仏三昧名者。当知彼人非唯二三四五如来所乃至無量阿僧祇如来 所種諸善根。已過無量阿僧祇。爾許如来所種諸善根。厚集功徳。而獲聞此三昧王名字少分。何況受持読誦。如法修行為多人説。{略抄}

またなんじの疑いに由て弥(いよいよ)以つて増信せん。逆者の十念は宿善なお強し、何に況んや一生不退の念仏をや。故に『念仏三昧経』に云く。もし善男子善女人有りてこの念仏三昧の名を聞かん者は、当に知るべし、彼の人は唯だ二三四五の如来の所(みもと)と乃至無量の阿僧祇の如来の所にして諸の善根を種うるのみに非ず。已に無量阿僧祇を過ぎて、爾許の如来の所にて諸の善根を種へて、厚く功徳を集めて、またこの三昧王の名字の少分を聞くことを獲。何に況んや受持し読誦し、法の如く修行して多人の為に説かんをや。{略抄}

又下賤貧人獲一瑞物而以貢王。王慶重賞忽為富貴。豈疑貧賤不為富貴哉。世間瑞物其功尚爾。何況弥陀宝号功徳。是故行者不応自疑。

また下賤の貧人、一の瑞物を獲て以て王に貢る。王慶びて重く賞し忽ちに富貴と為す。豈に貧賤の富貴と為らずと疑はんや。世間の瑞物すら其の功なお(しか)り。何に況んや弥陀の宝号の功徳をや。是に故に行者まさに自から疑ふべからず。


又五不思議中仏法最不思議。仏法中弥陀名号殊不可思議。豈以思議心測不可思議法。勿以愚夫智 疑如来境界。道登四果尚忘珠於衣裏。位高十地猶隔月於羅穀。況薄地凡夫乎。況底下異生乎。嗟呼哀哉。疑覆大千之誠言。信愚小心之臆説。爰有疑者忽然開悟。合掌巻舌流涙。

また五不思議の中に仏法最も不思議なり。仏法の中には弥陀の名号殊に不可思議なり。豈に思議の心を以て不可思議の法を測らん。愚夫の智を以て如来の境界を疑ふ(なか)れ。道四果に登るすらなお珠を衣裏に忘れ。位を十地に高きすら猶お月を羅穀に隔つ。況んや薄地の凡夫をや。況んや底下の異生をや。ああ哀しきかな。大千を覆ふの誠言を疑いて。愚か小心の臆説を信ずること、こに疑者有りて忽然として開悟し、合掌して舌を巻き涙を流す。

予即為教『鼓音経』文云。若能深信無狐疑者 必得往生阿弥陀仏国 已上

予、即ち為に『鼓音経』の文を教へて云く。もし能く深く信じて狐疑無き者は、必ず阿弥陀仏国に往生することを得。 已上

実疑心懈怠往生之重障。若得信精進自具念定慧。念仏是念。一心是定。厭穢欣浄即是智慧。五根既立。豈留六道乎。

実に疑心懈怠は往生の重障なり。もし信精進を得ば自ら念定慧を具す。念仏は是れ念なり。一心は是れ定なり。穢を厭ひ浄を欣ふ即ち是れ智慧なり。五根既に立す。豈に六道に留まらんや。

又防護三業而不放逸是戒心也。是護心也。願求浄土是願心也。念仏功徳迴向菩提施与衆生是施心也。是迴向心也。既具菩薩十信。盍昇九品蓮台哉。

また三業を防護し而も放逸せざるは是れ戒心なり。是れ護心なり。浄土を願求するは是れ願心なり。念仏の功徳を菩提に迴向し衆生に施与するは是れ施心なり。是れ迴向心なり。既に菩薩の十信を具す。盍(なん)ぞ九品の蓮台に昇らざる。

夫未出三有火宅雖朝暮之悲歎。今値大善名号是一生之大慶。豈不棄衆事念仏号哉。若今生空過。出離何時。伝聞有聖。念仏為業専惜寸分。若人来謂自他要事。聖人陳曰。今有火急事既逼於旦暮。塞耳念仏終得往生。是故寤寐称念片時不懈 無間修也。六時礼敬四儀不背 恭敬修也、念仏為宗不雑余業 無余修也。終無退転畢命為期 長時修也。念仏一行既具四修。往生之業何事如之。

それ未だ三有の火宅を出でざるは朝暮の悲歎と雖ども、今大善の名号に値へり。是れ一生の大慶なり。豈に衆事を棄てて仏号を念ぜざらんや。もし今生空く過す。出離何れの時ぞ。伝へて聞く聖り有あり。念仏を業と為し専ら寸分を惜む。もし人来て自他の要事を謂へば、聖人陳て曰く。今、火急の事有りて既に旦暮に逼れり。耳を塞ぎて念仏して終りて往生を得たり。是の故に寤寐に称念して片時も懈(おこた)らず{無間修也}、六時に礼敬して四儀に背かず{恭敬修也}、念仏を宗と為し余業を雑へず{無余修也}、終に退転無し畢命を期と為す{長時修也}。念仏の一行に既に四修を具す。往生の業何事かこれに如かん。

『般舟経』云。時有跋陀和菩薩。於此国土聞有阿弥陀仏数数係念。因是念故見阿弥陀仏。即従啓問。当行何法得生彼国。爾時阿弥陀仏語是菩薩言。欲来生我国者。常念我名数数専念莫有休息。如是得来生我国土 。 已上

『般舟経』に云く。時に跋陀和菩薩有り。この国土に於いて阿弥陀仏有(いま)すことを聞きて、数数に係念す。是の念に因るが故に阿弥陀仏を見て、即ち従つて啓問す。当に何の法を行じてんか彼の国に生ことを得べし。爾の時、阿弥陀仏是の菩薩に語りて言く、我が国に来生せんと欲せば、常に我が名を念ずべしし、数数専念し休息有ること莫れ、是の如しは我が国土に来生することを得ん。 已上

是故一切時処一心称念。昼夜寤寐勿有間断。

是の故に一切の時処に一心に称念して、昼夜寤寐に間断有ること勿れ。

問。凡夫行者心如野馬。専念仏名何得無間。

問ふ。凡夫の行者心ず野馬の如し、仏名を専念するに何んが無間を得ん。

答。誰言初心行者全不雑起余念。導和尚云。若貪瞋等煩悩来間随犯随懺。不隔念隔時隔日。常使清浄亦名無間修。 已上

答ふ。誰か言く初心の行者全く余念を雑起せざれとは。導和尚の云く、もし貪瞋等の煩悩来り間へば犯すに随いて随いて懺じて、念を隔て時を隔て日を隔てず、常に清浄ならしむを、また無間修と名づく。 已上

教信沙弥の逸話

又為散乱人観法難成。大聖悲憐勧称名行。称名易故 相続自念昼夜不休。豈非無間乎。又不簡身浄不浄。不論心専不専。称名不絶必得往生。運心日久引接何疑。又恒所作是定業故。依之但念仏者往生浄土其証非一。

また散乱の人の観法成じ難きが為に、大聖悲憐して称名の行を勧めたまふ。称名は易きが故に相続し自念して昼夜に休まず、豈に無間に非ずや。また身の浄・不浄を簡ばず、心の専・不専を論ぜず、称名絶えざれば必ず往生を得。運心、日久しくば何ぞ引接を疑わん。また恒(つね)の所作は是れ定業なるがゆえに、これに依つてただ念仏者、浄土に往生す、その証一にあらず。

如彼播州 沙弥教信等之其仁也。

かの播州の沙弥教信等これその仁(ひと)なり。

本朝孝謙天皇御宇。摂津国 郡摂使 左衛門府生 時原佐通妻者。出羽国総大判官代 藤原栄家女也。

本朝孝謙天皇の御宇。摂津の国の郡摂使 左衛門の府生時原の佐通の妻は、出羽の国の総大判官代 藤原栄家が女(むすめ)なり。

然而年来歎無子息。毎月十五日沐浴潔斎。往詣寺塔 祈乞男子。経三箇年既以懐妊。天応元年{辛酉}四月五日平産男子。而児已及七歳母不事家業。有愁嘆色。

然るに年来、子息無きことを歎きて、毎月十五日に沐浴潔斎し、寺塔に往詣して男子を祈乞す。三箇年をへて既に以つて懐妊す。天応元年{辛酉}四月五日男子を平産す。しかるに児すでに七歳に及びて、母家業を事とせず。愁嘆の色あり。

夫奇問云。仁何有不例気色乎。

夫、奇(あや)み問いて云く。仁(なんじ)何んぞ不例の気色あるや。

妻答云。生子漸以成長。至于今者 欲 為尼 偏念仏。然而順夫之身思徒送日。

妻、答えて云く。生子、漸(よう)やく以つて成長せり。今に至りては、尼の為とて偏に念仏せんと欲す。然れども夫に順ふの身と思いながら徒(いたずら)に日を送れりと。

夫聞是語云。仁所思尤然。我同剃髪共可念仏。於児童者談付他人。児耳聞之。瞻面浮涙。自此以後已止遊戯。

夫、是の語を聞きて云く。仁(なんじ)が思ふところ尤も然なり。我も同く髪を剃りて共に念仏すべし。児童においては他人に談(かたら)い付けん。児これを耳に聞きて、面をあおぎみて涙を浮ぶ。此れより以後已に遊戯を止む。

明朝乞食僧立於門外。家女悦以請入供養即乞出家。
僧云。未至衰老。不臨病患。今求出家。是為最上之善根。
聞此弥以喜悦。夫妻共剃頭。時年夫四十一 妻三十三也。次七歳童子同乞出家。共受戒了。修行僧留住教経典勧念仏。
小僧名注勝如。教『阿弥陀経』並不軽作法。如此三箇年。其後件僧不知行方矣。

明朝乞食の僧、門外に立てり。家女悦びて以つて請じ入れ供養して即ち出家を乞ふ。僧の云く。未だ衰老にも至らず、病患にも臨(のぞ)まず、今出家を求むるは、是れ最上の善根なり。
此れを聞きて弥(いよいよ)以つて喜悦す。夫妻共頭を剃る。時に年夫四十一 妻三十三なり。次に七歳の童子、同じく出家を乞ふ。共に受戒しおわんぬ。修行の僧、留住して経典を教え念仏を勧む。
小僧の名を勝如と注(しる)す。『阿弥陀経』並びに不軽の作法を教ふ、此のごとくすること三箇年。其の後、件(くだん)の僧、行き方を知らざるなり。

延暦十四年{乙亥}二月十八日朝。入道与尼共同沐浴読経念仏。至于夜半両人命終焉。時家中男女不知之。勝如於傍 打金鼓唱仏号。近隣聞驚問訊之。又一周忌了 勝如修不軽行。已得礼拝十六万七千六百余家。以此慧業迴向二親。不軽之間 毎臨門門香気自熏。見聞道俗皆以奇之。

延暦十四年{乙亥}二月十八日の朝。入道、尼と共に同じく沐浴して読経念仏して、夜半に至りて両人命終す。その時に家中の男女これを知らず。勝如傍において金鼓を打ちて仏号を唱ふ。近隣聞き驚きてこれを問訊する。また一周忌おわりて、勝如、不軽の行を修す。すでに十六万七千六百余家を礼拝することを得たり。この慧業をもって二親に迴向す。不軽の間、門門に臨むごとに香気自熏す。見聞の道俗、皆これを以つて奇とす。

其後登勝尾寺。証上人為師。学顕密正教。已経七箇年。遂卜寂寞地。別結構草菴。修念仏定五十余年。味道忘疲五日一飯。禁断言語十二箇年。同行弟子相見尤希。

その後、勝尾寺に登りて、証道上人を師となして、顕密の正教を学す。すでに七箇年をへて、遂に寂寞の地を卜(ぼく)し、別に草菴を結構し念仏定を修すること五十余年、道を味わい疲れを忘れて五日に一たび飯す。言語を禁断すること十二箇年、同行弟子相見することもっとも希なり。

于時貞観八年八月十五夜空聞音楽。奇思之間人叩柴戸。唯以咳声令知有人。
戸外人陳云。我是居住播磨国賀古郡賀古駅北辺 沙弥教信。今往生極楽之時也。上人明年今月今夜可得其迎。為告此由故以来也。然間微光 僅入菴 細楽漸去西矣。勝如驚怪 明旦遣僧 勝鑑令尋彼処。勝鑑不論昼夜発向彼国。毎対往還人問教信之往生事。敢無答者。

時に貞観八年八月十五夜空に音楽を聞く。これを奇(あや)しみ思ふ間に、人、柴戸を叩く。ただ咳声をもつて人ありと知らしむ。
戸外の人、陳(の)べて云く。我はこれ播磨の国賀古の郡賀古の駅の北の辺に居住せる、沙弥教信なり。今、極楽に往生の時なり。上人は明年の今月今夜、その迎えを得べし。この由を告げんが為の故に以つて来れるなり。しかる間、微光僅かに菴に入り。細楽ようやく西に去るなり。勝如驚怪して明旦、僧勝鑑を遣わし彼の処を尋ねしむ。勝鑑、昼夜を論ぜず彼の国に発向す。往還の人に対(むか)うごとに教信の往生の事を問ふに、あえて答ふる者なし。

稍見賀古駅北有小廬。当其廬上鵄烏集翔。漸近寄見 群狗競食死人。傍大石上有新髑髏。容顔不損。眼口似咲。香気薫馥。又臨廬内 有一老嫗一童子 相共哀哭。便問悲情。

稍(ようやく)賀古の駅の北を見れば小廬あり。その廬の上に当りて鵄烏集り翔(かけ)る。ようやく近き寄り見れば、群狗競いて死人を食ふ。傍(かたわら)の大石の上に新たなる髑髏あり。容顔損ぜず、眼口咲(え)めるに似たり。香気薫馥す。たた廬内を臨めば、一老嫗一童子のあり。相共に哀哭する。すなわち悲情を問ふ。

嫗曰。死人是我夫 沙弥教信也。去十五夜既以死去。今成三日。一生之間 称弥陀号 昼夜不休以為己業。雇用之人呼 為阿弥陀丸。是為送日計已経三十年。是童即子也。今母与子 共失其便不知為方也。

嫗が曰く。死人はこれ我が夫、沙弥教信なり。去十五の夜、既に以つて死去す。今、三日に成れり。一生の間、弥陀の号(みな)を称して、昼夜に休まず以つて己が業となす。これを雇ひ用うる人、呼びて阿弥陀丸となす。これを日を送る計となして、すでに三十年を経たり。この童はすなわち子なり。今、母と子と、共にその便(たより)を失いて、為さん方を知らざるなり也。

於是村里男女往還。道俗具聞 勝鑑之来由。星馳雲集。迴彼髑髏 歌唄讃歎矣。勝鑑速還陳上件事。
聖人聞此自謂。我年来無言 不如教信口称。恐利他行疎焉。
以同二十一日 故往詣聚落。自他共念仏云云

ここにおいて村里の男女往還して、道俗具(つぶさ)に勝鑑の来れる由を聞きて、星のごときくに馳せ雲のごとくに集り、彼の髑髏を迴(めぐ)りて、歌唄讃歎す。勝鑑、速(すみやか)に還りて上に件(くだん)の事を陳(の)ぶ。

聖人、これを聞きて自から謂(おも)へらく。我が年来の無言、教信の口称にしかず。恐くは利他の行疎(おろそ)かならん。 同じき二十一日を以つて、故(ことさ)らに聚落に往詣して、自他共に念仏すと 云云。 明年八月一日本処隠居。至于期日出堂沐浴。語弟子等。教信之告相当今夜。今生言談此度許也。

明年の八月一日、本処に隠居す。その期日に至りて出堂沐浴して、弟子等に語(かたるら)く。教信の告げ今夜に相(あ)い当れり。今生の言談、この度びばかりなり。

抑涙入堂弁備香華。線付仏手念誦如例。然間漢月影静松風声斜。漸運漏剋 到夜半程。楽音髣聞。異香且芬。聖人合音念仏。聞者歓喜不少。光明忽照紫雲満室。上人向西結印端坐入滅。時年八十七。遺弟等悲喜交集。双眼流涙。結縁上下二百余人。三七日夜囲繞彼屍不断念仏。此間白気猶以不絶。結願之後将以火葬。手印不焼 在於灰中。忽起石塔安之既畢。今号燧石塔之是也。具載彼上人伝。

涙を抑へて入堂して香華を弁備し、線を仏の手(みて)に付けて念誦例のごとし。しかる間、漢月影静かにて松風声斜なり。漸く漏剋を運びて夜半に到る程、楽音髣(ほのか)に聞へ、異香且(かつ)芬(にほ)ふ。聖人音を合わせて念仏す。聞く者歓喜するに少なからず。光明たちまちに照し紫雲室に満つ。上人西に向ひ印を結び端坐して入滅す。時に年八十七。遺弟等悲喜交集して、双眼より涙を流す。結縁の上下二百余人、三七日夜、かの屍を囲繞して不断に念仏す。この間、白(香)気なお以つて絶えず。結願の後にまさに火葬を以つてせんとするに、手印焼けず灰中に在り。たちまちに石塔を起(た)てこれを安んじ既に畢(おわ)れり。今、燧石の塔と号するは是れなり。具(つぶさ)には彼の上人伝に載(の)す。

焉雖在家沙弥 前(さきだつこと)無言上人、是依弥陀名号不可思議也。教信是誰。何不励乎。練磨其心称名不退。彼常念観音者 尚離 難離之三毒。況常念弥陀人 盍(んぞ)往 易往之浄土哉。

ここに在家の沙弥といえども、無言上人に前(さきだ)つこと、是れ弥陀の名号の不可思議に依つてなり。教信、これ誰ぞ、何んぞ励まざるや。其の心を練磨して称名退せざれ。彼の常念観音の者、なお、この三毒の離れ難きを離る。いわんや常念弥陀の人、なんぞ易往の浄土に往かざる。

若常途念仏不能勇進。依此経説修臨時行。要須閑処料理道場。先於西壁安弥陀像。若一日若七日。随堪荘厳。随力供養。持戒清浄威儀具足。毎日三時或四時或五時或六時。毎時三万或二万或一万或五千。随行者意発願回向専念勤修。如綽禅師七日念仏得百万遍也。若七日夜勇猛精進 至終焉之暮 被弥陀之加 豈為永劫安楽不励七日苦行乎。

もし常途の念仏勇進することあたわずんば。此の経の説に依つて臨時の行を修すべし。要(かなら)ず、すべからく閑処にして道場を料理し、まず西壁において弥陀像を安んず。もしは一日もしは七日、堪えるに随つて荘厳し、力に随いて供養せよ。持戒清浄にして威儀具足すべし。毎日三時あるいは四時あるいは五時あるいは六時、毎時に三万あるいは二万あるいは一万あるいは五千。行者の意に随いて発願し回向し専念勤修せよ。綽禅師のごときは七日の念仏に百万遍を得たまえり。もし七日夜、勇猛に精進すれば、終焉の暮に至りて弥陀の加を被(こうむ)る。あに永劫の安楽の為に七日の苦行を励まざらんや。

二 衆罪消滅故

第二、一心称念阿弥陀仏衆罪消滅故必得往生。

第二に、一心に阿弥陀仏を称念すれば衆罪消滅するが故に必ず往生を得。

『観経』云。但聞仏名二菩薩名 除無量劫生死之罪。何況憶念。

『観経』に云く。ただ仏名 二菩薩の名を聞くすら無量劫の生死の罪を除く。何(いか)に況んや憶念をや。

又説下品云。或有衆生毀犯五戒八戒及具足戒。如是愚人偸僧祇物。盗現前僧物。不浄説法。乃至作五逆十悪。臨命終時遇善知識称仏名故。於念念中除八十億劫生死之罪。命終之後即得往生 略抄

また下品を説きて云く。あるいは衆生有りて五戒八戒及び具足戒を毀犯せん。是の如きの愚人、僧祇物を(ぬす)み、現前の僧物を盗み、不浄説法し、乃至五逆・十悪を作り、命終の時に臨みて善知識に遇い、仏名を称するが故に、念念の中に於いて八十億劫の生死の罪を除き、命終の後、即ち往生を得 { 略抄}

僧祇物者竜興師云。此云大衆物。大衆共有此物用故。

僧祇物とは竜興師の云く。此には大衆物と云ふ。大衆共に此の物の用有るが故に。

又有云。十方僧物。謂有施主為供養十方僧。於精舎中施諸珍宝及薗林等。後有愚人不知後報摂取受用。故名偸僧祇物。

またあるが云く。十方僧物なり。これを謂く、施主有りて十方の僧を供養せん為に、精舎の中に於いて諸の珍宝及び薗林等を施す。後に愚人有りて後報を知らずして摂取受用するが故に偸僧祇物と名く。

次現前僧物者。現在僧所供養物。或以威勢而劫奪。或以方便而密取也。不浄説法者。住名聞室著不浄衣。坐有所得座所解説也。

次に現前僧物とは、現在の僧に供養する所の物なり。あるいは威勢を以て、しかも劫奪し、あるいは方便を以て密取する也。不浄説法とは、名聞の室に住し不浄の衣を著し、有所得[3]の座に坐し解説(げせつ)する所のこと也。

五逆の様相(信巻末で引文)(123)

{太字部分が御開山の引文。訓点は「信巻」の訓点を依用した}

五逆者。若依溜州五逆有二。一者三乗五逆。謂
一者故思殺父。二者故思殺母。三者故思殺羅漢。四者倒見破和合僧。五者悪心出仏身血。以背恩田違福田。故名之為逆。犯[4]此逆者身壊命終。必定堕於無間地獄。一大劫中受無間苦 名無間業。

次に五逆とは、もし淄州によるに五逆に二つあり。一つには三乗の五逆なり。いはく、
一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づくと。

又『倶舎論』中 有五無間同類業。彼頌曰。

また『倶舎論』のなかに、五無間の同類の業あり。かの頌にいはく、

汚母無学尼 殺母罪同類
殺住定菩薩 殺父罪同類
及有学聖者 殺羅漢同類
奪僧和合縁 破僧罪同類
破壊卒都婆 出仏身血同類

母・無学の尼を汚す、[母を殺す罪の同類。]
住定の菩薩、[父を殺す罪の同類。]
および有学・無学を殺す、[羅漢を殺す同類。]
僧の和合縁を奪ふ、[僧を破する罪の同類。]
卒都波を破壊する、[仏身より血を出す]と。

二者 大乗五逆如『薩遮尼乾子経』説。
一者 破壊塔寺焚焼経蔵。及以盗用三宝財物。
二者 謗三乗法言非聖教。障破留難隠弊覆蔵。
三者 於一切出家人。若戒持戒破戒。打罵訶責説過禁閉。還俗駆使債調断命。
四者 殺父害母出仏身血破和合僧殺阿羅漢。
五者 謗無因果。長夜常行十不善業 已上

二つには大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。
一つには塔を破壊し経蔵を焚焼する、および三宝の財物を盗用する。
二つには三乗の法を謗りて聖教にあらずというて、障破留難し隠蔽覆蔵する。
三つには一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し還俗せしめ、駈使債調し断命せしむる。
四つには父を殺し、母を害し、仏身より血を出し、和合僧を破し、阿羅漢を殺す。
五つには謗して因果なく、長夜につねに十不善業を行ずるなり、と。{已上}

次十悪者。身三口四意三如常 十中前四名四重禁。謂殺盗婬妄語也。若依『十輪経』 於此四重中説近無間業。

次に十悪とは、身三・口四・意三{如常} 十が中に前の四を四重禁と名く。謂く殺・盗・婬・妄語なり。もし『十輪経』に依らば、この四重の中に於て近無間の業を説く。

彼経云。
一起不善心殺害独覚。是殺生。
二婬羅漢尼。是欲[云][5]邪行。
三侵損所施三宝財物。是不与取。
四倒見破和合僧衆。是虚誑語 略抄

ゆえに、かの『経』(十輪経)にいはく、一つには不善心を起して独覚を殺害する、これ殺生なり。二つには羅漢の尼を婬する、これを邪行といふなり。三つには所施の三宝物を侵損する、これ不与取なり。四つには倒見して和合僧衆を破する、これ虚誑語なり、と。{略出}

設有此等重罪悪業。至心信楽。称念南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。於念念中皆得消滅。何況余罪。
如彼大荘厳仏滅後四悪比丘。十万億歳四念処観 動修精進如救頭燃。而小乗行 無滅罪故還堕無間。由此応信 大乗滅罪之方法 弥陀一念之功徳。

たとい、これ等の重罪悪業あれども、至心に信楽し、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称念すれば、念念の中において皆な消滅することを得。いかにいわんや余罪をや。
彼の大荘厳仏の滅後の四悪比丘のごときは、十万億歳四念処観を動修精進すること頭燃を救ふがごとくすれども小乗の行に滅罪なきがゆえに還りて無間に堕す。これによって大乗滅罪の方法、弥陀一念の功徳を信ずべし。*


嘉祥『観経疏』云。

嘉祥の『観経疏』に云く。

問。念仏三昧何因得 滅如此多罪耶。

問ふ。念仏三昧は何の因か、この如きの多罪を滅することを得んや。

解云。仏有無量功徳。念仏無量功徳故 得滅無量罪也。 已上

解して云く。仏に無量の功徳有り。仏の無量の功徳を念ずるが故に、無量の罪を滅することを得る也。 已上

明知。弥陀一念功徳無 一善不生。無 一罪不滅。故浄土業無如此行。

明に知んぬ。弥陀一念の功徳、一善として生ぜざること無く一罪として滅せざること無し。故に浄土の業、この行にしくは無し。

曇鸞『浄土論』注云。今当以義挍軽重之義。在心在縁。云何在心。彼造罪時自依止虚妄顛倒見生。此十念者依善知識方便安慰聞実法生。
一実一虚豈得相比。譬如千歳闇室光若暫至即便明朗。闇豈得言在室千歳而不去耶。
云何在縁。彼造罪時自縁妄想煩悩虚妄果報衆生生。此十念者縁阿弥陀如来真実清浄無量功徳名号生。譬如有人彼毒箭所中截筋破骨。聞滅除薬鼓即箭出毒除。豈可得言彼箭深毒厲聞鼓音声。不能抜箭去毒耶。{已上略抄 『十疑』、『安楽集』同之}

曇鸞の『浄土論』注に云く。今まさに義をもつて校すべし。 軽重の義は心に在り、縁に在り、かの造罪の時、みづから虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は善知識の方便安慰によりて実の法を聞きて生ず。
一は実なり、一は虚なり。あにあひ比ぶることを得んや。たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至らば、すなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。
いかんが、縁に在る。かの造罪の時は、みづからの妄想煩悩虚妄の果報の衆生によりて生ず。 この十念は、阿弥陀如来の真実清浄無量の功徳の名号によりて生ず。たとへば人ありて、彼の毒の箭、中るところ筋を截り骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けば、すなはち箭出で毒除こるがごとし。{『十疑』、『安楽集』これに同じ}

今云。一称弥陀仏滅無量罪者。如一良薬治万病也。謂呵梨勒遍治一切病。所以耆婆亡一切薬草皆啼。呵梨勒独歌。余草難識。

今云く、一たび弥陀仏を称すれば無量の罪を滅すとは、一の良薬万病を治するが如き也。謂わく呵梨勒は遍く一切の病を治す。所以へに耆婆が亡せしとき一切の薬草みな啼き、呵梨勒独り歌ふ。余草は識り難し。

治熱不治冷。治冷不治熱。若是呵梨勒遍治一切。無人不識。又摩尼珠置之濁水濁消水澄。弥陀宝号投之罪心罪滅心浄。又鴆鳥入水魚蜯悉斃。犀角触泥死者皆起。毒薬尚爾。何況念仏。

熱を治して冷を治せず、冷を治して熱を治せず。是のごときの呵梨勒は遍く一切を治す。人として識らざるいうこと無し。また摩尼珠をこれを濁水に置けば濁り消へて水澄む。弥陀の宝号これを罪心に投ずれば罪滅し心浄し。また鴆鳥の水に入れば魚蜯悉く斃れ、犀角泥に触れれば死せる者みな起つ。毒薬なお爾り。何に況んや念仏おや。

又『安楽集』云。

また『安楽集』に云く。

問曰。若人能称名号除諸障者。以指指月。此指破闇。

問いて曰く。もし人、能く名号を称して諸障を除くということは、指を以て月を指す。この指 闇を破せんや。

答曰。諸法万差。不可一概。名即法者如諸仏菩薩名号禁呪音辞修多羅章句等是也。

答へて曰く。諸法万差なり、一概すべからず。名の法に即すとは諸仏菩薩の名号、禁呪音辞修多羅章句等の如きは是れ也。

{今云。有聖人念仏為宗。傍人夢 自聖口金色仏放光出入。覚聞猶唱仏号。各即法者斯言誠哉}

{今に云く。聖人有りて念仏を宗と為す。傍の人の夢に聖口より金色の仏、光を放ちて出入す。覚聞なお仏号を唱う。各法に即するに、この言誠なるかな}

如禁呪辞曰。日出東方乍赤乍黄。仮令酉亥行禁患者亦愈。又有人被狗所嚙。炙虎骨熨之患者即愈。或時無骨好摗掌磨之。口中喚言虎来虎来患者亦愈。或復有人患脚転筋炙木瓜熨之患者即愈。或無木瓜炙手磨之口喚木瓜木瓜患者亦愈。吾身得其効也。

禁呪の辞に、日出東方乍赤乍黄と曰(い)はんに、たとひ酉亥に禁を行ずるも患へる者愈ゆるが如し。また人有りて狗の所嚙を被らんに、虎の骨を炙りてこれを熨せば患へる者即ち愈ゆる。あるいは時に骨無ければ好く掌に摗げてこれを磨り、口の中に喚びて「虎来虎来」と言わんに患へる者また愈ゆ。るいは復た人有りて脚転筋を患わんに木瓜を炙りてこれを熨せば患へる者即ち愈ゆ。あるいは木瓜無ければ手を炙りてこれを磨りて、口に「木瓜木瓜」と喚べば患へる者また愈ゆ。吾が身に其の効を得たり。

名異法者如指指月是也。已上

名の法に異するありとは、指をもつて月を指すが如き是也。已上

称名除障其理顕然。臨終迎接豈不信受。故説下品上生云。臨終彼仏遣化仏菩薩。讃言。善男子称仏名故諸罪消滅。我来迎汝。云云

名を称して障を除く其の理顕然たり。臨終の迎あに信受せざる。故に下品上生を説きて云く。臨終に彼の仏化仏菩薩を遣はして、讃して言く、善男子、仏名を称するが故に諸罪消滅せり、我来りて汝を迎ふと。云云

三 宿縁深厚故

第三、一心称念阿弥陀仏宿縁深厚故必得往生。

第三に、一心に阿弥陀仏を称念すれば、宿縁深厚なるが故に必ず往生を得。

『観経』云。韋提希白仏言。諸仏土 雖復清浄皆有光明。我今楽生極楽世界阿弥陀仏所 已上

『観経』に云く。韋提希、仏に白して言さく、諸の仏土、また清浄にして皆光明有りと雖(いえ)ども、我今、極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを(ねが)ふ、と 已上

十疑云。阿弥陀仏与此世界偏有因縁 何以故得知。『無量寿経』云。末世法滅之時 特留此経百年在世。引接衆生往生彼国。故知。弥陀与此世界極悪衆生偏有因縁 已上

『十疑』に云く。阿彌陀佛とこの世界、(ひとえ)に因縁あり。何を以って知ることを得んや。
『無量寿経』に云く、「末世法滅の時、特にこの経を留めて、百年世に在りて、衆生を引接し、彼の國に往生せしめん。」と。 故に知んぬ、弥陀とこの世界の極惡の衆生、偏に因縁あり。

夫如来説教潤益有時。釈迦末世弥陀施化。幸生此時。知機縁熟念仏往生何有疑乎。時機猶生行業難熟。

それ如来の説教に潤益時有り。釈迦の末世には弥陀化を施したまふ。幸にこの時に生たり。知んぬ機縁熟することを。念仏往生、何の疑い有らんや。時機なお生れければ行業熟し難し。

故『正法念経』云。行者一心求道時 常当観察時方便。若不得時無方便是名為失。如攅湿木求火 云云

故に『正法念経』に云く。行者一心求道の時、常にまさに時と方便を観察すべし。もし時を得ず方便無き、これを名て失と為す。湿木を攅りて火を求むるが如し、と 云云

『安楽集』曰。『随願往生経』云。十方仏国皆悉厳浄随願並得往生。雖然不如西方無量寿国。阿弥陀仏与観音大勢至。先発心時従此界去。於此衆生偏有因縁 已上

『安楽集』に曰く『随願往生経』に云く。十方仏国みな悉く厳浄にして願に随いて並に往生を得。然りと雖ども、西方無量寿国にしかず。阿弥陀仏と観音・大勢至、先に発心の時、この界より去りたまふ。この衆生に於いて偏に因縁有り、と 已上

又『悲華経』説。我於往昔過恒沙劫。此仏世界名冊提嵐。有輪王名無諍念。有大臣名曰宝海。臣有一子相好具足。当其生時諸天供養。出家学道成阿耨菩提名宝蔵如来。爾時無諍念王三月之間四事供養。又大王頂戴一灯両肩荷二灯。左右手中執持四灯。二膝上各置一灯。両足趺上亦各一灯竟夜供養。

また『悲華経』に説かく。我、往昔に於いて恒沙劫を過ぎて、この仏の世界を冊提嵐と名く。輪王有り無諍念と名く。大臣有り名て宝海と曰ふ。臣に一子有り相好具足す。その生ずる時に当りて諸天供養す。出家学道して阿耨菩提を成じ、宝蔵如来と名く。その時に無諍念王三月の間四事供養す。また大王(いただき)に一灯を戴き両肩に二灯を荷(にな)ひ、左右の手中に四灯を執持し、二の膝の上に各一灯を置き、両足の趺上に、また各一灯をして竟夜を供養す。

時宝海梵志白聖王言。人身難得諸仏難遇。大王今已具足。当発菩提心。

時に宝海梵志、聖王に白して言さく。人身得難し諸仏遇ひ難し。大王、今已に具足せり。当に菩提心を発したまふべし。

大王答言。梵志我今不求菩提。我心愛楽世間供養如来。

大王答へて言く。梵志、我今菩提を求めず。我心世間を愛楽して如来を供養す。

梵志復白。是道清浄。一心尚求 云云

梵志また白く。この道清浄なり。一心になお求むべし 云云

大王復言。我今発菩提心 教化衆生。而終不取穢悪国土。爾時宝蔵仏即入三昧現十方仏土。

大王また言く。我今菩提心を発せり、衆生を教化し。而も終に穢悪の国土を取らず。その時に宝蔵仏即ち三昧に入りて十方の仏土を現ず。

時大王白仏言。以何業故取清浄土。以何業故取不浄土。

時に大王仏に白して言さく。何の業を以つての故にか清浄の土を取り、何の業を以ての故にか不浄の土を取る。

仏告聖王。以願力故取土不同。

仏聖王に告ぐ。願力を以ての故に土を取ること同じからず、と。

聖王聞是語已。世尊我今発願云。願我成仏土中 無有地獄畜生餓鬼。乃至願我成仏已。十方世界女人聞我名発菩提心者 更復不受女身 略抄

聖王この語を聞き已りて、世尊、我今発願して云く。願くは我成仏するに土の中に、地獄・畜生・餓鬼有ること無からしめん。乃至願くは我成仏し已りて、十方世界の女人、我が名を聞きて菩提心を発す者は、更つて復た女身を受けず 略抄

故知。弥陀発心発願偏在此土。我等一国受生之間。或為父母。或為男女。或為師長。或為同行。生生世世更互有恩。静思宿縁悲涙難抑。設雖一念引接何疑。

故に知んぬ。弥陀の発心発願、偏にこの土に在り。我等一国受生の間、或いは父母と為り、或いは男女と為り、或いは師長と為り、或いは同行と為り、生生世世、更互に恩有り。静に宿縁を思ふに悲涙抑へ難し。たとひ一念と雖ども引接何ぞ疑わん。

又『陀羅尼集経』云。若四部衆将持七宝満世界中。布施十方一切諸仏。不如一銭一華一香好心布施阿弥陀仏者。若作此功徳一切諸仏菩薩金剛諸天等皆悉歓喜。死生阿弥陀仏国 已上

また『陀羅尼集経』に云く。もし四部の衆、まさに七宝の世界中に満ちるを持して、十方の一切の諸仏に布施せんよりも、一銭一華一香も好心に阿弥陀仏に布施せんにはしかず。もしこの功徳を作(な)さば、一切の諸仏・菩薩・金剛・諸天等みな悉く歓喜したまふ。死して阿弥陀仏国に生ず 已上

若非宿縁何必然哉。何況一心称念仏号。

もし宿縁に非ざれば何ぞ必ずしも然らんや。何に況んや一心に仏号を称念せんをや。

又『安楽集』引『須弥四域経』云。天地初開之時未有日月星辰。縦有天人来下但用頂光照用。爾時人民多生苦悩。於是阿弥陀仏遣二菩薩。一名宝応声。二名宝吉祥。即伏羲女媧是。

また『安楽集』引く『須弥四域経』に云く、天地はじめて開くる時、いまだ日・月・星辰あらず。 たとひ天人来下することあれども、ただ項の光をもつて照用す。 その時人民多く苦悩を生ず。 ここにおいて阿弥陀仏、二菩薩を遣はす。 一は宝応声と名づけ、二は宝吉祥と名づく。 すなはち伏羲・女媧これなり。

此菩薩共相籌議。向第七天上取其七宝。至此界造日月星辰二十八宿以照天下。定其四時春秋冬夏。時二菩薩共相謂言。所以日月星辰二十八宿西行者一切諸天人民尽共稽首阿弥陀仏。是以日月星辰皆悉傾心向彼。故西流也。已上

この菩薩ともにあひ籌議して第七の上に向かひて、その七宝を取りてこの界に至りて、日・月・星辰二十八宿を造り、もつて天下を照らしてその四時春秋冬夏を定む。 時に二菩薩ともにあひいひていはく、日・月・星辰二十八宿の西に行く所以は、一切の諸天・人民ことごとくともに阿弥陀仏を稽首したてまつれ、となり。 ここをもつて日・月・星辰みなことごとく心を傾けてかしこに向かふ。 ゆゑに西に流る、と。

故恃宿縁深当一心称念。

故に宿縁深きを恃(たの)んで、まさに一心に称念すべし。

四 光明摂取故

第四、一心称念阿弥陀仏光明摂取故必得往生。
『観経』云。無量寿仏眉問白毫相有八万四千随好。一一好復有八万四千光明。一一光明復有八万四千色。一一色復有八万四千枝。一一色光微妙赫奕遍照十方世界。念仏衆生摂取不捨 取意
行者其身所有黒業 以光照故皆悉消滅。
故儀軌云。無量寿如来不捨悲願。以無量光明照触行者。業障重罪悉皆消滅 已上
我等如盲者被日照小分無隠。常懐懺愧慎不放逸。恨無明病所盲 不見摂取光明矣。或閉目想之遥従西方清浄微妙種種色光。光光相次来照我身如落日光。其光青黄赤白紅紫碧緑等。又似赤而黄。如青而紫。如緑而紅。如是微妙一一色光無応譬類。行者留心数数念之。念念不絶。心心相続如渇思飲。以見為期。或熱時是冷。如秋月光。寒時是暖。似春日照。或復尋光遥見西方。彼仏眉間白毫赫奕宛如日輪。則如盲者忽得明眼令心欣悦。
故『観経』云。観無量寿仏者従一相好入。但観眉間白毫極令明了。見眉間白毫者八万四千相好自然当見。
『観仏経』第二云。於一時中分為少分。少分中能須臾間念仏白毫。令心了了無謬乱想。分明正住注意不息。念白毫者若見相好。若不得見。如是等人除却九十六億那由他恒河沙微塵数劫生死之罪。設復有人但聞白毫心不驚疑。歓喜信受亦却八十億却生死之罪。已上
又『双巻経』云。無量寿仏威神光明最尊第一。諸仏光明所不能及。是故無量寿仏 号無量光仏 無辺光仏 無礙光仏 無対光仏 光炎王仏 清浄光仏 歓喜光仏 智慧光仏 不断光仏 難思光仏 無称光仏 超日月光仏。其有衆生遇斯光者。三垢消滅身意柔軟。歓喜踴躍善心生矣。若在三途懃苦之処見此光明無復苦悩。寿終之後皆蒙解脱 三途尚見行人尽見乎。
若有衆生聞其光明威神功徳。日夜称説至心不断。随意所願得生其国。略抄
是故行者係心白毫専称仏号。

五 聖衆護持故

第五、一心称念阿弥陀仏聖衆護持故必得往生。
善導和尚云。如『十往生経』説 仏告山海慧菩薩及以阿難。若有人如専念西方阿弥陀仏願往生者。我従今已去常使二十五菩薩影護行者。常使是人無病無悩。不令悪鬼悪神悩乱行者。日夜常得安穏已上
二十五菩薩者。観世音菩薩 大勢至菩薩 薬王菩薩 薬上菩薩 普賢菩薩 法自在菩薩 師子吼菩薩 陀羅尼菩薩 虚空蔵菩薩 徳蔵菩薩 宝蔵菩薩 金蔵菩薩 金剛蔵菩薩 光明王菩薩 山海慧菩薩 華厳王菩薩 珠宝王菩薩 月光王菩薩 日照王菩薩 三昧王菩薩 定自在王菩薩 大自在王菩薩 白象王菩薩 大威徳王菩薩 無辺身菩薩也。
『安楽集』引『請観音経』云。時毘舎離国人民遭五種悪病。一者眼赤如血。二者両耳出膿。三者鼻中流血。四者舌噤無声。五者所食之物化為麁渋。六識閉塞猶如酔人。有五野叉面黒如墨。而有五眼。苟牙上出。吸人精気。良医耆婆尽其道術所不能救。時有月蓋長者。為首部領病人。皆来帰仏。叩頭求哀。爾時世尊起大慈悲。告病人曰。西方有阿弥陀仏観世音大勢至菩薩。汝今応当五体投地焼香散花。令心不散経十念頃。於是大衆如教求哀。
爾時彼仏放大光明。観音大勢一時倶到説大神呪。一切病苦皆悉消除。平復如故。已上
護持既爾。往生何疑。又『観経』云。無量寿仏化身無数与観世音大勢至常来至此行人之所。 已上
行者常除住処塵垢。近辺不安不浄臭物。常焼名香不犯威儀。如人請賓客 即荘厳処処矣。又『称讃浄土経』云。善男子善女人得聞是経深生信解住十方面。十殑伽沙諸仏之所摂受。如説行者一切定生無量寿仏極楽世界 已上
西方要決云。
問。西方浄土処勝時安。一切下流如何並往。
答。彼方精妙欲往実難。仏力加持去之甚易。 已上

六 極楽化主故

第六、一心称念阿弥陀仏極楽化主故必得往生。
『地蔵占察経』云。若人欲生他方現在浄国者。応当随彼世界仏之名号専意誦念。一心不乱決定得生彼仏浄国。善根増長速獲不退 。 已上
是故浄土行業衆多其中専念化主為勝。罪業雖重 免似朝家之行赦。界趣雖阻 通同王印之開関。仍只念法王不雑余業焉
問。依『占察経』専念化主可願何土。何偏勧極楽。
『安楽集』云。十方浄土雖同可願。西方極楽浄土初門。何以得知。華厳経云。娑婆一劫極楽世界為一昼夜。極楽一劫袈裟幢世界為一昼夜。如是優劣相望乃有十阿僧祇。又娑婆穢土終処。何以得知。『正法念経』云。従此東北有一世界名曰斯訶。土田唯有三角沙石。一年三雨。一雨湿潤不過五寸。其土衆生草子為食樹皮為衣。求生不得。求死不得。復有世界。一切虎狼禽獣乃至蛇蝎。悉皆有翅飛行。逢者相噉。是豈不名穢土始処。是故娑婆穢土終処。極楽浄土初門。境次相接往生甚便 略抄
『無垢称経』云。堪忍世界有十種善法。一以慧 施摂諸貧窮。二以浄戒摂諸毀戒。三以忍辱慁諸嗔恚。四以精進摂諸懈怠。五以静慮摂諸乱意。六以勝慧摂諸愚痴。七以説除八無暇法。普摂一切無暇有情。八以宣説大乗法。普摂一切楽小法者。九以種種殊勝善根普摂未種善根者。十以無上四種摂事恒常成就一切有情。
此等善法余仏土無。復豈非為穢土勝処。又云。非唯十阿僧祇土中為初門。亦彼土中有九品差別。由此造逆者既生下品。我等云何絶希望乎。
又非唯有九品差降。亦彼土中別有辺地。謂胎生土是疑惑者所生之処。
故『双観経』云。若有衆生以疑惑心。修諸功徳願生彼国。不了仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智。於此諸智疑惑不信。猶信罪福修習善本願生其国。此諸衆生生被宮殿。寿五百歳不見三宝。謂之胎生 乃至 若此衆生識其本罪深自悔責。求離彼処即得如意往詣無量寿仏所恭敬供養{略抄}
元暁云。生辺地者別是一類。非九品摂。又非唯有胎生辺地。亦於道中且有化城。謂懈慢国。荘厳微妙国土安楽。令雑修者先生彼土遂生極楽。故『菩薩処胎経』云。西方去此閻浮提十二億那由他有懈慢界。国土快楽作唱伎楽。衣被服飾香華荘厳。七宝転開床。挙目東視宝床随転。北視西視南視亦如是転。前後発意衆生欲生阿弥陀仏国者。皆染著懈慢国土 不能前進 生阿弥陀国 億千万衆時 有一人能生阿弥陀仏国。何以故。皆由懈慢執心不牢固。斯等衆生自不殺生。亦教他不殺。有此福報生無量寿国。已上
夫設辺地於極楽為引疑惑之輩。仮化城於懈慢以接雑修之者。諸余浄土未必如此。是故偏説極楽世界於易往土。心不怯弱只作決定往生之想。故『双観経』云。横截五悪道。悪道自然閉。昇道無窮極。易往而無人。已上
幸得便宜。誰不行哉。

七 三業相応故

第七、一心称念阿弥陀仏 三業相応故必得往生。
法華玄云。口業称名必具三業。発声口業 動舌身業 経意意業。身業礼拝具身意二業。意業存念唯意業也。已上
近代行者念仏名時、雖動舌口而不発声。或執念珠只計数遍。故心余縁不能専念。散乱甚多。豈得成就。発声不断称念仏号。三業相応専念自発。故『観経』説。至心称名令声不絶。
問。設不発声而動口舌豈非口業。
汝不学法相 此問所致也。動彼舌根即身表業。今語表業謂言声也。是故新訳改曰語業。然名句文身依声仮立 若動舌称名豈不依身。
若爾何故秘蔵記云。蓮華念誦者誦音聞於自耳。金剛念誦者小動舌端。云云
答。顕密二行各有其理。名句文身依語声者此約顕示。若論隠密亦可通舌。若不爾者動舌念誦豈不称名。而今但勧三業之行。是故不取動口称名。縦不卜居於山林暗跡於煙霞。或徒然日或寂然夜。向西合掌澄声称念。随数遍之積専念漸以発。
閑窓暮日澄心八功徳池。空床暁夜係念満月尊容。附華色月光観弥陀之相好。寄風音烏声思浄土之楽音。行之可知。不能具記。若得専念将知往生。
又問。三業中意業為引。身口為満。今勧浄土何非引業。
答。豈不前釈。為成専念今勧三業相応口業。設雖一念専念若発引業即成必得往生。設雖万遍専念不発 引業未熟不得往生。何況三業相応口業 倶感浄土引満二果乎。 [6]

八 三昧発得故

第八、一心称念阿弥陀仏三昧発得故必得往生。
夫諸法本無自性、唯是一心所作。流転生死 心之染相、趣向 菩提心之浄相。但散心事難成、専念業易成。如彼酒反河中 箭穿石裏 非麹弓之功。是一心之力也。染浄諸法皆以如是。往生浄土業豈不依一心哉。
問。今一心者 若定心者 未得定人 何得往生。若得定者 豈得称名、定中五識不現前故。
答。若依倶舎 三摩地者此云等持。平等持心心所 令専一境有所成弁 而通三界。誰不現起哉。若依唯識等 持定者令心専注不散為性。心専注言非唯一境。不爾見道応無等持。設住一境 若非専注不名等持。
又遮五識能入等引。不遮等持。謂等持通定散。但専注境義。等引唯定心。作意専注故。又文殊般若下巻云。仏言。若善男子善女人 欲入一行三昧。応処空閑 捨諸乱意 不取相貎。繋心一仏専称名号。
随仏方所端身正向。能於一仏念念相続。即於念中能見 過去未来現在諸仏。已上
善導和尚云。若得口称三昧者 心眼即開。見彼浄土一切荘厳。已上
和尚既是三昧発得之人也。豈有謬乎。故知。一心者唯等持定。依斯行者廃 余一切諸願諸行。唯願唯行念仏一行。散慢之者千不一生。専修之人万無一失。然人不木石。好専念自発。心若馳散知而不随。常作心師不師於心。心第一怨。此怨最悪。此怨縛人送琰羅所。久没生死之泥 是由妄想。当乗浄土之雲只在実智。行者知妄空妄想不起。家主知賊 有怨賊無犯。覚王一発妄軍悉退。総罰妄敵無如智剣。
又遭急難時 如忘余事。譬如有人空曠逈処 値遇怨賊 抜剣奮勇直来欲取。其人到走規渡一河 即作此念。我至河岸 為脱衣渡為著衣渡。若著衣納恐不得過。若脱衣納恐不得暇。但有此念更無他念。行者亦爾。念念相次無余心雑。或念法身。或念仏智。或念白毫。或念光明。或念本願。或念宝地。称名亦爾。但能専至相続 不断定生仏前。
有人問云。著脱二念豈唯一心。
答。著脱雖異渡河一念。名相雖異 念仏是同。但念念相続 未必一境。此義応知。又於仏前称仏名時 縁貪嗔境。心若狂乱恥於本尊速至信心。如世間狂人於帝王前守礼不失。又仏見我当作是念。
云何此人欲生我国。口唱我名心猶散乱。若非一心違我本願。可恥可恥。早速制伏一心不乱。
問。如前所教方作用心雖称仏号専注猶難。止之馳疾颺炎。観之闇逾漆墨散強定劣。鷸蜯相扼。散心念仏今欲退捨。若有方便請為説之。
答。凡夫行者誰従初心有得定者。従散位入定位。是三乗行人入聖之方便也。施彼黒烏為得白鵶。唱此散称為発専念。而今不肯散称。蓋是無志之甚也。但於如来有巧方便。為仁示之。受学勿懈。
『業報差別経』云。高声念仏読経有十種功徳。一能遣睡眠。二天魔驚怖。三声遍十方。四三途息苦。五外声不入。六令心不散。七勇猛精進。八諸仏歓喜。九三昧現前。十定生浄土。已上
今更有一種。謂聞者滅罪也。又感禅師云。学念仏定令声不絶。遂得三昧見仏聖衆。故『大集日蔵分経』言。大念見大仏。小念見小仏。大念者大声称仏也。小念者小声称仏也。斯即聖教。有何惑哉。現見即今諸修学者励声念仏。三昧易成。小声称仏遂多馳散。此乃学者所知。非外人之暁矣。子若不信請試学。為無得不修。何疑惑矣。已上
予為知先賢独在閑室。向西閉目合掌当額。励声念仏即得一心。敢以不乱。誠聖言不堕地。行者可仰信。縦雖末代蓋見仏哉。声作仏事。斯言誠哉。

予、先賢を知らんが為に独り閑室に在りて西に向かいて目を閉じて合掌して額に当て励声に念仏して即ち一心を得たり。敢えて以て乱れず誠に聖言地に堕ちず。行者、仰信すべし。たとひ末代と雖も、蓋(なん)ぞ仏を見ざるや。声に仏事を作す。斯の言誠なり。

問。設得一心凡眼遥見西方弥陀。
答。諸法因縁不可思議。若定水澄浄自見満月尊。如浄水為縁見空中本月。若猶難見准好像思。今三昧者多是聞思相応三昧。未必修慧。又仁費言徒勿疑問。人値急難得一方便応早速離。何暇論談。行者亦爾。旦暮難知。不雑余言励声念仏当自有証。行者若及衰老不堪励声者試作地想観。将今入観略有五位。初肉眼閉目如対闇夜。次作池水想。既見池已当起氷想。見水映徹作瑠璃想影像粗現。次雖影像纔現猶未得明相。凡夫行者心猶野馬。若想多境定即難得。唯観方尺一丈宝地。若一日若七日乃至一年三年等。唯除睡時恒憶此事。但捨万事定即易得。若不爾者縦尽千年法眼難得。由彼如来宿願力故有憶想者必得成就。於応得法心不怯弱。増上意楽数数修習。随心安住明相漸現。幸長夜中僅得小灯。念念観之極令明了。行者即念居瑠璃地。但閉目見開目不見。已上
二観水想観也 次已得心住。
三昧漸発粗見浄妙瑠璃宝地内外映徹。閉目開目不令散失。是名影像成就。次雖影像成猶想心見。今不借想直見浄妙瑠璃宝地奇麗清浄衆綵雑飾微妙赫奕了了分明。是名所作成就。已上二観。
地想観也 但機根不同観法多途。或有広観。或有雑観。若欲広観者先挙心眼遥見西方。皆瑠璃地。広博厳浄怛然平正猶如大海。下有金剛宝幢瑠璃地。光色赫奕映瑠璃地不可具見。凡十方世界無不瑠璃地。行者常念居浄土中。此観本意只在於斯。若欲雑観者謂瑠璃地宝樹行列妙華普散馨香芬烈。
又瑠璃地金縄界道宝衣布地。践之而行。又瑠璃地衆宝楼閣並影赫奕。不能具注。此等観中若得明相。数数駐心極令明了。一観若成衆事自備。一一境界浮璱璃地如清涼池蓮華荘厳。夫尽虚空界之荘厳雖衆宝合成。広大無辺之国土而同一瑠璃。幸哉遇此観門不往今見斯之勝益。豈非仏恩乎。
仏告阿難。為未来世欲脱苦者説観地法。若観此地者除八十億劫生死之罪。捨身他世必生浄国。心得無疑。斯説誠哉。往生浄土之業無如観地法矣。
元興寺智光頼光従小年同室修学。頼光及暮年与人不語。似有所失。智光怪問。都無所答。数年之後頼光入滅。智光歎曰。頼光是多年同学也。頃年無行法徒以逝去。二三月間至心祈念。夢到頼光所。見之似浄土。
問曰。是何処乎。
答曰。是極楽也。以汝懇志示我生所。早可帰去。
智光曰。我願生浄土。何可還耶。
頼光曰。汝無行業。不可暫留。若爾汝亦生前無所作。何得生乎。
答。汝不知我往生因縁乎。我昔披見経論欲生極楽。靖而思之知不容易。是以捨人事絶言語。四威儀中唯観浄土荘厳。多年積功今纔来也。汝心意散乱善根微小。未足為浄土業。
智光聞斯言悲泣不休。
重問曰。何為決定可得往生。
頼光曰。可問於仏。即引智光共詣仏前。智光白仏言。修何善業得生此土。
仏告智光。可観浄土荘厳。
智光重白仏言。此土荘厳微妙広博。凡夫何観。
仏即挙右手。掌中現小浄土。智光夢覚。忽命画工令図夢所見浄土相。一生観之終得往生。已上
十因之興意在斯因。不愛身命但惜三昧。若愛宝地必生浄土。思之応知。

九 法身同体故

第九、一心称念阿弥陀仏法身同体故必得往生。

第九、一心に阿弥陀仏を称念して法身同体なるが故に必ず往生を得。

『双巻経』云。通達諸法性一切空無我。専求浄仏土必成如是刹。

『双巻経』に云く。諸法の性は一切空無我なりと通達すれども、専ら浄き仏土を求めて必ず是の如きの刹を成ぜん。

『起信論』云。如修多羅説。若人専念西方極楽世界阿弥陀仏。所修善根廻向願求生彼世界即得往生。常見仏故終無有退。若観彼仏真如法身。常懃修習畢竟得生住正定故。已上

『起信論』に云く、修多羅の説の如し。若し人西方極楽世界の阿弥陀仏を専念して、所修の善根を廻向して彼の世界に生れんと願求すれば即ち往生を得。常に仏を見るが故に終に退有ること無し。若し彼の仏の真如・法身を観じて、常に懃めて修習すれば畢竟得生して正定に住するが故なり。已上

夫観法多除。且示要路。見鞭影行只在馬意。今法身者入字門悟一切法本不生際。是則『中論』所説八不之中第一不也。謂縁生諸法各無自性。無自性故本不生也。

夫れ観法多除なり。且く要路を示す。鞭影を見て行くことは只だ馬の意に在り。今、法身とは(阿)字門に入りて一切法の本、不生の際を悟るなり。是れ則ち『中論』所説の八不の中の第一の不也。謂く縁生の諸法は各(おのおの)自性無し。自性無きが故に本不生也。

肇公云。道遠乎哉。触事而真荘周既有指馬之況。如会指成捲即縁観倶寂。捲有自体不仮指成。

肇公の云ふ。道遠からんや。事に触れて而真なり。荘周既に指馬の況(おもむき)有り。指を会して捲を成ずるが如し、即ち縁観倶に寂すなり。捲自体有らば指を仮と成ずべからず。

既由指成則無自体。今寄一指万義類之。作此観時無有一法別守自性。自性既無。仮相何立。不異空之色如水月鏡像。不異色之空似陽炎婆城。今以諸法無自性故法性無阻法界一相。是一相故心無分別。無分別故妄念即止頓悟如来平等法身。仏与衆生同体無異。衆生同体仏利穢土無障。諸仏同体生往浄土何隔。而無始以来不達法界一如之理。誑惑因縁仮有之相妄執実有。種種分別従惑起惑。従業起業。五趣四生輪転無際猶如車輪猶如拍毱。

既に指に由つて成ず則ち自体無し。今一指に寄せて万義これに類す。此の観を作す時、一法として別に自性を守ること有ること無し。自性既に無きなり。仮相何ず立せん。不異空の色なれば水月の鏡像の如し。不異色の空なれば陽炎婆城に似たり。今諸法無自性を以つての故に法性阻無く法界一相なり。是れ一相なるが故に心に分別無し。分別無きが故に妄念即ち止て如来の平等法身を頓悟す。仏、衆生と同体無異なり。衆生同体の仏なれば穢土に利するに障り無く。諸仏同体の(衆)生なれば浄土に往、何んが隔てん。しかるに無始より以来(このかた)法界一如の理に達せず。因縁仮有の相に誑惑せられん、妄に実有と執じて、種種に分別して惑より惑を起こし、業より業を起し、五趣四生を輪転無際、猶し車輪の如く、猶し拍毱(蹴鞠)の如し。

故『不増不減経』云。即此法身輪転五道名曰衆生。但於仮有法妄執実有。所造之業与境不合故非実作。誠妄想如夢。何作業乎。昨覚今夢無別異。故覚境己過猶以如夢。夢境当時宛以如覚。妄想即夢仏説長夜。誰有智者諍夢覚異。如彼荘周成胡蝶胡蝶成荘周之是也。是以夢作若非業妄作何是業。妄想是夢。実業誰作。実業既無。生死誰感。故有文云。我由無明妄三業夢裹造作衆罪障。乗覚思惟無作者。我心如空。罪何住。幸今値法性空之教。達一法界之理。妄想夢覚見盧舎那。
故『華厳経』云。了知一切法自性無所有。若能如是解即見盧舎那。已上
是故妄念本無。是縁生故。心性本浄。非縁生故。而無念智所証心性不異虚空。無所不遍。空外無智而可知。智外無空而可証。境智冥合一味平等。今見心性常住不変無長短方円之形。無青黄赤白之色。無苦楽憂喜之想。無貪瞋痴慢之惑。十方求之終不可得。三世尋之亦畢竟空。如『奮迅王経』中説。遮魔語金剛斉菩薩言。我一千年観汝心行常求汝便。而不能得。菩薩比丘言。仮使於恒沙劫求我心亦不可得。心不在内不在外。不在二処。不在中間。
魔言。若汝無心云何去来亦有言説。
比丘言。如幻人有去来言説。故仏常説諸法如幻。已上
非唯衆生心。諸仏心亦空。凡心性一味迷悟不二。仏心中衆生迷迷無所迷。衆生心中仏悟悟無所悟。実心性空 不生不滅不常不断不一不異不来不去。無相可得畢竟無念。以無念故即無染著。無染著故自性清浄
問。心性本浄。妄念何生。従心猶生此妄安止。
答。仁所迷問未空妄念。以妄念心疑無念理。如彼渇鹿追陽炎水。豈不已説。縁生妄念即自性空。自性空故実不生也。
既悟無生妄何由生。空花之喩於此宜陳。雖空無花於眼病時見有空花。於無病時不見空花。而不変空成花。不変花成空。心与妄亦爾。雖心本浄由妄縁故謂心生妄。如空見花。若得無生妄念本無。如空無花。故不変心成妄。不変妄成心。誰有智人求其自性。若有本性是真非妄。豈有永息。故『大仏頂経』。既称為妄。云何有因。若有所因云何名妄。『摂論』引『無上依経』云。諸惑本来不人衆生自性浄心。唯是客塵自分別起。又『起信論』云。煩悩染法唯是妄有自性本無。従無始来未与如来蔵相応。故若如来蔵体有妄法。而使証会永息妄者無有是処。已上
是故勿尋妄念本性。不爾何故経説客塵論云本無。故『心地観経』云。如是心法本非有。凡夫執迷謂非無。若能観心体性空。惑障不生便解脱 。已上
然許妄念実有自性。何用断除惑障道為。由此応信。妄念空故対治道起便得永断。非唯妄念其性本無。所変境界皆悉性空。性空即仏。不須異求。是故諸法一色一心無非法身。故『華厳経』夜光幢菩薩偈云。十方諸世界一切群生類普見天人尊清浄妙法身。已上
塵沙実相。自在童子算沙開悟。大海法身。海雲比丘観海見仏。三業四儀不離実相。五陰六塵是即法身。愚哉日用不知。而今覚知法界唯真万法一如。無煩悩可断。煩悩即菩提。無生死可厭。生死是涅槃。故『荘厳論』云。由離法性外無別染善法。是故如是説煩悩即菩提。『勝鬘経』云。生死二法是如来蔵。已上
此観成時無前境界可起妄念。皆是仏身。何縁生惑。不爾豈異無比指鬘。若時妄念止生死即本無。爾時心性明菩提是本有。念発即覚覚之即空。前念迷即凡。後念悟是仏。是故心外不可念仏。是心作仏是心是仏。雖心性空而具万徳如海十相一一充遍。謂妄念起見。見此不見彼。心性遍照故有遍照法界之徳。猶如月輪円明在胸。妄智猶闇。此名無明。心性明浄。故有大智光明之徳。猶如明鏡。諸仏影現。或有自性清浄之徳。能洗業障垢穢猶如浄水。或有清涼不変之徳。能散煩悩熱悩猶如涼風。或真実識智徳。或常楽我浄徳。如是過恒沙不思議功徳満足。一一性徳不能染紙。念念観達能可染心。是名真実発菩提心。一発此心無有失滅。彼寄花五浄風日不萎。附水霊河世旱無竭。花水尚爾。何況真心。此門甚深真実甚深。顕法界於一因。備万徳於一心。幸今遇大乗法雨見法身芽茎。譬加電震見象牙花。因此行者係念心性。坐臥勿懈。寤寐不忘。数数積功念念累徳。妄想雲晴心性月円。是名如来自性清浄本覚法身。亦名凡夫入如来地頓悟法門。恨及末代頓機者希。徒伯牙之琴。空治下和之璧耳。設有善人日日三時各以恒河沙身命布施。如是布施無量億劫。若復有人聞此法身。信心不逆其福勝彼。何況係念常懃修習。
沙門明智云。我若盛時周巡諸国志求仏法。胡国有山。有四人住。我見其行甚為希有。有一比丘当修礼拝。日夜不臥。復有一僧。常誦経典未嘗睡眠。復有一僧。常行乞食施諸衆僧並済貧乏。是三人行為未曽有。
復有一僧。見其作法。不修礼拝。不誦経典。不行乞食。不持戒行。不具威儀。飯食常飽床臥具足。高枕寝息不別日夜。極懈怠人。極無慚僧。今見此憎忽起悪心。是旃陀羅。出家外道。甚可厭離。不可親近。而今愚夫誰知。上人内行猛利観念甚深。十五箇年常観法身。煩悩菩提生死涅槃観其本性真如一味。如是観察見於心性未臨命終。兼知死期臨命終時 文殊現前讃言善哉。楽音満空衆花乱落。命終之後見其死骸。栴檀之香従死骨出。我及余衆深以懺愧。是故以牛羊眼不可量知衆生根性。已上
経説上品中生云。未必読誦方等経典。善解義趣於第一義心不驚動。以此功徳迴向願求生極楽国。命欲終時阿弥陀仏与観世音大勢至無量大衆囲遶。持紫金台至行者前讃言。汝行大乗解第一義。我今来迎云 云云
依斯往生浄土之業無如此観。今観行者法身同体。妄軽自身勿生疑惑矣

十 随順本願故

第十、 一心称念阿弥陀仏随順本願故必得往生。
故本願云。十方衆生至心信楽欲生我国。乃至十念若不生者不取正覚。云云

第十、 一心に阿弥陀仏を称念すれば随順本願の故に必ず往生を得。
故に本願に云く、十方の衆生、心を至し信楽し我国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せんに若し生ぜずんば正覚を取らじと云云

『地蔵占察経』云。至心復有下中上三種差別。何等為三。一者一心。所謂係想不乱。心住了了。二者勇猛心。所謂専求不懈。不顧身命。三者深心。所謂与法相応究竟不退。若人修習此懺悔法。乃至不得下至心者終不能獲清浄善相。已上

『地蔵占察経』云く、至心に復た下・中・上の三種の差別あり。何等かを三とす。一者一心。所謂る想を係けて乱れず、心住して了了たり。二者勇猛心。所謂る専求して、身命を顧りみず懈らず。三者深心、所謂る法と相応し究竟して不退なり、若し人、此の懺悔の法を修習せんに、乃至下の至心をも得ざれば終に清浄善相を獲ること能はず。已上

『浄土論註』云。

『浄土論註』にいわく、

問曰。幾時名為一念。

問ひていはく、いくばくの時をか名づけて一念となす。

答曰。百一生滅名一刹那。六十刹那名為一念。此中云念者不取此時節也。但言憶念阿弥陀仏。若総相若別相。随所観縁心無他相。十念相続名為十念。但称名号亦復如是。

答へていはく、百一の生滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念となす。このなかに念といふはこの時節を取らず。ただ阿弥陀仏を憶念するをいふ。もしは総相、もしは別相、所観の縁に随ひて、心に他想なくして十念相続するを名づけて十念となす。ただ名号を称するもまたかくのごとし。

問曰。心若他縁摂之令還可知念之多少。但知多少復非無間。若凝心注想復依何得記念之多少。

問ひていはく、心もし他縁せば、これを摂して還らしめて念の多少を知りぬべし。ただ多少を知るともまた無間にはあらず。もし心を凝らし想を注げば、またなにによりてか念の多少を記することを得べき。 :

答曰。経言十念者明業事成弁耳。今云。由願力故十念業成。不爾本願応無勝用 不必須知頭数也。如言蟪蛄不識春秋。伊虫豈知朱陽之節乎。知者言之耳。十念業成者是亦神通者言之耳。但積念相続。不縁他事便罷。復何暇須知念之頭数也。若必須知亦有方便。必須口授。不得題之筆点。已上

答へていはく、『経』(観経)に「十念」とのたまへるは、業事成弁を明かすのみ。{今いわく、願力によるが故に十念業成す。しからざれば、本願に勝用なかるべし。}
かならずしも頭数を知ることを須ゐず。「蟪蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。十念業成とは、これまた神に通ず るものこれをいふのみ。ただ念を積み相続して他事を縁ぜざればすなはち罷みぬ。またなんぞ念の頭数を知るを須ゐることを仮らんや。もしかならずすべからく知るべくはまた方便あり。かならずすべからく口授すべし。これを筆点に題することを得ざれ。已上

余遇此注雖喜。不伝口授是恨。然有人云。向於西方折指念仏一心不乱自知頭数。行之可知。是途聴耳。

余、この注にあうことは慶ぶことなりといえども口授を伝えざるは、これを恨むなり。しかるにある人のいわく、西方に向かいて指を折りて念仏すれば一心不乱にして自ずから頭数を知れり。これを行じて知るべし。これ途聴のみ。

今云。設復知数豈退専念。心専注言非唯一境。如前已説。

今いわく、たとへまた数を知る、あに専念を退せんや。

一心専念弥陀名号

又善導和尚云。行有二種。一 一心専念弥陀名号。是名正定業。順彼仏本願故。若依礼誦等。即名助業。除此二行自余諸善悉名雑行。已上

また善導和尚のいわく、行に二種あり。一には一心に弥陀の名号を専念す、これを正定の業と名く彼の仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等によらば、すなわち助業と名く。この二行を除きて自余の諸善はことごとく雑行と名く。已上

是故行者繋念悲願至心称念。除不至心者不順本願故。誠弥陀願非少縁悲願。不勝大悲。立不可得願。如彼薬師立得菩提時 不誓不取正覚。又如千手誓不取正覚 猶未証得菩提。而我法蔵比丘恐誓不取正覚成仏以来於今十劫。随従十方生彼国者猶如駃雨。雖不可得願今者已満足。是幾許修行之功乎。是幾許大悲之力乎。誠以不可思議不可思議。依之非釈尊独讃嘆不可思議悲願。又十方恒河沙諸仏同以称揚咨嗟。幸今遇此願。如子得母。勿空過矣。如世間父母於孝順子其念偏重。況一子慈悲。機念相投引接豈疑。又如善悪法遇勝縁力即非常途。謂肉眼不見障外。依法華功能見大千界。眼識唯縁色塵。依威徳定亦縁法処色。此等非自力。是勝縁力也。准之応知。行業雖疎乗弥陀願十念得往。易往無人斯之謂焉。若不生浄土不遇十念願。今者已得値。
知往生時至。歎喜踊躍向西合掌挙声十念。行住坐臥勿懈。造次顛沛不失。熏修有日往生無疑。如樹西傾倒必随曲。毎眠思臨終必唱十念。至病怖無常不退十念。刀風一至百苦湊身。習先不在懐念何遂。実臨終之十念在尋常之積功。況無常既近将臥病床之暮。対面於西深怯十念之願。
『観経』説下品下生云。或有衆生作五逆十悪。臨命終時遇善知識。彼人苦逼不遑念仏。但称無量寿仏。如是至心令声不絶具足十念。命終之後見金蓮華。如一念頃即得往生。{略抄}
若非十念願彼何得往生。逆者尚爾。何況余人。若爾何故本願中云 唯除五逆誹謗正法。釈有十五家。互為是非恐文繁雑略而不述。
今試釈云。彼本願中除十念後造五逆者。由一念悪滅諸善故。『観経』不爾。故不相違。具如『要記』。我等若持戒精進者 何唯恃弥陀。何偏欣極楽。為破戒懈怠身。貴十念往生願之故也。
彼弥蘭王 問那先羅漢云。人在世間作悪百歳。臨命死時念仏生天。我不信之。又殺一生命死入泥梨。我亦不信。
羅漢返問王言。如人持小石置水上石浮不耶。
王言。没也。
又問。如人持百丈大石置船 上石没不耶。
王云。不没也。
羅漢云。此亦如是。雖有大悪依念力不没泥梨。雖作小悪不知経法死入泥梨。何不信哉。時王聞之心開意解。善哉善哉。云云
明知。五逆盤石乗大願船速往浄土。一業小石無依怙者即没悪道。又造罪之心多有間断。臨終之心極猛利故。十念能滅多劫之罪。如千年積柴以大 豈火焚少時即尽。故『大論』云。
問。将命終時少許勝心云何能勝終身行力。
答。是雖小時而心力猛利能成大事如火如毒。是垂死時心猛利故勝百年行。以捨身及諸根事急故。已上
是故臨終十念謂在決定。行者至命終日要須用心。頃年所期今正是時。迎接在近。信心不懈。威儀具足仏像前坐。散名花焼名香。合掌当額。至心信楽具足十念。彼帳鍾馗販鶏為業。異香満室。
又分洲人殺牛為事。祥雲遶家。皆是依臨終之念仏 除一生之殺罪也。堕悪亦爾。四禅比丘謗解脱堕地獄。五戒優婆塞由愛心為鼻虫。此等亦依臨終之心 排一生之善也。爰知。趣善悪之二道只在臨終之一念。行者用心強助無力。発猛利心念弥陀仏。況聞念仏三昧名者。当知非種少善根者。已無量阿僧祇爾許如来所種諸善根。厚集功徳獲聞此三昧名字少分。何況聞浄土教。毛竪悲泣。若真心徹到皆是久殖解
脱分善根人也。人是故於応得法心不怯弱。以増上意 楽欲必得往生。彼法智者不拘律儀之人也。金光来迎。
雄俊者還俗入軍之輩也。乗台而去。此等皆是心不怯弱之力也。而今弟子戒行雖闕。猶未還俗入軍。行業雖疎 不退三時念誦。何況深恃弥陀之願鎮唱十念。偏修極楽之業。無背四儀 具注別紙。可読之。
彼雄俊尚生。我等何疑。設日月輪落地 実弥陀願不虚。只取仰信作往生意矣。但看病者食酒肉五辛勿在近辺。但不可厭便利不浄。世尊尚不悪。何況余人。又耳辺談世事不令生散乱。偏説往生事弥使発信心。凡厥触事可有用心。又任行者本意。随病者気力更為結縁当垂勧進。善知識之縁最為此時也。
若以音楽合掌歌頌礼拝等事。而種種助成令発勇猛心。若有修観念者不可勧余行。妨観念故。如彼尋禅師之誡也。若不能観念者 更相開暁。為称南無阿弥陀仏無阿弥陀仏。声声相次使成十念。若不堪称名者只作往生之思。心是作業之主受生之本也。心王若西逝業従亦随之。如雲随竜。如民順王。故『安楽集』引『法鼓経』云。若人臨終時不能観念。但知彼方有仏作往生意亦得往生{已上}
故知。臨終永息衆事 唯一心作往生之想。然間楽音髣聞異香且芬大喜自生。此時遥見西方紫雲空靉聖衆来迎。弥陀如来紫金尊容相好端厳白毫赫奕。光明照室。先観音持台安祥徐来。次勢至合掌同以讃嘆。始見此事歓喜是幾。況乗蓮台往生極楽 夫以衆生無始輪迴諸趣。諸仏更出済度無量。恨漏諸仏之利益 猶為生死凡夫。適値釈尊之遺法。盍励出離之聖行。一生空暮再会何日。


真言止観之行 道幽易迷。三論法相之教理奥難悟。不勇猛精進者何修之。不聡明利智者誰学之。朝家簡定賜其賞。学徒競望増其欲。暗三密行忝登遍照之位。飾毀戒質誤居持律之職。実世間之仮名智者之所厭也。今至念仏宗者所行仏号。不妨行住坐臥。所期極楽。不簡道俗貴賤。衆生罪重一念能滅。弥陀願深十念往生。公家不賞自離名位之欲。壇那不祈亦無虚受之罪。況南北諸宗互諍権実之教。
西方一家触無方便之門。鷲峯雲晴四十八願月円。王城春来十六想観花鮮。月光重百練而弥陀影現。花色入七宝而国界厳飾。
幸依念仏之一宗 聊集往生之十因。出輪迴之郷 至不退之土。若非此行復尋何道。無一因不具十因之行。無一念不成九品之因。可謂行高千葉。理光 万代。斯実往生之妙術出離之要道也。於是十因未久発心不少。故知。教者無翼而飛天下。道者非石而重海内。是以垂悲娑界拯含類於苦海。栖思浄土到群生於彼岸。
設雖自後勧他為前。前生者導後。後去者助前。連続無窮無有休息。我願既満衆望亦足。伏乞。臨終之暮各恃十念悲願。浄土之朝恣開九品栄花。

往生拾因一巻

  南都東大寺 沙日永観草
  願共結縁者 往生安楽国

念仏宗六祖。
流支三蔵 恵竉法師 道場法師 曇巒法師 大海禅師 斉朝上交此十因者 為刻彫印字写。作者草本一点一画敢莫取捨。唯仰先師之筆跡擬備結 結之指南矣
宝治二年{戊申}仲奉日 願主比丘往成 此十因自学胤 良乗房之方相伝畢。感悦満胸耳 天文十六年{丁未}卯月日

興福寺前大僧正兼継 七十四


  1. ここでいう坐禅とは静慮の意で、こころ静かに座し仏の法を考察することをいうので、いわゆる禅仏教にいう修行としての座禅ではない。
  2. 稲作では出穂の時期には田の水を止める。この為、用水路では水を失った小魚が溜まり水の中で喘ぐ光景は、つとに眼にする情景であった。ここではそのような情景をいうのである。
  3. 有所得(う-しょとく)。仏教の空の真理を理解せず,物事に執着したり,こだわったりすること。対義語は無所得。
  4. 御開山の引文では「執」になっている。犯と執の筆記体は間違いやすいので、所覧本が執になっていたのであろう。
  5. 御開山の引文では云になってるので、「云」で読み下した。当面読みなら是れ邪行を欲すなり、か。
  6. 第七、一心に阿弥陀仏を称念したまえば、三業相応の故に必ず往生を得る。『法華玄』云く。口業の称名は必ず三業を具す。声を発すは口業、舌を動かすは身業、意に経るるは意業なり。身業の礼拝には身意の二業を具す。意業の存念には唯だ意業のみなり。已上 近代の行者、仏名を念ずる時に、舌口を動かすといえども、声を発せず。あるいは念珠を執りて、ただ数遍を計(かぞ)ふ。ゆえに心、余縁して専念することあたわず。散乱はなはだだ多し。あに成就することを得んや。声を発してたえず仏号を称念すれば、三業相応して専念 自から発る。ゆえに『観経』に説かく。心を至して称名して声をして絶へざらしめよ。
    問。たとい声を発せずも口舌を動かさば、あに口業にあらずや。
    汝、法相を学せずして、この問を致すところなり。彼の舌根を動ずるは即ち身の表業なり。今、語の表業とはいわく言声なり。このゆえに新訳には改めて語業といふ。しかも名句文身は声によって仮立す、もし舌を動かし名を称するは、あに身によらざらんや。
    もししからば何がゆえぞ『秘蔵記』に云。蓮華念誦とは誦音、自の耳に聞ふ。金剛念誦とは小し舌端を動かすと。云云 (ここでいう念誦とは、真言の称え方、声生念誦、蓮華念誦、金剛念誦、三摩地念誦、光明念誦をいう。)
    答。顕密の二行おのおのその理あり。名句文身、語声によるとは、これ顕示に約す。もし隠密を論ぜば、また舌に通ずべし。もし、しからざれば舌を動かす念誦、あに称名ならざる。しかるに今ただ三業の行を勧む。このゆえに動口の称名を取らず。たとひ居を山林に卜し、跡を煙霞にくらまさずとも、あるいは徒然たる日、あるいは寂然たる夜、西に向かいて合掌して声を澄まして称念せよ。数遍の積るに随って専念ようやくもって発せん。 閑窓に日を暮すには八功徳池に心を澄し、空床に夜を暁(あか)すには、満月の尊容に念をかけよ。華の色月の光につけても弥陀の相好を観じ、風の音、烏の声に寄せても浄土の楽音を思ふべし。これを行じて知んぬべし。具(つぶさ)に記することあたわず。もし専念を得ればまさに往生せんことを知るべし。
    又問。三業の中、意業を引となし、身口を満となす。今浄土を勧む何ぞ引業にあらずや。
    答。あに前に釈せずや。専念を成ぜんが為に今、三業相応の口業を勧む。たとひ一念なりといえども、専念もし発せば引業即ち成じ必ず往生を得る。たとひ万遍といえども専念発せずば、引業未熟にして往生を得ず。いかにいわんや三業相応の口業は倶(とも)に浄土の引満の二果を感ずるおや。