顕浄土真実信文類 (末)
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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目 次
信文類三(末)
信一念釈
総標
- 【60】 それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
経・釈引文
『大経』第十八願成就文
【61】 ここをもつて『大経』(下 四一)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。
『如来会』願成就の文
【62】 また(如来会・下*)、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん」とのたまへり。
『大経』聞名の文
また(大経・下 四六)、「その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲はん」とのたまへり。
『如来会』聞名の文
また(如来会・下*)、「仏の聖徳の名を聞く」とのたまへり。{以上}
『涅槃経』聞不具足の文
【63】 『涅槃経』(迦葉品*)にのたまはく、「いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説すれば、利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」とのたまへり。{以上}
『散善義』の二語
【64】 光明寺の和尚(善導)は「一心専念」(散善義)といひ、また「専心専念」(同・意)といへり。{以上}
経釈文自釈(聞によって信をあらわす)
- 【65】 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
獲信の利益(現生十種の益)
- 金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。
専念専心の釈文
- 【66】 宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。
一念転釈
- しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。
- この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。
曇鸞『論註』二文
菩提心の文
【67】 『論の註』(下 一四四)にいはく、「かの安楽浄土に生れんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり」とのたまへり。
是心作仏の文
【68】 またいはく(同・上 八二)、「〈是心作仏〉(観経)とは、いふこころは、心よく作仏するなり。〈是心是仏〉(同)とは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとへば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」とのたまへり。
善導『観経疏』(定善義)の文
【69】 光明(善導)のいはく(定善義・意 四三二)、「この心作仏す、この心これ仏なり、この心のほかに異仏ましまさず」(意)とのたまへり。{以上}
三心一心総結
三心結釈
如実修行相応
六 正
- 【71】 三心すなはち一心なり、一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ、知るべしと。
菩提心追釈
【72】 『止観』の一にいはく*、「菩提とは天竺(印度)の語、ここには道と称す。質多とは天竺の音なり、この方には心といふ。心とはすなはち慮知なり」と。{以上}
重釈要義
横超釈
義釈
- 【73】 横超断四流(玄義分 二九七)といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
文証
『大経』の三文
願の超勝を示す文
【74】 『大本』(大経・上 一五)にのたまはく、「無上殊勝の願を超発す」と。
名声の超勝を示す文
【75】 またのたまはく(同・上 二四)、「われ超世の願を建つ。かならず無上道に至らんと。名声十方に超えて、究竟して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじ」と。
益の超勝示す文
【76】 またのたまはく(同・下 五四)、「かならず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢん。道に昇るに窮極なし。 往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり」と。{以上}
『大阿弥陀経』の文
横に五悪道を截る
【77】 『大阿弥陀経』(下*)[支謙三蔵の訳]にのたまはく、「超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截りて自然に閉塞す。道に昇るにこれ極まりなし。往き易くして人あることなし。その国土逆違せず、自然の牽くところなり」と。{以上}
断四流釈
義釈
- 【78】 断といふは、往相の一心を発起するがゆゑに、生としてまさに受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。ゆゑにすなはち頓に三有の生死を断絶す。ゆゑに断といふなり。四流とはすなはち四暴流なり。また生・老・病・死なり。
文証
『大経』の文
【79】 『大本』(大経・下 四七)にのたまはく、「かならずまさに仏道を成りて、広く生死の流れを度すべし」と。
『平等覚経』の文
【80】 またのたまはく(平等覚経・二*)、「かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし」と。{以上}
『涅槃経』の文
【81】 『涅槃経』(師子吼品*)にのたまはく、「また涅槃は名づけて洲渚とす。なにをもつてのゆゑに、四大の暴河に漂ふことあたはざるがゆゑに。なんらをか四つとする。一つには欲暴、二つには有暴、三つには見暴、四つには無明暴なり。このゆゑに涅槃を名づけて洲渚とす」と。{以上}
善導和尚の釈文
『般舟讃』の文
【82】 光明寺の和尚(善導)のいはく(般舟讃 七九二)、「もろもろの行者にまうさく、凡夫の生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず。厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居せり。隔つればすなはち六道の因亡じ、輪廻の果おのづから滅す。因果すでに亡じてすなはち形と名と頓に絶えぬるをや」と。
『往生礼讃』の文
【83】 またいはく(礼讃 六六〇)、「仰ぎ願はくは一切往生人等、よくみづからおのれが能を思量せよ。[1]今身にかの国に生ぜんと願はんものは、行住座臥にかならずすべからく心を励ましおのれに剋して、昼夜に廃することなかるべし。畢命を期として、上一形にあるは、少しき苦しきに似たれども、前念に命終して後念にすなはちかの国に生じて、長時永劫につねに無為の法楽を受く。乃至成仏までに生死を経ず。あに快しみにあらずや、知るべし」と。{以上}
真仏弟子釈
義釈
経文証
『大経』二文
第三十三願 触光柔軟の願
【85】 『大本』(大経・上 二一)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触るるもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは正覚を取らじと。
第三十四願 聞名得忍の願
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ」と。{以上}
『無量寿如来会』の文
【86】 『無量寿如来会』(上* )にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、周遍十方無量無辺不可思議無等界の有情の輩、仏の威光を蒙りて照触せらるるもの、身心安楽にして人・天に超過せん。もししからずは菩提を取らじ」と。{以上}
『大経』下巻の文
往観偈の文
【87】 また(大経・下 四七)、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」とのたまへり。
智慧明達の文
【88】 またのたまはく(同・下 五九)、「それ至心ありて安楽国に生ぜんと願ずれば、智慧あきらかに達し、功徳殊勝なることを得べし」と。
『如来会』の文
広大勝解の文
【89】 また(如来会・下*) 、「広大勝解者」とのたまへり。
大威徳者の文
【90】 また(如来会・下* )、「かくのごときらの類、大威徳のひと、よく広大異門に生る」とのたまへり。
『観経』分陀利華の文
【91】 またのたまはく(観経 一一七)、「もし念仏するひとは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」と。{以上}
現生利益の釈文証
『安楽集』の五文
【92】 『安楽集』(上 一八五)にいはく、「諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かさば、『大集経』にのたまはく、〈説法のひとにおいては、医王の想をなせ、抜苦の想をなせ。所説の法をば甘露の想をなせ、醍醐の想をなせ。それ聴法のひとは、増長勝解の想をなせ、愈病の想をなせ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪へたり。つねに仏前に生ぜん〉と。{乃至}
(安楽集・下 二五〇)『涅槃経』によるに、仏ののたまはく、〈もし人、ただよく心を至してつねに念仏三昧を修すれば、十方諸仏つねにこの人を見そなはすこと、現に前にましますがごとし〉と。このゆゑに『涅槃経』にのたまはく、〈仏、迦葉菩薩に告げたまはく、《もし善男子・善女人ありて、つねによく心を至し、もつぱら念仏するひとは、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼、もしは夜、もしは座、もしは臥に、諸仏世尊つねにこの人を見そなはすこと目の前に現ぜるがごとし。つねにこの人のためにして受施をなさん》〉と。{乃至}
『大智度論』によるに、三番の解釈あり。第一には、仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。尊ぶところ重くするところ、ただ仏世尊なり。このゆゑに、まさにつねに念仏すべきなり。第二に、もろもろの菩薩ありてみづからいはく、〈われ曠劫よりこのかた、世尊われらが法身・智身・大慈悲身を長養したまふことを蒙ることを得たりき。禅定・智慧、無量の行願、仏によりて成ずることを得たり。報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんことを願ず。また大臣の、王の恩寵を蒙りてつねにその王を念ふがごとし〉と。第三に、もろもろの菩薩ありて、またこの言をなさく、〈われ因地にして悪知識に遇ひて、波若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を経て余行を修すといへども、いまだ出づることあたはず。後に一時において善知識の辺によりしに、われを教へて念仏三昧を行ぜしむ。そのときにすなはちよくしかしながらもろもろの障、まさに解脱することを得しめたり。この大益あるがゆゑに、願じて仏を離れず〉と。{乃至}
(安楽集・上 二〇二)『大経』(下)にのたまはく、〈おほよそ浄土に往生せんと欲はば、かならず発菩提心を須ゐるを源とす。いかんとなれば、菩提はすなはちこれ無上仏道の名なり。もし発心作仏せんと欲はば、この心広大にして法界に周遍せん、この心長遠にして未来際を尽す。この心あまねくつぶさに二乗の障を離る。もしよくひとたび発心すれば、無始生死の有輪を傾く〉(意)と。{乃至}
『大悲経』にのたまはく、〈いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく〉」と。{以上抄出}
善導大師の釈八文
【93】 光明師(善導)のいはく(般舟讃 七三三)、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。{乃至} あるいはいはく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でんと。{乃至}いかんが今日宝国に至ることを期せん。まことにこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん」と。
【94】 またいはく(礼讃 六七六)、「仏世はなはだ値ひがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもつとも難しとす。みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し。大悲弘くあまねく化する。まことに仏恩を報ずるになる」と。
【95】 またいはく(往生礼讃 七〇二)、「弥陀の身色は金山のごとし。相好の光明は十方を照らす。ただ念仏するもののみありて光摂を蒙る。まさに知るべし、本願もつとも強しとす。十方の如来、舌を舒べて証したまふ。もつぱら名号を称して西方に至る。かの華台に到つて妙法を聞く。十地の願行、自然に彰る」と。
【96】 またいはく(観念法門 六一八)、「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり」と。{以上}
【97】 またいはく(序分義 三九〇)、「心歓喜得忍といふは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍に勝へん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談ずるに、いまだ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益を悕はしめんと欲ふ。勇猛専精にし心に見んと想ふときに、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり、解行以上の忍にはあらざるなり」と。
【98】 またいはく(散善義 四九九)、「〈若念仏者〉より下〈生諸仏家〉に至るまでこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、まことに雑善をして比類とすることを得るにあらざることを顕す。すなはちそれに五つあり。一つには、弥陀仏の名を専念することを明かす。二つには、能念の人を指讃することを明かす。 三つには、もしよく相続して念仏するひと、この人はなはだ希有なりとす、さらに物としてもつてこれを方ぶべきことなきことを明かす。ゆゑに分陀利を引きて喩へとす。分陀利といふは、人中の好華と名づく、また希有華と名づく、また人中の上上華と名づく、また人中の妙好華と名づく。この華あひ伝へて蔡華と名づくるこれなり。もし念仏のひとはすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。
四つには、弥陀の名を専念すれば、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることを明かす。五つには、今生にすでにこの益を蒙れり、命を捨ててすなはち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり。かしこに到りて長時に法を聞き、歴事供養せん。因円かに果満ず、道場の座あにはるかならんやといふことを明かす」と。{以上}
傍依の釈文証
便同弥勒
【99】 王日休がいはく(龍舒浄土文)、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。{以上}
経文引証
『大経』
【100】 『大経』(下 四六)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでにむかし無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。
『如来会』
【101】 またのたまはく(如来会・下*)、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この仏土のなかに七十二億の菩薩あり。かれは無量億那由他百千の仏の所にして、もろもろの善根を種ゑて、不退転を成ぜるなり。まさにかの国に生ずべし〉」と。{抄出}
用欽『阿弥陀経疏超玄記』の文
成仏の授記
【102】 律宗の用欽師のいはく、「至れること、華厳の極唱、法華の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と。{以上}
決釈 臨終一念之夕超証大般涅槃
- 【103】 まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。
【104】 禅宗の智覚、念仏の行者を讃めていはく(楽邦文類)、「奇なるかな、仏力難思なれば、古今もいまだあらず」と。
【105】 律宗の元照師のいはく(同)、「ああ教観にあきらかなること、たれか智者(智顗)にしかんや。終りに臨んで『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きき。法界に達せること、たれか杜順にしかんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁きき。禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。業儒、才ある、たれか劉・雷・柳子厚・白楽天にしかんや。しかるにみな筆を秉りて、誠を書して、かの土に生ぜんと願じき」と。{以上}
仮を弁ず
- 仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
引文
『般舟讃』
【107】ゆゑに光明師(善導)のいはく(般舟讃 七二二)、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。
『法事讃』
【108】またいはく(法事讃・下 五四七)、「方便の仮門、等しくして殊なることなし」と。
『般舟讃』
【109】またいはく(般舟讃 七二二)、「門々不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生を証す」と。{以上}
偽を弁ず
- 偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。
引文
『涅槃経』
【111】『涅槃経』(大衆所聞品*)にのたまはく、「世尊つねに説きたまはく、〈一切の外は九十五種を学ひて、みな悪道に趣く〉」と。{以上}
『法事讃』
【112】光明師(善導)のいはく(法事讃・下 五七五)、「九十五種みな世を汚す。ただ仏の一道のみ独り清閑なり」と。{以上}
悲嘆述懐
抑止門釈
難治の機
現病品
【114】 それ仏、難治の機を説きて、『涅槃経』(現病品*)にのたまはく、「迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。
一つには謗大乗、
二つには五逆罪、
三つには一闡提なり。
かくのごときの三病、世のなかに極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。善男子、たとへば病あればかならず死するに、治することなからんに、もし瞻病随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病随意の医薬なからん、かくのごときの病、さだめて治すべからず。まさに知るべし、この人かならず死せんこと疑はずと。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。仏・菩薩に従ひて聞治を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。
もし声聞・縁覚・菩薩ありて、あるいは法を説き、あるいは法を説かざるあらん、それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむることあたはず」と。{以上}
梵行品
【115】 またのたまはく(涅槃経・梵行品*)、「そのときに、王舎大城に阿闍世王あり。その性、弊悪にしてよく殺戮を行ず。口の四悪、貪・恚・愚痴を具してその心熾盛なり。{乃至}しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪着するがゆゑに、父の王辜なきに、横に逆害を加す。父を害するによりて、おのれが心に悔熱を生ず。{乃至}
心悔熱するがゆゑに、遍体に瘡を生ず。その瘡臭穢にして付近すべからず。
すなはちみづから念言すらく、〈われいまこの身にすでに華報を受けたり、地獄の果報、まさに近づきて遠からずとす〉と。そのときに、その母韋提希后、種々の薬をもつてためにこれを塗る。その瘡つひに増すれども降損あることなし。
王すなはち母にまうさく、〈かくのごときの瘡は心よりして生ぜり。四大より起れるにあらず。もし衆生よく治することありといはば、この処あることなけん〉と。
六師外道
ときに大臣あり、名づけて月称といふ。王のところに往至して、一面にありて立ちてまうしてまうさく、〈大王なんがゆゑぞ愁悴して顔容悦ばざる。身痛むとやせん、心痛むとやせん〉と。
王、臣に答へていはまく、〈われいま身心あに痛まざることを得んや。わが父辜なきに横に逆害を加す。われ智者に従ひて、かつてこの義を聞きき。《世に五人あり、地獄を脱れずと。いはく五逆罪なり》と。われいますでに無量無辺阿僧祇の罪あり。いかんぞ身心をして痛まざることを得ん。また良医のわが身心を治せんものなけん〉と。
臣、大王にまうさく、〈大きに愁苦することなかれと。すなはち偈を説きていはく、《もしつねに愁苦せば、愁へつひに増長せん。人眠りを喜めば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪し酒を嗜むも、またまたかくのごとし》と。 王ののたまふところのごとし、《世に五人あり、地獄を脱れず》とは、たれか行きてこれを見て、来りて王に語るや。地獄といふは、ただちにこれ世間に多く智者説かく、王ののたまふところのごとし、《世に良医の身心を治するものなけん》と。いま大医あり、富蘭那と名づく。一切知見して自在を得て、さだめて畢竟じて清浄梵行を修習して、つねに無量無辺の衆生のために、無上涅槃の道を演説す。もろもろの弟子のために、かくのごときの法を説けり。
《黒業あることなければ、黒業の報なし。白業あることなければ、白業の報なし。黒白業なければ、黒白の業報なし。上業および下業のあることなし》と。
この師いま王舎城のうちにいます。やや願はくは大王、屈駕してかしこに行け。この師をして身心を療治せしむべし〉と。ときに王答へていはまく、〈あきらかによくかくのごときわが罪を滅除せば、われまさに帰依すべし〉と。
またひとりの臣あり、名づけて蔵徳といふ。また王のところに行きてこの言をなさく、〈大王、なんがゆゑぞ面貌憔悴して、脣口乾燥し、音声微細なるや。{乃至}なんの苦しむところあつてか、身痛むとやせん、心痛むとやせん〉と。
王すなはち答へていはく、〈われいま身心いかんぞ痛まざらん。われ痴盲にして慧目あることなし。もろもろの悪友に近づきて、これよく提婆達多悪人の言に随ひて、正法の王に横に逆害を加す。われ昔かつて智人の偈説せしを聞きき。《もし父母、仏および弟子において、不善の心を生じ悪業を起さん。かくのごときの果報、阿鼻獄にあり》と。
この事をもつてのゆゑに、われ心怖して大苦悩を生ぜしむ。また良医の救療を見ることなけん〉と。
大臣またいはく、〈やや願はくは大王、しばらく愁怖することなかれ。法に二種あり。一つには出家、二つには王法なり。王法といふは、いはく、その父を害して、すなはち国土に王たるなり。これ逆なりといふといへども、実に罪あることなけん。迦羅羅虫のかならず母の腹を壊りて、しかしてのちいまし生ずるがごとし。生の法かくのごとし。母の身を壊るといへども実にまた罪なし。騾腹の懐妊等またまたかくのごとし。治国の法、法としてかくのごとくなるべし。父兄を殺すといへども、実に罪あることなけん。出家の法は、乃至蚊蟻を殺す、また罪あり。{乃至}
王ののたまふところのごとし、《世に良医の身心を治するものなけん》と。いま大師あり、末伽梨拘賒梨子と名づく。一切知見して衆生を憐愍すること、赤子のごとし。すでに煩悩を離れて、よく衆生三毒の利箭を抜く。{乃至}この師いま王舎大城にいます。やや願はくは大王、そのところに往至して、王もし見ば衆罪消滅せん〉と。ときに王答へていはく、〈あきらかによく、かくのごときわが罪を滅除せば、われまさに帰依すべし〉と。
またひとりの臣あり、名づけて実徳といふ。また王のところに到りて、すなはち偈を説きていはく、〈大王、なんがゆゑぞ身の瓔珞を脱ぎ、首の髪蓬乱せる。乃至かくのごときなるや。{乃至}これ心痛むとやせん、身痛むとやせん〉と。
王すなはち答へていはく、〈われいま身心あに痛まざることを得んや。わが父先王、慈愛仁惻して、ことに見て矜念せり。実に過咎なきに、往きて相師に問ふ。相師答へてまうさく、《この児生れをはりて、さだめてまさに父を害すべし》と。この語を聞くといへども、なほ見て瞻養す。むかし智者の、かくのごときの言をなししを聞きき。《もし人、母と通じ、および比丘尼を汚し、僧祇物を偸み、無上菩提心を発せるひとを殺し、およびその父を殺さん。かくのごときの人は必定してまさに阿鼻地獄に堕すべし》と。われいま身心あに痛まざることを得んや〉と。
大臣またいはく、〈やや願はくは大王、また愁苦することなかれ。{乃至}
一切衆生みな余業あり。業縁をもつてのゆゑにしばしば生死を受く。もし先王に余業あらしめば、王いまこれを殺さんに、つひになんの罪かあらん。やや願はくは大王、意を寛かにして愁ふることなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦すれば、愁へつひに増長す。人眠りを喜めば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪し酒を嗜むも、またまたかくのごとし》〉と。{乃至}刪闍耶毘羅胝子。
またひとりの臣あり、悉知義と名づく。すなはち王の所に至りて、かくのごときの言をなさく。{乃至}
王すなはち答へていはまく、〈われいま身心あに痛みなきことを得んや。{乃至}先王辜なきに、横に逆害を興ず。われまたむかし智者の説きていひしを聞きき。《もし父を害することあれば、まさに無量阿僧祇劫にして大苦悩を受くべし》と。われいま久しからずしてかならず地獄に堕せん。また良医のわが罪を救療することなけん〉と。
大臣すなはちまうさく、〈やや、願はくは大王、愁苦を放捨せよ。王聞かずや、昔王ありき、名づけて羅摩といひき。その父を害しをはりて王位を紹ぐことを得たりき。跋提大王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝迦王・毘舎佉王・月光明王・日光明王・愛王・持多人王、かくのごときらの王、みなその父を害して王位を紹ぐことを得たりき。しかるに、ひとりとして王の地獄に入るものなし。いま現在に毘瑠璃王・優陀邪王・悪性王・鼠王・蓮華王、かくのごときらの王、みなその父を害せりき。
ことごとくひとりとして王の愁悩を生ずるものなし。地獄・餓鬼・天中といふといへども、たれか見るものあるや。大王、ただ二つの有あり。一つには人道、二つには畜生なり。この二つありといへども、因縁生にあらず、因縁死にあらず。もし因縁にあらずは、なにものか善悪あらん。やや願はくは大王、愁怖を懐くことなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦すれば、愁へつひに増長す。人眠りを喜めば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪し酒を嗜むも、またまたかくのごとし》〉と。{乃至}阿耆多翅舎欽婆羅。{乃至}
また大臣あり、名づけて吉徳といふ。{乃至}〈地獄といふは、なんの義ありとかせん。臣まさにこれを説くべし。地は地に名づく、獄は破に名づく。地獄を破せん、罪報あることなけん。これを地獄と名づく。また地は人に名づく、獄は天に名づく。その父を害するをもつてのゆゑに人・天に到らん。この義をもつてのゆゑに、婆蘇仙人唱へていはく、《羊を殺して人・天の楽を得》と。これを地獄と名づく。また地は命に名づく、獄は長に名づく。殺生をもつてのゆゑに寿命の長きを得。ゆゑに地獄と名づく。
大王このゆゑにまさに知るべし、実に地獄なけんと。大王、麦を種ゑて麦を得、稲を種ゑて稲を得るがごとし。地獄を殺しては、還りて地獄を得ん。人を殺害しては、還りて人を得べし。大王いままさに臣(吉徳)の所説を聴くに、実に殺害なかるべし。もし有我ならば実にまた害なし。もし無我ならばまた害するところなけん。なにをもつてのゆゑに。もし有我ならばつねに変易なし、常住をもつてのゆゑに殺害すべからず。
不破・不壊、不繋・不縛、不瞋・不喜はなほ虚空のごとし。いかんぞまさに殺害の罪あるべき。もし無我ならば諸法無常なり。無常をもつてのゆゑに念々に壊滅す。念々に滅するがゆゑに殺者・死者みな念々に滅す。もし念々に滅せば、たれかまさに罪あるべきや。
大王、火、木を焼くに、火すなはち罪なきがごとし。斧、樹を斫るに、斧また罪なきがごとし。鎌、草を刈るに、鎌、実に罪なきがごとし。刀、人を殺すに、刀、実に人にあらず、刀すでに罪なきがごとし。人いかんぞ罪あらんや。毒、人を殺すに、毒、実に人にあらず、毒薬、罪人にあらざるがごとし。いかんぞ罪あらんや。一切万物みなまたかくのごとし。実に殺害なけん。いかんぞ罪あらんや。やや願はくは大王、愁苦を生ずることなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦せば、愁へつひに増長せん。人眠りを喜めば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪し酒を嗜むも、またまたかくのごとし》と。 いま大師あり、迦羅鳩駄迦旃延と名づく〉と。
またひとりの臣あり、無所畏と名づく。〈いま大師あり、尼乾陀若提子と名づく〉と。{乃至}
耆婆の往至
そのときに大医あり、名づけて耆婆といふ。王のところに往至してまうしてまうさく、〈大王、いづくんぞ眠ることを得んや、いなや〉と。
王、偈をもつて答へていはまく、{乃至}〈耆婆、われいま病重し。正法の王において悪逆害を興す。一切の良医・妙薬・呪術・善巧瞻病の治することあたはざるところなり。なにをもつてのゆゑに、わが父法王、法のごとく国を治む、実に辜咎なし。横に逆害を加す、魚の陸に処するがごとし。{乃至}
われ昔かつて智者の説きていひしことを聞きき。《身口意業、もし清浄ならずは、まさに知るべし、この人かならず地獄に堕せん》と。われまたかくのごとし。いかんぞまさに安穏に眠ることを得べきや。いまわれまた無上の大医なし、法薬を演説せんに、わが病苦を除きてんや〉と。
阿闍世の慚愧
耆婆答へていはく、〈善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり。大王、諸仏世尊つねにこの言を説きたまはく、二つの白法あり、よく衆生を救く。
一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。
慚愧無きを畜生と為す
無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善きかな大王、つぶさに慚愧あり。{乃至}
王ののたまふところのごとし。よく治するものなけん。大王まさに知るべし、迦毘羅城に浄飯王の子、姓は瞿曇氏、悉達多と字づく。師なくして自然に覚悟して阿耨多羅三藐三菩提を得たまへり。{乃至}これ仏世尊なり。金剛智ましまして、よく衆生の一切悪罪を破せしむること、もしあたはずといはば、この処あることなけん。{乃至}
大王、如来に弟提婆達多あり。衆僧を破壊し、仏身より血を出し、蓮華比丘尼を害す。三逆罪を作れり。如来、ために種々の法要を説きたまふに、その重罪をしてすなはち微薄なることを得しめたまふ。このゆゑに如来を大良医とす。六師にはあらざるなり〉と。{乃至}
〈大王、一逆を作れば、すなはちつぶさにかくのごときの一罪を受く。もし二逆罪を造らば、すなはち二倍ならん。五逆つぶさならば、罪もまた五倍ならん。大王いまさだめて知んぬ、王の悪業かならず勉るることを得じ。やや願はくは大王、すみやかに仏の所に往づべし。仏世尊を除きて余は、よく救くることなけん。われいまなんぢを愍れむがゆゑに、あひ勧めて導くなり〉と。
そのときに大王、この語を聞きをはりて、心に怖懼を懐けり。身を挙げて戦慄す。
五体掉動して芭蕉樹のごとし。仰ぎて答へていはく、〈天これたれとかせん、色像を現ぜずしてただ声のみあることは〉と。
〈大王、われはこれなんぢが父頻婆沙羅なり。なんぢいままさに耆婆の所説に随ふべし。邪見六臣の言に随ふことなかれ〉と。
ときに聞きをはりて悶絶躄地す。身の瘡、増劇して臭穢なること前よりも倍れり。もつて冷薬をして塗り、瘡を治療すといへども、瘡蒸はし。毒熱ただ増せども損することなし」と。{以上略出}
- 1 大臣、名づけて月称といふ 1 富蘭那と名づく
- 2 蔵徳 2 末伽梨拘賒梨子と名づく
- 3 一の臣あり、名づけて実徳といふ 3 刪闍耶毘羅胝子と名づく
- 4 一の臣あり、悉知義と名づく 4 阿耆多翅舎欽婆羅と名づく
- 5 大臣、名づけて吉徳といふ 5 迦羅鳩駄迦旃延
- 6 無所畏 6 尼乾陀若提子と名づく
梵行品
【116】 またのたまはく(涅槃経・梵行品*)、「〈善男子、わがいふところのごとし、阿闍世王の為に涅槃に入らず。かくのごときの密義、なんぢいまだ解くことあたはず。なにをもつてのゆゑに、われ《為》といふは一切凡夫、《阿闍世王》とはあまねくおよび一切五逆を造るものなり。また《為》とはすなはちこれ一切有為の衆生なり。われつひに無為の衆生のためにして世に住せず。
なにをもつてのゆゑに、それ無為は衆生にあらざるなり。《阿闍世》とはすなはちこれ煩悩等を具足せるものなり。また《為》とはすなはちこれ仏性を見ざる衆生なり。もし仏性を見んものには、われつひにために久しく世に住せず。なにをもつてのゆゑに、仏性を見るものは衆生にあらざるなり。《阿闍世》とはすなはちこれ一切いまだ阿耨多羅三藐三菩提心を発せざるものなり。{乃至}
また《為》とは名づけて仏性とす。《阿闍》は名づけて不生とす、《世》は怨に名づく。仏性を生ぜざるをもつてのゆゑに、すなはち煩悩の怨生ず。煩悩の怨生ずるがゆゑに、仏性を見ざるなり。煩悩を生ぜざるをもつてのゆゑに、すなはち仏性を見る。仏性を見るをもつてのゆゑに、すなはち大般涅槃に安住することを得。これを不生と名づく。このゆゑに名づけて阿闍世とす。
善男子、《阿闍》は不生に名づく、不生は涅槃と名づく。《世》は世法に名づく。《為》とは不汚に名づく。世の八法をもつて汚さざるところなるがゆゑに、無量無辺阿僧祇劫に涅槃に入らず。このゆゑにわれ《阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らず》とのたまへり。善男子、如来の密語不可思議なり。仏法衆僧また不可思議なり。菩薩摩訶薩また不可思議なり。『大涅槃経』また不可思議なり〉と。
月愛三昧
そのときに世尊大悲導師、阿闍世王のために月愛三昧に入れり。三昧に入りをはりて大光明を放つ。その光清涼にして、往きて王の身を照らしたまふに、身の瘡すなはち愈えぬ。{乃至}
王、耆婆にいはまく、〈かれは天中の天なり。なんの因縁をもつてこの光明を放ちたまふぞや〉と。
〈大王、いまこの瑞相は、および王のためにするにあひ似たり。まづいはまく、世に良医の身心を療治するものなきがゆゑに、この光を放ちてまづ王の身を治す。しかうしてのちに心に及ぶ〉と。
王の耆婆にいはまく、〈如来世尊また見たてまつらんと念ふをや〉と。
耆婆答へていはく、〈たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。
もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて仏すなはち慈念したまふ。不放逸のものは心すなはち放捨す。なんらをか名づけて不放逸のものとすると。いはく、六住の菩薩なりと。大王、諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓・老少・中年・貧富・時節・日月星宿・工巧・下賤・僮僕・婢使を観そなはさず、ただ衆生の善心あるものを観そなはす。もし善心あればすなはち慈念したまふ。
大王まさに知るべし、かくのごときの瑞相は、すなはちこれ如来、月愛三昧に入りて放つところの光明なり〉と。王すなはち問うていはまく、〈なんらをか名づけて月愛三昧とする〉と。耆婆答へていはまく、〈たとへば月の光よく一切の優鉢羅華をして開敷し鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく衆生をして善心開敷せしむ。このゆゑに名づけて月愛三昧とす。
大王、たとへば月の光よく一切、路を行く人の心に歓喜を生ぜしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく涅槃道を修習せんものの心に歓喜を生ぜしむ。このゆゑにまた月愛三昧と名づく。{乃至}諸善のなかの王なり。甘露味とす。一切衆生の愛楽するところなり。このゆゑにまた月愛三昧と名づく〉と。{乃至}
そのときに仏、もろもろの大衆に告げてのたまはく、〈一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず。なにをもつてのゆゑに、阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕せん。このゆゑに日に近づきにたり、善友にしくことなし〉と。
阿闍世王また前路において聞く、〈舎婆提に毘瑠璃王、船に乗じて海辺に入りて火に遇ふ、しかうして死ぬ。瞿伽離比丘、生身に地に入りて阿鼻獄に至れり。須那刹多は種々の悪を作りしかども、仏所に到りて衆罪消滅しぬ〉と。
この語を聞きをはりて、耆婆に語りていはまく、〈われいまかくのごときの二つの語を聞くといへども、なほいまだあきらかならず。さだめてなんぢ来れり、耆婆、われなんぢと同じく一象に載らんと欲ふ。たとひわれまさに阿鼻地獄に入るべくとも、冀はくは、なんぢ捉持してわれをして堕とさしめざれ。なにをもつてのゆゑに、われ昔かつて聞きき、《得道の人は地獄に入らず》〉と。{乃至}
〈いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。大王、一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。大王、心に念ひ口に説きて、身になさざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せと勅せず、ただ足を削れといへりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首を斬らまし。坐のときにすなはち斬るとも、なほ罪を得じ。いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。
王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし。なにをもつてのゆゑに。なんぢが父、先王頻婆沙羅、つねに諸仏においてもろもろの善根を種ゑたりき。このゆゑに今日、王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまはざらましかば、すなはち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、なんぢすなはち国のために害を生ずることを得ざらまし。もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。
大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙の五通具足せるを見る。見をはりてすなはち瞋恚悪心を生じき。《われいま遊猟す。得ざるゆゑんは、まさしくこの人の駆逐して去らしむるに坐る》と。すなはち左右に勅してこれを殺さしむ。
その人終りに臨んで瞋を生ず。悪心あつて神通を退失して誓言をなさく、《われ実に辜なし。なんぢ心口をもつて横に戮害を加す。われ来世において、またまさにかくのごとく還つて心口をもつてして、なんぢを害すべし》と。
ときに王、聞きをはりて、すなはち悔心を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いはんや王しからずして、まさに地獄の果報を受くべけんや。先王みづから作りて、還つてみづからこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王のいふところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ、失なきに罪ありといはば、すなはち罪報あらん。悪業なくはすなはち罪報なけん。なんぢが父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅現世のなかにおいて、また善果および悪果を得たり。このゆゑに先王またまた不定なり。不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。
大王、衆生の狂惑におほよそ四種あり。一つには貪狂、二つには薬狂、三つには呪狂、四つには本業縁狂なり。大王、わが弟子のなかに、この四狂あり。
多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯せりと記せず。この人の所作三悪に至らず。もし還つて心を得ば、また犯といはず。王もと国を貪してこの父の王を逆害す。貪狂の心をもつてためになせり。いかんぞ罪を得ん。大王、人の耽酔してその母を逆害せん、すでに醒悟しをはりて、心に悔恨を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報を得じ。王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。
大王、たとへば幻師の四衢道の頭にして、種々の男女・象・馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、たとへば山谷の響きの声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂へり、有智のひとはそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、人の怨あるが、詐り来りて親付するがごとし。愚痴の人は謂うてまことに親しむとす、智者は了達してすなはちそれ虚しく詐れりと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、人鏡を執りてみづから面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、熱の時の炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂はん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂はん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまへり。
大王、人の夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、われみなこれを了れり、すなはち罪あることなけん。王、殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。
大王、たとへば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざれば、すなはちまた酔はざるがごとし。また火と知るといへども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。
大王、もろもろの衆生ありて、日の出づるときにおいて種々の罪を作る、月の出づるときにおいてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるにすなはち罪を作らず。日月によりて、それ罪を作らしむといへども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。{乃至}
大王、たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。
殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといへども、慚愧の人はすなはち有にあらずとす。無慚愧のものはすなはち無にあらずとす。
果報を受くるもの、これを名づけて有とす。空見の人はすなはち有にあらずとす。有見の人はすなはち無にあらずとす。
有有見のものはまた名づけて有とす。なにをもつてのゆゑに、有有見のものは果報を得るがゆゑに。無有見のものはすなはち果報なし。
常見の人はすなはち非有とす。無常見のものはすなはち非無とす。常常見のものは無とすることを得ず。
なにをもつてのゆゑに、常常見のものは悪業の果あるがゆゑに、このゆゑに常常見のものは無とすることを得ず。この義をもつてのゆゑに、非有・非無なりといへども、しかもまたこれ有なり。
大王、それ衆生は出入の息に名づく。出入の息を断つ、ゆゑに名づけて殺とす。諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす〉。{乃至}
阿闍世、無根の信を生ず
〈世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。
世尊、われもし如来世尊に遇はずは、まさに無量阿僧祇劫において、大地獄にありて無量の苦を受くべし。われいま仏を見たてまつる。ここをもつて仏の得たまふところの功徳を見たてまつり、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ〉と。
仏ののたまはく、〈大王、善いかな善いかな、われいまなんぢかならずよく衆生の悪心を破壊することを知れり〉と。
阿闍世、菩提心を起こす
〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉と。
そのときに摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもつてのゆゑに、阿闍世王所有の重罪すなはち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮、采女、ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。
そのときに阿闍世王、耆婆に語りていはまく、〈耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり。命短きを捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ〉と。{乃至}
諸仏の弟子、この語を説きをはりて、すなはち種々の宝幢をもつて、{乃至}また偈頌をもつて、しかうして讃嘆してまうさく、
- 〈実語はなはだ微妙なり。善巧、句義において、
- 甚深秘密の蔵なり。衆のためのゆゑに、
- 所有広博の言を顕示す。衆のためのゆゑに略して説かく、
- かくのごときの語を具足して、よく衆生を療す。
- もしもろもろの衆生ありて、この語を聞くことを得るものは、
- もしは信および不信、さだめてこの仏説を知らん。
- 諸仏つねに軟語をもつて、衆のためのゆゑに粗を説きたまふ。
- 粗語および軟語、みな第一義に帰せん。
- このゆゑにわれいま、世尊に帰依したてまつる。
- 如来の言一味なること、なほ大海の水のごとし。
- これを第一諦と名づく。ゆゑに無無義の語にして、
- 如来いま説きたまふところの、種々無量の法、
- 男女大小聞きて、同じく第一義を獲しめん。
- 無因また無果なり。無生また無滅なり。
- これを大涅槃と名づく。聞くもの諸結を破す。
- 如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。
- まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。
- 世尊大慈悲は、衆のために苦行を修したまふこと、
- 人の鬼魅に着はされて、狂乱して所為多きがごとし。
- われいま仏を見たてまつることを得たり。得るところの三業の善、
- 願はくはこの功徳をもつて、無上道に回向せん。
- われいま供養するところの、仏・法および衆僧、
- 願はくはこの功徳をもつて、三宝つねに世にましまさん。
- われいままさに獲べきところの、種々のもろもろの功徳、
- 願はくはこれをもつて、衆生の四種の魔を破壊せん。
- われ悪知識に遇うて、三世の罪を造作せり。
- いま仏前にして悔ゆ。願はくは後にまた造ることなからん。
- 願はくはもろもろの衆生、等しくことごとく菩提心を発せしめん。
- 心を繋けてつねに、十方一切仏を思念せん。
- また願はくはもろもろの衆生、永くもろもろの煩悩を破し、
- 了々に仏性を見ること、なほ妙徳のごとくして等しからん〉と。
そのときに世尊、阿闍世王を讃めたまはく、〈善いかな善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。まさに知るべし、この人はすなはち諸仏大衆を荘厳すとす。大王、なんぢ昔すでに毘婆尸仏のみもとにして、はじめて阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。これよりこのかた、わが出世に至るまで、その中間においていまだかつてまた地獄に堕して苦を受けず。
大王、まさに知るべし、菩提の心、いましかくのごとき無量の果報あり。大王今より以往に、つねにまさにねんごろに菩提の心を修すべし。なにをもつてのゆゑに、この因縁に従つてまさに無量の悪を消滅することを得べきがゆゑなり〉と。そのときに阿闍世王および摩伽陀国の人民挙つて座よりして起ちて、仏を繞ること三帀して、辞退して宮に還りにき」と。{以上抄出}
迦葉品
【117】 またのたまはく(涅槃経・迦葉品*)、「善男子、羅閲祇の王頻婆沙羅、その王の太子(阿闍世)名づけて善見といふ。業因縁のゆゑに悪逆の心を生じて、その父を害せんとするに、しかるに便りを得ず。そのときに悪人提婆達多、また過去の業因縁によるがゆゑに、またわが所において不善の心を生じて、われを害せんとす。すなはち五通を修して、久しからずして善見太子とともに親厚たることを獲得せり。
太子のためのゆゑに、種々の神通の事を現作す。門にあらざるより出でて門よりして入りて、門よりして出でて門にあらざるよりして入る。あるときは象・馬・牛・羊・男・女の身を示現す。善見太子見をはりて、すなはち愛心・喜心・敬信の心を生ず。これを本とするがゆゑに、種々の供養の具を厳設しこれを供養す。またまうしてまうさく、〈大師聖人、われいま曼陀羅華を見んと欲ふ〉と。
ときに提婆達多、すなはち往きて三十三天に至りて、かの天人に従ひてこれを求索するに、その福尽くるがゆゑにすべて与ふるものなし。すでに華を得ず。この思惟をなさく、〈曼陀羅樹は我・我所なし、もしみづから取らんにまさになんの罪かあるべき〉と。すなはち前んで取らんとするに、すなはち神通を失へり。還りて己身を見れば、王舎城にあり。心に慚愧を生じ、また善見太子(阿闍世)を見ることあたはず。
またこの念をなさく、〈われいままさに如来の所に往至して大衆を求索すべし。仏もし聴さば、われまさに意に随ひて教へて、すなはち舎利弗等に詔勅すべし〉と。そのときに提婆達多、すなはちわが所に来りてかくのごときの言をなさく、〈やや願はくは如来、この大衆をもつてわれに付属せよ。われまさに種々に法を説きて教化してそれをして調伏せしむべし〉と。
われ痴人にいはく、〈舎利弗等、大智を聴聞して世に信伏するところなり。われなほ大衆をもつて付属せじ。いはんやなんぢ痴人、唾を食らふものをや〉と。ときに提婆達多、またわが所においてますます悪心を生じて、かくのごときの言をなさく、〈瞿曇、なんぢいままた大衆を調伏すといへども、勢ひまた久しからじ。まさに見るに磨滅すべし〉と。この語をなしをはるに、大地即時に六反震動す。提婆達多、すなはちのときに地に躄れて、その身の辺より大暴風を出して、もろもろの塵土を吹きてこれを汚坌す。提婆達多、悪相を見をはりて、またこの言をなさく、〈もしわれこの身、現世にかならず阿鼻地獄に入らば、わが悪まさにかくのごときの大悪を報ふべし〉と。
ときに提婆達多、すなはち起ちて善見太子(阿闍世)の所に往至す。善見、見をはりてすなはち聖人(提婆達多)に問はく、〈なんがゆゑぞ顔容憔悴して憂の色あるや〉と。提婆達多いはく、〈われつねにかくのごとし。なんぢ知らずや〉と。善見答へていはく、〈願はくはその意を説くべし、なんの因縁あつてか、爾る〉と。提婆達のいはく、〈われいまなんぢがために、きはめて親愛をなす。
外人なんぢを罵りて、もつて非理とす。われこの事を聞くに、あに憂へざることを得んや〉と。善見太子またこの言をなさく、〈国の人いかんぞわれを罵辱する〉と。提婆達のいはく、〈国の人なんぢを罵りて未生怨とす〉と。善見またいはく、〈なんがゆゑぞわれを名づけて未生怨とする。たれかこの名をなす〉と。提婆達のいはく、〈なんぢいまだ生れざりしとき、一切の相師みなこの言をなさく、《この児生れをはりて、まさにその父を殺すべし》と。このゆゑに外人みなことごとくなんぢを号して未生怨とす。一切内の人、なんぢが心を護るがゆゑに、いうて善見とす。毘提夫人(韋提希)この語を聞きをはりて、すでになんぢを生んとして、身を高楼の上よりこれを地に棄てしに、なんぢが一つの指を壊れり。この因縁をもつて、人またなんぢを号して婆羅留枝とす。
われこれを聞きをはりて心に愁憤を生じて、またなんぢに向かひてこれを説くことあたはず〉と。提婆達多、かくのごときらの種々の悪事をもつて、教へて父を殺さしむ。〈もしなんぢが父死せば、われまたよく瞿曇沙門を殺さん〉と。
善見太子(阿闍世)ひとりの大臣に問はく、名づけて雨行といふ。〈大王、なんがゆゑぞわが字を立てんとするに、未生怨と作るや〉と。大臣すなはちためにその本末を説く。提婆達の所説のごとくして異なけん。善見聞きをはりて、すなはち大臣とともにその父の王を収つて、これを城の外に閉ぢ、四種の兵をもつて、しかうしてこれを守衛せしむ。
毘提夫人(韋提希)、この事を聞きをはりてすなはち王の所に至る。ときに王を守りて、人をして遮りて入ることを聴さず。そのときに夫人、瞋恚の心を生じてすなはちこれを呵罵す。ときにもろもろの守人、すなはち太子に告ぐらく、〈大王の夫人、父の王を見んと欲ふをば、いぶかし、聴してんやいなや〉と。善見、聞きをはりてまた瞋嫌を生じて、すなはち母の所に往きて、前んで母の髪を牽きて、刀を抜きて斫らんとす。
そのときに耆婆まうして大王にいはく、〈国を有つてよりこのかた、罪きはめて重しといへども、女人に及ばず。いはんや所生の母をや〉と。善見太子(阿闍世)、この語を聞きをはりて、耆婆のためのゆゑにすなはち放捨して、遮りて大王の衣服・臥具・飲食・湯薬を断つ。七日を過ぎをはるに、王の命すなはち終りぬと。
善見太子、父の喪を見をはりて、まさに悔心を生ず。雨行大臣、また種々の悪邪の法をもつて、しかうしてためにこれを説く。〈大王、一切の業行すべて罪あることなし。なんがゆゑぞ、いま悔心を生ずるや〉と。
耆婆またいはく、〈大王まさに知るべし、かくのごときの業は罪業二重なり。一つには父の王を殺さん、二つには須陀洹を殺せり。かくのごときの罪は、仏を除きてさらによく除滅したまふひとましまさず〉と。善見王いはく、〈如来は清浄にして穢濁ましますことなし。われら罪人いかんしてか、見たてまつることを得ん〉と。
善男子、われこの事を知らんと。阿難に告げたまはく、〈三月を過ぎをはりて、われまさに涅槃すべきがゆゑに〉と。善見聞きをはりて、すなはちわが所に来れり。われために法を説きて、重罪をして薄きことを得しめき、無根の信を獲しむ。
善男子、わがもろもろの弟子、この説を聞きをはりてわが意を解らざるがゆゑに、この言をなさく、〈如来さだめて畢竟涅槃を説きたまへり〉と。善男子、菩薩に二種あり。一つには実義、二つには仮名なり。仮名の菩薩、われ三月あつてまさに涅槃に入るべしと聞きて、みな退心を生じてこの言をなさく、〈もしそれ如来、無常にして住したまはずは、われらいかがせん。この事のためのゆゑに、無量世のうちに大苦悩を受けき。如来世尊は無量の功徳を成就し具足したまひて、なほ壊することあたはず。かくのごときの死魔をや。いはんやわれらが輩、まさによく壊すべけんや〉と。
善男子、このゆゑに、われかくのごときの菩薩のためにして、この言をなさく、〈如来は常住にして変易あることなし〉と。わがもろもろの弟子、この説を聞きをはりて、わが意を解らざれば、さだめていはく、〈如来はつひに畢竟じて涅槃に入りたまはず〉」と。{以上抄出}
結成勧信
- 【118】 ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。
- たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。
誹謗摂不の問答
問
- 【119】 それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には「唯除五逆誹謗正法」といひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」(如来会・上*)とのたまへり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。
釈答
曇鸞『浄土論註』八番問答より
無量寿経と観経の相違をどう解釈するか
【120】 報へていはく、『論の註』(論註 上 九四)にいはく、「問うていはく、『無量寿経』(下)にのたまはく、〈往生を願ぜんもの、みな往生を得しむ。ただ五逆と誹謗正法とを除く〉(意)と。『観無量寿経』に、〈五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得〉といへり。この二経、いかんが会せんやと。
答へていはく、一経(大経)には二種の重罪を具するをもつてなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもつてのゆゑに、このゆゑに往生を得ず。一経(観経)にはただ十悪・五逆等の罪を作るというて、正法を誹謗すといはず。正法を謗せざるをもつてのゆゑに、このゆゑに生を得しむと。
正法を誹謗するものが往生できないわけ
問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。
正法を誹謗するすがた
問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。
誹謗正法はどうして五逆罪より重いのか
問うていはく、かくのごときらの計はただこれおのれが事なり。衆生においてなんの苦悩あればか、五逆の重罪に踰えんやと。
答へていはく、もし諸仏・菩薩、世間・出世間の善道を説きて衆生を教化するひとましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。なんぢただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆゑに謗正法の人はその罪最重なりと。
十念念仏による業道の超越
問うていはく、業道経にいはく、〈業道は秤のごとし、重きものまづ牽く〉と。『観無量寿経』にいふがごとし。〈人ありて五逆・十悪を造り、もろもろの不善を具せらん。悪道に堕して多劫を経歴して無量の苦を受くべし。命終のときに臨んで、善知識の教へて南無無量寿仏を称せしむるに遇はん。かくのごとき心を至して、声をして絶えざらしめて十念を具足すれば、すなはち安楽浄土に往生することを得て、すなはち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて不退ならん。三塗のもろもろの苦と永く隔つ〉と。まづ牽くの義、理においていかんぞ。また曠劫よりこのかたつぶさにもろもろの行を造れり、有漏の法は三界に繋属せり。ただ十念をもつて阿弥陀仏を念じてすなはち三界を出でば、繋業の義またいかんがせんとするやと。
答へていはく、なんぢ五逆・十悪・繋業等を重とし、下下品の人の十念をもつて軽として、罪のために牽かれてまづ地獄に堕して三界に繋在すべしといはば、いままさに義をもつて軽重の義を校量すべし。心にあり、縁にあり、決定にあり。時節の久近・多少にあるにはあらざるなり。いかんが心にあると。
かの罪を造る人は、みづから虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は、善知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるによりて生ず。一つは実、一つは虚なり。あにあひ比ぶることを得んや。たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。これを在心と名づく。いかんが縁にあると。かの罪を造る人は、みづから妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生によりて生ず。この十念は無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量功徳の名号によりて生ず。たとへば人ありて毒の箭を被りて、中るところ筋を截り、骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けば、すなはち箭出け、毒除こるがごとし。[『首楞厳経』にいはく、〈たとへば薬あり、名づけて滅除といふ。もし闘戦のときにもつて鼓に塗るに、鼓の声を聞くもの、箭出け、毒除こるがごとし。菩薩摩訶薩も、またまたかくのごとし。首楞厳三昧に住してその名を聞くもの、三毒の箭、自然に抜出す〉]と。あにかの箭深く、毒厲しからんと、鼓の音声聞くとも、箭を抜き毒を去ることあたはじといふことを得べけんや。これを在縁と名づく。いかんが決定にあると。かの罪を造る人は有後心・有間心に依止して生ず。この十念は無後心・無間心に依止して生ず。これを決定と名づく。三つの義を校量するに、十念は重なり。
重きものまづ牽きて、よく三有を出づ。両経一義なるならくのみと。
十念というときの念の意味
問うていはく、いくばくの時をか名づけて一念とするやと。
答へていはく、百一の生滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念とす。このなかに念といふは、この時節を取らざるなり。ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは総相もしは別相、所観の縁に随ひて心に他想なくして十念相続するを名づけて十念とすといふなり。ただ名号を称することもまたまたかくのごとしと。
憶念の多少を数えられるのか
問うていはく、心もし他縁せば、これを摂して還らしめて念の多少を知るべし。ただし多少を知らば、また間なきにあらず。もし心を凝らし想を注めば、またなにによりてか念の多少を記することを得べきやと。
答へていはく、『経』(観経)に十念といふは、業事成弁を明かすならくのみ。かならずしも、すべからく頭数を知るべからざるなり。〈蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや〉といふがごとし。知るものこれをいふならくのみ。十念業成とは、これまた神に通ずるものこれをいふならくのみ。ただ念を積み相続して他事を縁ぜざれば、すなはち罷みぬ。またなんぞ、仮に念の頭数を知ることを須ゐんや。もしかならず知ることを須ゐば、また方便あり。かならず口授を須ゐよ、これを筆点に題することを得ざれ」と。{以上}
善導の釈二文
抑止門釈
【121】 光明寺の和尚(善導)いはく(散善義 四九四)、 「問うていはく、四十八願のなかのごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、誹謗を簡ひて五逆を摂せるは、なんの意かあるやと。
答へていはく、この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生のなかに五逆を取りて謗法を除くとは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。
もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。かしこに生ずることを得といへども、華合して多劫を経ん。これらの罪人、華の内にあるとき三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じ。これを除きて以外は、さらにもろもろの苦なけん。『経』にいはく、〈なほ比丘の三禅の楽に入るがごときなり〉と、知るべし。華のなかにありて 多劫開けずといふとも、阿鼻地獄のなかにして長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。この義、抑止門につきて解しをはりぬ」と。{以上}
仏願力による滅罪と回心
【122】 またいはく(法事讃・上 五一八)、「永く譏嫌を絶ち、等しくして憂悩なし。人天善悪みな往くことを得。かしこに到りて殊なることなし、斉同不退なり。なにの意かしかるとならば、いまし弥陀の因地にして世饒王仏の所にして、位を捨てて家を出づ、すなはち悲智の心を起して広く四十八願を弘めたまふによりてなり。仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く」と。{抄出}
五逆追釈
【123】 五逆といふは(往生十因 *)、「もし淄州によるに五逆に二つあり。
一つには三乗の五逆なり。いはく、
一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づくと。
また『倶舎論』のなかに、五無間の同類の業あり。かの頌にいはく、
〈母・無学の尼を汚す、[母を殺す罪の同類。]
住定の菩薩、[父を殺す罪の同類。]
および有学・無学を殺す、[羅漢を殺す同類。]
僧の和合縁を奪ふ、[僧を破する罪の同類。]
卒都波を破壊する、[仏身より血を出す]〉と。
二つには大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。
〈一つには塔を破壊し経蔵を焚焼する、および三宝の財物を盗用する。
二つには三乗の法を謗りて聖教にあらずというて、障破留難し隠蔽覆蔵する。
三つには一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し還俗せしめ、駈使債調し断命せしむる。
四つには父を殺し、母を害し、仏身より血を出し、和合僧を破し、阿羅漢を殺す。
五つには謗して因果なく、長夜につねに十不善業を行ずるなり〉と。{以上}
かの『経』(十輪経)にいはく、
〈一つには不善心を起して独覚を殺害する、これ殺生なり。二つには羅漢の尼を婬する、これを邪行といふなり。三つには所施の三宝物を侵損する、これ不与取なり。四つには倒見して和合僧衆を破する、これ虚誑語なり〉」と。{略出}
顕浄土真実信文類 三